Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

信仰告白交響曲

2024-11-11 | 文化一般
来年のルツェルンの宿を予約した。同じ部屋をとった。決して満足ではなく値上がりしていて限界に近くなっている。二泊三日で何も考えずに使えるだけで、それ以上に安価で便利なところがあればと思うが、現時点では見つからない。290ユーロ程になるので、精々ガレージの場所ぐらいは確保したい。初日に入庫した時に場所取りできる方法を考えておくべきか。何かはっきりしたものを置いておけばいいかもしれない。三角コーンの安いやつでも車に積んでいくか。現在使っている三角停止枠を取っておいて、その上に何か英語で書きものでもしておけば普通は退けて迄は割り込まない。私の様な常連さんばかりでもないだろう。アイデアはある筈だ。ガレージに停めておけるならば宿代は高くはない。

さてブルックナーを再び思い出している。四楽章に関してはまだ殆ど書いていなかった。なぜだか忘れたが、どうもフガートからそしてドッペルフーガがまだまだ音楽的すっきりとしていなかったからだ。それは一部には演奏者側においてももう少し明確化しないといけないところが見つかったのと同じだ。

早いテムピで以って史上初あるべき音が鳴っているのは事実でも、もう少し自由に演奏可能となれば明らかにより音楽的に呼吸できると確信する場面があった。今回の公演で如何にスカラ座で魅せたような棒捌きが可能なのか。そこに掛かっていて、より音楽的な核心を自由自在に演奏できるのか。

9月の音楽祭での成果があまりにも歴史的であって、火曜日の演奏がその先から再開可能なのかどうか。それは繰り返すが、こちらの音楽への把握もあるのだが、やはりこの曲は演奏だけが難しいのではない。

なるほど描かれている世界感は、既に二楽章のポリリズムとしては触れているのだが、三位一体に様々に顕現する姿がもう一つ定まらないところがある。丁度マーラーに七番においてルツェルンではまだまだ早く通り過ぎて仕舞っていたのが、フランクフルトではより音楽的に把握されたのと似ているだろう。

スケルツォにおいての水車の様なそれも隠されたヨーデルに表れるそれもが、更にトリオではとなる。そこには三連符での拘り、そしてフィナーレでの12の数字とまるでバッハの作品の様に象徴的な意味が確信をもって隠されている。それが音楽的にも認知されるかどうかである。

三分割が自然に拍節として半分に割れるのは当然であり、父なる神、神の子キリスト、そして聖霊によっての三位一体によって為されるとする神学の基礎である。これだけ組み合わせている交響曲をブルックナーは他に書いていないであろう。

私が車の番号にゲンを担ぐのとはわけが違う。全く以って確信に満ちた信仰告白であり、どのような場面の感興においても神の姿をその宇宙を感じていた作曲家であることがよく知れる。今更ながら信仰告白交響曲のようにも思われる。
Bruckner: Symphony No. 5 / Petrenko · Berliner Philharmoniker 終楽章から




参照:
歩きたい綺麗な街路 2024-11-10 | 雑感
追想の音響への眼差し 2024-09-16 | 音
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