Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

エルブの容赦無い音響

2017-01-16 | 
興味はないと書いたが、エルブフィルハーモニーの式典での音響に関して書いてあるとなると読まなければならない。豊田泰久の音響デザインは明白性があってもむしろ響き過ぎるというのが定評のようだ。そして今回のワインヤード型ではその視覚上の見やすさのように、まるでスタディオのように聞こえ過ぎると書かれている。当然ながら修正されることもあるだろうとしながら、舞台の音も客席の音も同じように聞こえ過ぎるらしい。つまりざわつきだけでなくて、少しの演奏上の間違いがはっきりと聞こえるというのだ。

視覚と聴覚の印象に差異が無いというのは先ず基本らしいが、音楽的な方向として分析的な響きに重きが置かれるということになるだろう。恐らく今後ともグスタフ・マーラーの交響曲のような大音響の創作はポピュラー部門以外では創作されることはないと思うが、細やかな丁度舞台音楽では昨年初演の「南極」のような書法はライヴエレクトロニクスと同様に演奏される機会が多くなると思われる。その意味からは細部が分離するぐらいの音響は間違っていないのだろう。但し音の混ざり方も調性音楽だけに関わらず重要な要素であることからすれば、鳴りきるだけの音響のつまり消えていくだけの容量があるならば濁らずに混ざるということも必要なのだろう。

そしてここまで書いて放送録画を流してみる。なるほどパルシファル前奏曲でもその明白さは弓の動きや金管のブレスまで分離して聞こえるので楽師さんにとっても指揮者にとっても厳しそうだ。しっかりテムポを与えてアーティキュレーションしての指揮の挙動まで聞こえてしまう。なるほど新聞にヴィーンからフィルハーモニカ―が来て試練を受けるというような意味合いにも読み取れた。誤魔化せば誤魔化すほど下手に聞こえそうである。しかしシカゴ交響楽団にはよいだろう。NDRは交響楽団に更に視聴料をつぎ込むつもりか?

視覚的にはぶつぶつの壁も悪くはない。あれは自宅で使いたいと思う人もいるかもしれない。そして客席と舞台が近いのに驚く。センターマイクからの音も可成り近接な感じがする。合唱交響曲になると弦の弾かせ方などはなるほどと思う。「こんな音ではない」の歌で思い出した。

2000年に亡くなったハリウッドの役者ヴェルナ―・クレムペラーが名指揮者オットー・クレムペラーの息子さんとは知らなかった。こちらでは90年代に放送されていたCBSのホーガンスヒーローズでクリンクとして有名な役者だった。その他、「グレの歌」の小澤盤でも語りを受け持っている。
Hogan's Heroes S01E02 Hold That Tiger

参照:
ピエール・ブーレーズの家構想 2017-01-14 | 文化一般
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
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ドイツ製ゴーグルの対照性

2017-01-15 | アウトドーア・環境
注文したゴーグルが届いた。ネットで観た通りグラスに色が結構ついている。早速眼鏡の上に掛けてみる。眼鏡の横枠が当たったのでスポーツ用のそれに掛け替えてもう一度試してみる。きっちりと枠が納まる。色の感じは室内では暗い。しかしコントラストが強調されているのは間違いなさそうで、皆が暗さを気にして「天気が良くても悪くても雪面が見えやすいので効果がある」とアマゾンに書いてあるのも嘘ではないだろう。それでも今まで使っていたものと比較すると明らかに暗い。雪上のそれも高山となると紫外線量が異なるので吹雪の時でもこれの方が視界が効くということを期待したい。晴天の日も雪面の反射で走行している足元が見えなくなることが多いがそれは無くなるかもしれない。スピードが出ている比較的平地では間違いなく役立つだろう。

肝心の悪天候もしくは深雪の雪嵐のような急斜面の滑りで視界が効くかどうか?そもそも本格的に吹雪いてしまえば光とは関係無しに前は見えなくなる。吹雪で曇らないことの方が重要である。また雪の中で転がった時にも曇ると復帰に時間が掛かる。雪面で試してみなければ分からない。

大きさは前回のものよ売りも一回り小さくなっていて、だから眼鏡用ゴーグルOTGでも眼鏡の枠が当たるのだ。それでもパッドで抑えられる形になるので、中で眼鏡が緩むことが無いこれは大きな長所だろう。更に形が前に張り出して横に巻き込む形になっているので、横の視界も悪くないかもしれない。眼鏡との一体感が計られてよりスポーティーになっているのは間違いない。メードインジャーマニーの品質を享受可能か?

