(承前)フィナーレでのゆったりしたテムポ運び。同時にその儘のアンサムブルを大河の如く、たゆたゆと流すその指揮、誰も出来なかったことのようである。リズムを保持してゆったりと時が流れて行かなければその創作の意思は通じない。
同様な経験は楽劇でも演奏会においても時々ある。恐らく多くの聴者にとっては意識が薄くなる所とも思われがちではあるが、実際にそのように書かれて目した効果と気が付くこともある。一方で多くの演奏家、この場合は指揮者などは取り分けフィナーレで大きな効果を上げようと苦慮して何かを仕掛けてくることも、若しくはそのテムポのリズムの維持が難しくなることもあるだろう — ペトレンコは緊迫とは反対に然し何時もの様にダイナミックスを丁寧に、そしてデュナ―ミックをアーティキュレーションとして丁寧に指揮していた。
「ばらの騎士」のフィナーレは、クライバー指揮の様に誤って演奏し続けられてきたのだが、作曲家と直接の繋がりのあるベーム博士の指揮録音などを改めて聴いてみても、やはり三重唱においてもポリリズム的な扱いも叶わずその後もシステムが多くなると読み切れていない感が強い。硬直した不器用そうな弾かせ方によりフレージングの不確かさもあり、それとは違って1928年3月の作曲家自作自演指揮のミラノでの公演ではさぞかししっかりと演奏されていただろうと思われる。今回のペトレンコ指揮がその意思を繋いだと批評された所以でもあろう — 96年前に聴いた人が両者を比べた訳ではなかろうが。
[High quality]R.Strauss - Der Rosenkavalier Act-3/Karl Böhm & Staatskapelle Dresden,Irmgard Seefried
リズムを崩さずにテムポを保ちながら繋がって、その魔笛風の二重唱が楽劇となりヤーヤ―のヨーデルへと運ぶからこそ、そこで懐かしい時の知覚が戻される。同じような劇場での進む時が流れるのは、メシアンの「アシジの聖フランシスコ」でのフィナーレでも共通している。ヨーデルでその虚の時がアルムの草原での幻覚か幻聴のような世界への認識が表徴する。ばらの騎士オクタヴィアンが登場した世界が響く。
永遠の時、歴史の時、そして最後のエピローグを挟んで聴衆は今の時に戻される。モーツァルトの「コシファンテュッテ」は愛の学校の副題を持ったが、正しくここでは時の学校で、当時の非ユークリッド空間認識への芸術が繰り広げられることになる。
この「音楽の為のコメディー」の本質はここにしかなかった。既にこの楽劇の初演にも立ち会ったマンのその創作における認知としての論文に関しては既に言及した。そこに「魔の山」の中の一節が取り挙げられている。主人公とそこに暮らす従兄弟のヨアヒムの会話からである、「そう、時間とは不思議なもので、それを時間で以って取り扱うのは難しい」の節である。
ホフマンスタールのテキストとしては、「時は特別なもの」としてマルシャリンによって発声される。
既に書いた、それをペトレンコが、それをプロジェクトーをも使って表現したクッパ―演出に沿って、正しく楽譜を音化した方法をである。これにて、20世紀の音楽劇場の起点にあったこのコメディ劇を100年以上の時を経過して漸く表現した。音楽劇場指揮者としてのペトレンコが初めて大成功した制作再演であった。(終わり)
参照:
細やかな音楽的表現 2023-04-27 | 音
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
同様な経験は楽劇でも演奏会においても時々ある。恐らく多くの聴者にとっては意識が薄くなる所とも思われがちではあるが、実際にそのように書かれて目した効果と気が付くこともある。一方で多くの演奏家、この場合は指揮者などは取り分けフィナーレで大きな効果を上げようと苦慮して何かを仕掛けてくることも、若しくはそのテムポのリズムの維持が難しくなることもあるだろう — ペトレンコは緊迫とは反対に然し何時もの様にダイナミックスを丁寧に、そしてデュナ―ミックをアーティキュレーションとして丁寧に指揮していた。
「ばらの騎士」のフィナーレは、クライバー指揮の様に誤って演奏し続けられてきたのだが、作曲家と直接の繋がりのあるベーム博士の指揮録音などを改めて聴いてみても、やはり三重唱においてもポリリズム的な扱いも叶わずその後もシステムが多くなると読み切れていない感が強い。硬直した不器用そうな弾かせ方によりフレージングの不確かさもあり、それとは違って1928年3月の作曲家自作自演指揮のミラノでの公演ではさぞかししっかりと演奏されていただろうと思われる。今回のペトレンコ指揮がその意思を繋いだと批評された所以でもあろう — 96年前に聴いた人が両者を比べた訳ではなかろうが。
[High quality]R.Strauss - Der Rosenkavalier Act-3/Karl Böhm & Staatskapelle Dresden,Irmgard Seefried
リズムを崩さずにテムポを保ちながら繋がって、その魔笛風の二重唱が楽劇となりヤーヤ―のヨーデルへと運ぶからこそ、そこで懐かしい時の知覚が戻される。同じような劇場での進む時が流れるのは、メシアンの「アシジの聖フランシスコ」でのフィナーレでも共通している。ヨーデルでその虚の時がアルムの草原での幻覚か幻聴のような世界への認識が表徴する。ばらの騎士オクタヴィアンが登場した世界が響く。
永遠の時、歴史の時、そして最後のエピローグを挟んで聴衆は今の時に戻される。モーツァルトの「コシファンテュッテ」は愛の学校の副題を持ったが、正しくここでは時の学校で、当時の非ユークリッド空間認識への芸術が繰り広げられることになる。
この「音楽の為のコメディー」の本質はここにしかなかった。既にこの楽劇の初演にも立ち会ったマンのその創作における認知としての論文に関しては既に言及した。そこに「魔の山」の中の一節が取り挙げられている。主人公とそこに暮らす従兄弟のヨアヒムの会話からである、「そう、時間とは不思議なもので、それを時間で以って取り扱うのは難しい」の節である。
ホフマンスタールのテキストとしては、「時は特別なもの」としてマルシャリンによって発声される。
既に書いた、それをペトレンコが、それをプロジェクトーをも使って表現したクッパ―演出に沿って、正しく楽譜を音化した方法をである。これにて、20世紀の音楽劇場の起点にあったこのコメディ劇を100年以上の時を経過して漸く表現した。音楽劇場指揮者としてのペトレンコが初めて大成功した制作再演であった。(終わり)
参照:
細やかな音楽的表現 2023-04-27 | 音
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感