煮た肉とそのスープを取りにいった。常連の親仁さんが、乗ってきて停めてあったのが真っ赤なフェラーリのオープンカーであったようだ。その親仁もタッパを持ってきて同じようなものを買って行ったが、帰りにエンジンをかけるとたっぷりと排ガスを吐き出した。昔のポルシャと音量は変わらなかったが、シリンダーが格段に太いのはその音で分かった。
ポストを覘くとバーデン・バーデンから催し物の案内が入っていた。2009年のプログラムかと思えば、2007年2008年シーズンのプログラムであった。BLOGを通して指揮者クラウディオ・アバドのオペラ公演の事などを知っていたので関心を持って頁を捲る。
しかし、そこに写っている写真の数々の醜さに驚いた。謂わば、芸術家や文化人どころか、まともな市民層の顔が見えないのである。芸能誌の表紙やブルーバード大衆紙を見るようである。そういえば、フランクフルターアルゲマイネ紙も紙面が十日ほど前に四色刷りになったが、その価値は未だに確認出来ていない。出来れば白黒版で定期購読価格を下げて貰いたい。
さて、バーデン・バーデンのプログラムの曲目や出し物などを見て、興味を引いたのは一つ二つであって、それ以外にもそこに最低料金まで表示されているに係わらず、なんら興味を持てないのは重症である。
何が重症なのか?今の時期になっても売れ残る2007年のプログラムの宣伝されているのみならず、そこに殆ど文化的なものが発見されないのが重症なのである。ここ暫らく、ザルツブルク音楽祭にも通っていないが、状況は同じようなものではないのか。
笑わされるのは、そこで観劇した2004年のケント・ナガノ指揮のパルシファル公演の写真である。舞台の穴から出てくるミイラ状のゾンビは一体何なのか。その演出を思い出そうとするが、これほどの馬鹿らしさはすっかり忘れていた。確か、初日には女性首相が臨席していて、減らず口をぺらぺらと開いていたのを思い出す。なんと、程度の低い文化なのか?もう、これ以上は、口を閉じて、ヘーゲル教授に語って貰う。
(フィヒテの哲学から生ずる個性の形態である憧れ)を一面では美と呼びます*。美しい精神は、そこに留まりません。そうではなくて、それは、また上手く作用するのです。その「憧れの形態」は、ある状態なのです。つまり、厚かましさであり、虚なのであります。皮肉に満ちた主体は、芸術家そのもので、その生涯は彼の個性の芸術的な表現なのです。その形態の秩序は、芸術の最高の状態と神々しさを表現する 皮 肉 なのであります。しかし「滑稽味」は、皮肉と取り違えられるものではありません。皮肉は、表現されるものの基調であり、人々はそれに本当に含蓄のある興味を持っています。ドレスデンのティークは、嘗てないほど傑出しています。彼は、批評では必ずその皮肉について語り、他の者と等しく、これを使って偉くみせることに長けています。ティークが偉大な作品を批評するときもであります。例えば、彼の「ロメヲとジュリエット」の批評は卓越しています。なぜならば、つまり、彼は一言も皮肉については触れないからであります。……それにここで皮肉について説明するのは容易ではありません。きっと、そこで、皮肉にも魔が注したかもしれません。
バーデン・バーデンにはそこに欠ける教養を育成する文化を必要として発足した、巨大音楽劇場であったが、こうして見ると故アドルノ氏に登場願うまでもなく、姉妹音楽祭と半分半分のふたつ合わせて教養となるように、それを追求すればきっと経済も上手く走るのだ。
*ここで教授はモリエールの「ラヴァーレ」を捩って演じているという。それはローマのコメディー「アウルラーリア」を下敷きにしている。金満家になってもけちで頭の固い親父と消費好きの子供達の話である。
ポストを覘くとバーデン・バーデンから催し物の案内が入っていた。2009年のプログラムかと思えば、2007年2008年シーズンのプログラムであった。BLOGを通して指揮者クラウディオ・アバドのオペラ公演の事などを知っていたので関心を持って頁を捲る。
しかし、そこに写っている写真の数々の醜さに驚いた。謂わば、芸術家や文化人どころか、まともな市民層の顔が見えないのである。芸能誌の表紙やブルーバード大衆紙を見るようである。そういえば、フランクフルターアルゲマイネ紙も紙面が十日ほど前に四色刷りになったが、その価値は未だに確認出来ていない。出来れば白黒版で定期購読価格を下げて貰いたい。
さて、バーデン・バーデンのプログラムの曲目や出し物などを見て、興味を引いたのは一つ二つであって、それ以外にもそこに最低料金まで表示されているに係わらず、なんら興味を持てないのは重症である。
何が重症なのか?今の時期になっても売れ残る2007年のプログラムの宣伝されているのみならず、そこに殆ど文化的なものが発見されないのが重症なのである。ここ暫らく、ザルツブルク音楽祭にも通っていないが、状況は同じようなものではないのか。
笑わされるのは、そこで観劇した2004年のケント・ナガノ指揮のパルシファル公演の写真である。舞台の穴から出てくるミイラ状のゾンビは一体何なのか。その演出を思い出そうとするが、これほどの馬鹿らしさはすっかり忘れていた。確か、初日には女性首相が臨席していて、減らず口をぺらぺらと開いていたのを思い出す。なんと、程度の低い文化なのか?もう、これ以上は、口を閉じて、ヘーゲル教授に語って貰う。
(フィヒテの哲学から生ずる個性の形態である憧れ)を一面では美と呼びます*。美しい精神は、そこに留まりません。そうではなくて、それは、また上手く作用するのです。その「憧れの形態」は、ある状態なのです。つまり、厚かましさであり、虚なのであります。皮肉に満ちた主体は、芸術家そのもので、その生涯は彼の個性の芸術的な表現なのです。その形態の秩序は、芸術の最高の状態と神々しさを表現する 皮 肉 なのであります。しかし「滑稽味」は、皮肉と取り違えられるものではありません。皮肉は、表現されるものの基調であり、人々はそれに本当に含蓄のある興味を持っています。ドレスデンのティークは、嘗てないほど傑出しています。彼は、批評では必ずその皮肉について語り、他の者と等しく、これを使って偉くみせることに長けています。ティークが偉大な作品を批評するときもであります。例えば、彼の「ロメヲとジュリエット」の批評は卓越しています。なぜならば、つまり、彼は一言も皮肉については触れないからであります。……それにここで皮肉について説明するのは容易ではありません。きっと、そこで、皮肉にも魔が注したかもしれません。
バーデン・バーデンにはそこに欠ける教養を育成する文化を必要として発足した、巨大音楽劇場であったが、こうして見ると故アドルノ氏に登場願うまでもなく、姉妹音楽祭と半分半分のふたつ合わせて教養となるように、それを追求すればきっと経済も上手く走るのだ。
*ここで教授はモリエールの「ラヴァーレ」を捩って演じているという。それはローマのコメディー「アウルラーリア」を下敷きにしている。金満家になってもけちで頭の固い親父と消費好きの子供達の話である。
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