木曜日の夜から荒れた。ここでは雪にはならなかったが、気温が高く雪は融けたようだが、籠もり部屋は冷え気味だ。折角暖めても屋根が風で熱を奪うようで、断熱は出来ていても室温が下がった。加熱しても室温も充分に上がらない。それでもいつかのように窓の隙間から雪がちらついてくるような感じではなく降雨の割には乾いた感じなのが良い。

腰痛は一週間にして通常の張り状態に戻り、日に日に回復しているが、まだ走るだけの状態にはない。週明けにはパン屋が開くのでいつもの場所には出かけるが、雪が乗っていて走れるような状況かどうかは分からない。少し体を動かしておかないと不安でもあるので方策を考えよう。



参照:
腰痛日誌二日目、買物 2017-01-08 | 生活
否の無いスマートさ 2016-02-14 | 雑感
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ピエール・ブーレーズの家構想

2017-01-14 | 文化一般
エルブフィルハーモニー開館の話題が新聞に載っている。しかしその前日のロマーン・ヘルツォーク元大統領の訃報ほど関心はない。何といっても大統領として最も価値のある発言を数多く残した大統領であり、最も印象に残った眼はヴァイツゼッカー元大統領のそれだったが、言葉においては遥かに知的で深みがあった ― そして死の直前にも最高勲章の授与を辞退して話題になっていた。このように書けばどのような元憲法裁判所の判事だったか分かるだろう。

フィルハーモニーの開館は式典がネットで中継されることは知っていたが直ぐに忘れていた。昨年からのいろいろなプログラムを見ていたがフランクフルトのアルテオパーで聞けないものはNDRの放送管弦楽団とハムブルクの座付き管弦楽団演奏会位でその他は殆んど興行師が同じだった。要するに現支配人は、ベルリンでペトレンコ体制の支配人となるのだが、あまり業界で企画などが出来る人ではないということだろう。

それよりも興味深いのはバーデンバーデンのピエール・ブーレーズ邸が売りに出されているという記事である。同時にその利用の可能性が提議されている。ハムブルクのそれとは違って僅か三億円ほどのことであるから税金を注入しても容易い筈だ。

1958年にその50部屋ある家の二階の間借り人となってから次々と買い足していったということである。550平米あるその家で数々の名作が作曲された。丁度トンネルの反対側のブラームスの夏の短い滞在とは異なる創作の場所である。遺言等はなくとも本人の意思から、ミュージアムやその他の扱いではなくて、フェストシュピールやZKMなどと活きた音楽の館として使っていきたいという案がある。

既に所有のクレーの名画などは相続人11人の中で売却されており、また音楽的な自筆譜などの資料はバーゼルのパウル・ザッハー財団に寄与されていることから、この自宅が大きな相続物件となっている。ブーレーズアカデミーにバーデン・ヴュルテムベルクの援助がされる可能性があり、ベルリンのフィハーモニカ―やSWR音楽部や元管弦楽団員、カールツルーヘのZKM、ドナウエッシンゲン音楽祭のシュペートケーラー未亡人などが名を連ねているが、まだまだハウス維持への協力者を広く求めているということである。既にロシア人から不動産物件への投資の問い合わせが入っているというので急がなければ売却されてしまうというのだ。

バーデンバーデンの祝祭を文化的にも定着させようと思えば何らかの形でブーレーズの家構想に地域社会も協力すべきだろう。ベルリオーズとかリストなどとの公爵時代の関係とブラームスやロシアの文豪の夏の保養地というだけではモーツァルトのザルツブルクとは勝負にならない。ブーレーズから連なる現代音楽の新たな活動拠点として定着すれば若い人々の活動や行き来も増えるに違いない。


写真:赤丸の大きい方から、クアハウス、祝祭劇場、ブーレーズハウス。



参照:
ピエール・ブレーズ追悼記事 2016-01-08 | 文化一般
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
右の耳が痒いから 2005-04-23 | 歴史・時事
普通の国のまともな大統領 2010-06-02 | 歴史・時事
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ヘアースタイルフェティシズム

2017-01-13 | 
久しぶりに我がユリアの顔を見た。髪型が少し変わっていてもしやと思ったが、後ろのポニーテールは変わっていなかった。益々私好みのザクセン風美人になってきている。髪型の感じで十年後二十年後の感じが分かるようになってきた。母親の感じもなんとなく分かった。思っていたよりも更に堅実な感じでいいのだが、それ故に余計に色香が出てきたように感じる。今まで口説こうとしていた女性の中でも例外的だ。

その色香というものがなになのか?考えるに社会的な何かが関係するようである。未亡人とか、人妻とか、コスプレ―かC級ポルノのなんとかシリーズではないが、制服物などもあるように前半の直接性的な社会条件とは異なる何かがセクシャリティーに関係するというものである。所謂フェティシズムというのに突き当たる。これの社会学的な考察は充分には知らないが、マルクスの物質へのそれとリヒャルト・クラフト・エビンクの性のサイコロジーから説いているのが、ハルトムート・ベーメ著「フェティシズムと文化」の内容らしい。当然のことながら、アドルノ・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」、そしてフーコォーの「性の科学」抜きには、ドイツ語圏ではこの二十年程前に始まったこの領域は語れないとなる。

実は髪型に興味を持ったのは何回かあって、ポニーテールとかであると若い女性もこちらの受ける印象も判断しやすいものであり、つまり社会的な定義も分かりやすいのだが、今回の印象に匹敵するのは嘗て一度しかなかった。その受ける心理的な意味合いが不可解だったのだ。髪型で有名なドイツ女性はおかっぱで現れたメルケル首相であろうか。ヘルムート・コールの傍にいて、最終的に育ての親を切ることで首相候補へと躍進したのである。もしあの髪型がおかっぱもしくはページとそのままお小姓的な印象を齎すものでなければかなり政治的に不安定な立場に追い込まれたのではなかろうか?例えば現在のSPDの女弁護士トライヤー州知事のような雰囲気では嫌われただろうと思われる。勿論対抗馬であったCDUクロックナー女史のようなヘアースタイルでも恐ろしがられたであろう。

どうもフェティシズムは人間の認知力に関係すると解釈可能だ。つまり、物質の価値も文化的価値もそれどころか人間的な価値も何か対象物を丁度プログラミングでイコールで定義するするときのように扱わないと認知できないということであろう。その定義付けが社会的文化的背景から抽出されるということに他ならないようである。

つまり私がお櫛を弄った彼女に改めて魅せられたのは、今まで以上に彼女が認知可能になったということのようである。それならば以前はどうだったのか?要するに客体として充分に認識できていなかったことになる。この時期どうも面接などがあるようで、チョッカイ掛ける年代の娘さんたちが社会人化してくるということもあるらしい。(続く)



参照:
碧眼に気づくとき 2016-09-28 | 女
jk, ポストメルケルの中庸 2016-03-03 | 女
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腰痛日誌六日目、圧迫感

2017-01-12 | 雑感
雪のお陰で気温は上がった。それでも屋根の雪がスリ落ちるまでには時間が掛かる。予想される雨で一度は消えるだろうが、再び降雪がありそうで一部には根雪となるだろう。腰の調子も一進はあっても一退はないので完全治癒も時間の問題だと思うが、まだパンツや靴下の着脱は苦しい。中からの圧迫感のような張りが激しい。そのお陰か左膝の違和感を殆んど感じないようになってきた。傷になったところをスキーで動かして磨きがかかったからだろうか。帰宅してからでも好転していて全快と言えよう。歯茎の状態は一進一退だが、就寝前の歯磨きは都合が悪いが、朝はしっかりしているので気持ちが盛り上がる。午後になると若干腫れぼったくなるので患部が鬱血してくるようだ。

先週英国に発注したシャツが届いた。15ポンドの送料は何とも言えないが、関税を取られない限りは市場競争力はある。生地は今まで白やカラーシャツを散々着てきたものと同じく充分な厚さで、たっぷりしたカッティングなのも変わらない。これだけでも価値があるのだ。同じ価格でフランクフルトで求めてもちんちくりんの背中で合わせてあるような粗悪品しか見つからない。流石に王室ご用達品は質を落としていない。

色合いはネットで見ていたよりも濃いめだが、洋服への合わせ易さや色調は全く問題が無い。肝心のチェックであるが阿弥陀のように見えたのはネットでの視覚上の錯覚があったようだが、恐らく襟の感じは実際にも錯覚するような感じであるだろう。何よりも消えているように見えた方のラインの色と細さが充分に錯覚させるように弱く、全体のチェックの大きさも小さく満足いく繊細さである。

考えてみるとあまりチェックのシャツは着た覚えがあまりないのだ。マスが太くなり過ぎるといかにも押しつけがましく、目立ち過ぎるからだろう。基本はストライプだったような気がするが、その前は無地のようにも思えた。襟元だけが異色のものもあったように記憶するが全ては時のトレンドなのだろうと思う。ということは、細かなチェックが流行になってきているのかどうか?そもそも保守的なブランドのトラディショナルスタイルなので最新のデザインという感じではないのである。

ピンク系のシャツを最後に下したのは十年以上前ではないかと思う。ここ暫くは着た覚えがないのである。ピンクを着ていったい誰とデートに出かけたなどを思い出してみる。幾らか顔や状況を思い出すようであり、記憶の彼方へと癒られてしまっているのは極自然な成り行きだろうか?



参照:
凍てつく澄んだ空気の蕾群 2016-01-21 | 暦
腰痛日誌三日目、希望 2017-01-11 | 生活
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腰痛日誌五日目、柔軟

2017-01-11 | 生活
馬鹿は風邪をひかないではないが、寝込まないものだから籠もり部屋以外は暖房を落としている。だから絶えず寒い思いをしている。買い物でスーパーなどが暖かく感じるということは自宅が充分に寒いということである。それでも摂氏二ケタ台は保っている。それで薄着をしているものだからいつも雪山は寒いだろうなと考える。その雪中での服装も昨年は寒さを感じたのでもう一つ厚着が必要なのかなとも考える。汗を掻き難くなった分厚着は可能だが、厚着は重さに跳ね返るのであまり好ましくない。下着もないことはないのでそれも考えるが、汗取りがあまり良くなく、腕に纏わりつくようなのもスキーがし難い。籠もり部屋に籠もり始めてから数年になるが、いつかの雪嵐の隙間風の時よりも寒い日が続いている。執拗に入浴している。毎日のように浸かると年間分の回数になりそうだが、健康は少々の光熱費には代えられない。医療費よりは安くつく。デスクワーク後に立ち上がったり、クシャミをすると腰に来るが、折からの初積雪の雪上でも歩けるようになった。パンツを履くのは右足が通し難く、靴の着脱も厄介だが、徐々に屈めるようになって、膝を曲げれば何でもできるようになった。但し膝を伸ばしたままの柔軟や右横への屈伸はストレッチングで強制的にしないと固まっている。これでリハビリの範疇になって来た。風呂桶に浸からないでもなんとかなりそうだ。

新聞の経済欄にベーシックインカムの記事が載っていた。オランダの一部での実施状況やフィンランドで始まった生活保護者向けの実施試験の状況や結果が話題となっている。それによると問題が明らかになって来たということで、いくつかの点を挙げている。先ず何よりも予算規模で、ドイツで一人当たり月毎1000ユーロ支給するとなると現在の連邦共和国予算の三倍の規模になるという。これは少々経済成長しても厳しく、重税となり、高収入層では相応するに充分な社会保障を受けれなくなるというのである。その他色々と書いてあるのだが賛否を取り混ぜ確定的な計算が出来ていないということに尽きるようだ。不確定要素は、なるほどそれによって社会保護を受けていた層がどれほどアクティヴになるか、家族的になるか、その他の創造的な生産が行われるかなどの社会心理的な要素が強いからだろう。しかしなぜかそこには役人の数を減らして合理化されることには触れられていない。つまり税制の簡素化と共に行われれることが扱われていないのである。まだまだ本格的なスタディーの結果が出されるのは先のようである。



参照:
月2500スイスフランの魅力 2016-06-05 | マスメディア批評
十分検討に値するやり方 2014-12-13 | 文学・思想
ネット相性診断を試す 2014-12-08 | 生活
外国人に手厚い社会保障 2014-12-05 | 文学・思想
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腰痛日誌四日目、回復

2017-01-10 | 雑感
徐々に回復に向かいつつある。寝床での苦痛は無くなった。ベットから起き上がるときも太ももを支えるだけで立ち上がれるようになった。立ち上がる力の七割ぐらいは戻ってきているかもしれない。歩く速度も姿勢も戻りつつある。但し屈むとなると難しい。それでも姿勢を変えたりすることである程度用を果たせるようになってきている。風呂桶に浸かって温めたりして解れてきているが、まだ芯にあたるところが残っていて、範囲が小さくなってきている。

シカゴ交響楽団を最後にバーデンバーデンで聞いたのはいつのことかと調べてみた。どうも1998年のことらしい。つい先日のことのように楽屋口にいたシナ系のヴィォラ主席の顔を思い出すが、二十年近く前になるので驚いた。バレンボイム指揮シェーンベルクとマーラーのプログラムだった。管弦楽団の面々もショルティー時代とは変わり、音楽的には上手いと思ったが嘗てのような圧倒的な印象はなかった。その後、特にピエール・ブーレズ指揮のCDでフィラデルフィアやクリーヴランド管弦楽団の録音などを聞くとシカゴに劣らずに素晴らしい響きであったので、シカゴ交響楽団が抜きん出ているかどうかを疑問に思うようになった。

そしてそのフィラデルフィアの管弦楽団を監督していたリカルド・ムーティ―がシカゴの音楽監督になったと聞いて驚いた。オペラ指揮者としてだけではなくデビュー当時から管弦楽指揮者としても成功している指揮者であるが、そのレパートリーやプログラムがあまりにも月並みな商業主義的なものだったので余計に驚いたのである。アメリカの楽団としては伝統的なレパートリーなどを求めたともあるが、オーケストラビルダーでもない独特の音響的な魅力も無いような指揮者で一体何をしようとしたのかもあまり分からなかったからである。

しかし今回のプログラムを見ると中々面白い。ヒンデミートとエルガーの作品50の両方ともあまり知らない曲であり。後半の「禿山の一夜」と「展覧会の絵」の組み合わせも充分に面白い。特に「禿山の一夜」は短いながらも管弦楽演奏が楽しみな曲である。手元にはロンドンフィルハーモニー楽団の録音などがあるが、指揮者のテンシュテットが丁寧に弾かせようとしているようだが、技術的に要求に充分に応えられていないようである。ムーティ―が指揮者としてどこまで精妙に弾かせようとするのかは分からないのだが、超一流の管弦楽団ならば可成りな演奏が可能な筈である。

そして今残券状況を見ると散々足るものである。これならば七割ぐらいしか埋まらないかもしれない。価格はベルリンのフィルハーモニカ―よりもお得である。ティーレマン指揮シュターツカペレドレスデンのブルックナー演奏会よりは大分高価だが、少し余計には売れている。理由は分からないが、指揮者、交響楽団と共にあまり人気が無いのだろうか。ブルックナー、バレンボイムで思い出したが、最近このユダヤ人指揮者はベルリンの状況を絶賛する一方、反例として日本を名指しして挙げている。過去を乗り越えられていない悪例としてである。その指揮者がフジサンケイグループに招かれ特別にブルックナー全曲演奏会を行ったのちの発言であるが、一体どのようなアピールを東京ではしたのだろうか?



参照:
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
TV灯入れ式を取り止めた訳 2017-01-02 | 暦
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腰痛日誌三日目、希望

2017-01-09 | 生活
寝返りの苦痛が小さくなってきた。起き上がりも徐々に負担が減ってきている。横向きに上半身を起こせるようになってきている。それどころか階段の上り下りも前日の五倍ぐらいの速さになった。トイレでしゃがむのも立ち上がるのもできるようになってきた。但し横のトイレットペーパーにはなかなか手が伸ばせない。シャワーを浴びると温まって更に解れる感じだ。それでもデスクに座って長く居ると固まってしまって、立ち上がり歩けなくなる。

部屋着の長袖シャツやセーター類が破滅的な状態になっている。歴史的と称して箪笥の肥やしとしていた40年以上前のパタゴニアのトレーナーを埋め合わせに着た。この冬はこれで凌ぐつもりだ。但しそのあとの暖かくなる時期の部屋着も壊滅状態である。以前は外着のカッターシャツを次々に卸していたのだが、自宅で洗濯するといとも簡単に着れなくなるのに一シーズンぐらいしか掛からないことに気が付いて、上流である外着の数などをチェックする。余裕をもって回すには若干足りないと見通していた。

そこで昨年六月のサマーセールの時にシャツとタイをネットで英国に発注したのだが、残念ながらシャツの方は売り切れていた。発注が一足遅れたのである。勿論英国ポンドの相場はクレディットカードの支払いまでに清算されるので、ある程度有利な時に発注しなければいけない。それが綺麗にセールの時期に重なるとは限らない。それでも40%オフのセールとなると直ぐに為替の差額は取り返せる。

今回、半年前に逃がした鯛をもう一度釣り上げようとした。幸いなことに色合いは同じで前回は細いストライプが今度は細かなチェックとなっているのもを見つけた。セール価格は前回よりも一割ほど高くなっているが、為替相場では1GBPが1.2EURだったのが現在は1.17EURほどであるから数%は得になるかもしれない。ストライプとチェックでは、前者の方が静かでよかったのだが、写真で見る限り通常のマスではなくて阿弥陀状の細やかな意匠でとても良さそうなので、先ずは手に取ってから評価しよう。

これで外着用の古いシャツを一つ普段着に下せる。夏場はどうでもよいとして次の冬には下す毛のシャツの代わりに一枚外出用を探しておかなければいけないだろう。シーズン終わりに格安で良いものが出ないだろうか?ジーンズもウィッシュリストに長く入っているが、四年目とは思えないとかいう評価もあってそのままになっている。なによりもオペラ劇場の立見席に行くかどうかで応急性が異なって来る。



参照:
腰痛日誌二日目、買物 2017-01-08 | 生活
腰が痛くて熟睡できず 2017-01-07 | 生活
今も現役の襤褸着について 2011-01-23 | 文化一般
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腰痛日誌二日目、買物

2017-01-08 | 生活
座っていて緊張させているよりも横になって弛緩させる方が楽だと分かった。前夜就寝中に痛かったのが嘘のように楽になるのである。しかし、いざ就寝となると寝返りを打ったりで結局は夜中に痛みを感じた。折からの厳寒の夜だったが、暖房を消している分布団の中は幸せだった。しかし朝早く起きて買い物を済ませないと約束の時刻に間に合わない。決死の覚悟で目覚ましをつけて床に入ったのであった。

目覚めてから小用に行くまでが儀式である。前夜と同じく手の助け無しには立てないのだ。勿論屈むこともできない。全く腰に力が入らない状態である。目覚めに続いてベットに座るまでは比較的苦痛なくできた。それでも座った姿勢から立ち上がろうとすると力が入らない。膝に手を立てて押してみるが、膝では手が届かなくなるので立ち上がれない。仕方がないので、もう一度座わり込んで太腿に両手を置く。片手では到底立ち上がれない。それでも痛みを伴いながらも立ち上がることが可能となった。手を棚などにつかなければいけなかった就寝前よりは好転している。

手をそこら中につかなければいけないほどならば、買い物で外出すると苦労することが分かっている。一度座り込んでしまうと人が集まって救急搬送ともなりかねない。そのような状況は避けたいのである。昨日よりも好転して歩くのも姿勢が少し良くなっている。前夜風呂に入ったのが良かっただろうか?

心配していた銀行の階段も手すり無しに上がれた。但し車の乗り降りが年寄りのように手をそこらにつかなければならない。何よりも着替えにも靴下を履くのにも苦労した。何とか八百屋で買い物も可能となった。外気温計は零下八度で、シュヴァーベン地方では零下24度となったというから、山は大分冷えたと思う。寒さはこれからだ、氷が期待できる。ラディオは、沖縄嘉手納と並ぶ世界最大の米軍基地「ラムシュタイン」でも摂氏零下15度に至った報じる。

スキーのゴーグルの数カ所に罅が入ってヴェンティレーターのスポンジが剥がれてきている。視界は問題ないのだが、いづれ湿り気から曇り易くなったり、下から雪が入ってくるようなことを考えると早めに買い替えておいた方が賢明だ。前回はどこで幾ら出して購入したかなど全く覚えていない。ネットで購入した覚えがないのでどこかのスキー場の裾の道具屋で購入したのだろう。もしかすると10年どころではなくて、それ以前の購入かも知れない。20年未満だとは思うが、これ以前に所持していたことが無いと思うので、もしかするとそれ以上かもしれない。



参照:
腰が痛くて熟睡できず 2017-01-07 | 生活
試してよかった初滑り 2017-01-05 | アウトドーア・環境
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腰が痛くて熟睡できず

2017-01-07 | 生活
スキーからの帰りに名曲発見の番組が流れていた。ロッテ・シューマン女史がシベリウスの弦楽四重奏曲ニ短調について勉強する番組で講師はライプツィッヒ四重奏団のチェロ奏者だった。御多分に漏れず理屈を捏ねて胴音をかき鳴らすタイプの音楽師さんであるが、そもそも知らない曲だったので興味深かった。結局はこうした対話からはあまり何も生じないのであるが、頻繁に演奏されて録音されている曲の同曲異盤の聞き比べ番組よりは価値がありそうだ。同時にフランスの指揮者プレートルの死去が報じられていた。マンハイムでのヴィーナフィルハーモニカ―演奏会を知らなかったので聴けなくて残念だった。

腰が痛くて熟睡できなかった。張りには気が付いていたがここまで悪くなるとは思わなかった。右横腹の下の腰骨辺りで、屈んだり座ったり立ち上がったりができない。ランニングでの腰はさらに後方が痛むが、これは明らかに真横である。運動の性質が異なるのは分かるが、あの寒さの中で動かしていたのが響いたようだ。日常生活に支障があるので直ぐに治って欲しいが、どうしても運動の性質と中身を考える。右回転と左回転の違いが出ている訳だが、痛さをシュミレーションする。

すると左ターンの時に板に乗っている感じが痛い。逆ターンの場合は腰が確り前に出ていて肩が被さらない。つまり左ターンの滑り方を修正すればこの腰の痛みは起こらない筈だ。これはどうも畳の上の水練が必要そうで、いい機会かもしれない。確かに痛む腰は間違った運動で起きているような気がする。

もう一本年始に開けたワインがあった。スキーから帰ってきて開けたブルゴーニュのPCである。サントネーの2009年物だ。年末年始と2009年の赤を二本空けたことになる。なによりも感じたのは酸味である。ピノノワールでこれに近かったのはシャンボール=ミュジニーの村名ものぐらいである。2009年物でなぜこれほど酸が効いているのかは分からない。それでもミネラルと独特の香草風のものが感じられたのは決して悪くはなかった。村名ものと同じぐらいの価格で、質が全く異なる。これならば20ユーロ近く支払っても悪くはない。ドイツのリースリングの価格と比較してもミネラルを感じられるぐらいが20ユーロ以下からであるから、丁度それに相当する。しかしこれはPCであった。それでも適価であると思う。



参照:
石灰が効いた引き分け試合 2014-08-10 | ワイン
早落としの村名ピノノワール 2013-08-01 | ワイン
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年末年始ワインと初買い

2017-01-06 | ワイン
年末年始に飲んだワインについても書き留めておかなければいけない。クリスマスに開けたフォンブール醸造所のイェーズイテンガルテンは酷かった。流石に酵母臭は目立たなくなっているが、シャンパーニュの親方のリースリングである。明らかに何かを勘違いしているようで、辛口にすると残糖を絞っている。それは良いことだが、レープホルツ醸造所のように漬け込みをしている訳でもないのでとても発酵に苦労している。だから酵母を投下して漬け込んでもなかなか発酵しないということになっていたようだ。身売りでもしない限りこの醸造所も今後ともVDPの上位に来ることは絶対あり得ないと予想する。あれだけの地所がありながらとても残念なことであり、ダイデスハイムで真面なリースリングはどれぐらいあるだろうかととても不安になる。

さて年末年始ではブュルクリン・ヴォルフ醸造所の2012年ランゲンモルゲンを開けた。これはPCとしての最後の年で実質的には収穫量もかなり落ちている筈だ。今この地所の同じリースリングを買おうと思えば一本50ユーロ支払わなければいけない。つまり半額以下で購入したことになるが、まだ熟成には早いながら一本を試してみる。

開けてもしばらくは全く開いていない感じで、デキャンターをしてゆっくり大晦日に飲んだ。試飲の時よりは開いているという程度で、なによりも酸に鋭さがあった。糖とのバランスが取れてくるのは翌日以降である。そして甘露飴のような要するに那智の黒飴のようなニッキの風味の黒飴である。この独特のミネラル風味を好むかどうかがこのリースリングに対する評価を分けるだろう。個人的にはPCならばゲリュンペルなどに対照させて購入しても良いと思うが、GCとしてはどうだろう?ホーエンモルゲンに比較してどうだろうか。なるほど酸は効いているが、長く熟成させて開く土壌感がそれよりも良いだろうかどうかとなる。最終的には好みの問題だろう。

恒例のCD落穂拾いである。今回は先日買い逃したSWR録音シリーズが再び更に安く拡張されて販売されているのに手を付けた。ミヒャエル・ギーレン指揮のシェーンベルクは恐らく指揮者ブーレーズの同時代の演奏記録としても残るもので、完全に双方を乗り越えてしまうキリル・ペトレンコ指揮などが出るまでは甲乙点け難いかもしれない。生でも体験したマーラーの八番と二枚組で6ユーロしないなら文句は無い。前回逃したツェンダー作曲指揮のシューマンファンタージーも1ユーロ下がって3.99ユーロになっている。リームの曲集と、楽団の異なるケックラン曲集、そして妻殺し二重殺人のジェズアルト作曲の聖週間のレポン集を解散したA Sei Vociがヴァージンに録音したものである。もう一つヘルヴェッヘ指揮でモンテヴェルディの転換期のミサ曲を組み合わせた企画したものである。全て8CDで6ユーロ割引を入れて〆て28.94ユーロ。



参照:
フェアートレードなあじ 2015-05-28 | 雑感
解禁なったPCリースリング 2013-07-05 | 試飲百景
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試してよかった初滑り

2017-01-05 | アウトドーア・環境
初滑りである。既に書いたようにこの冬は乾燥していて雪不足である。ワイン街道でも微量ながら初雪となって、シュヴァルツヴァルトでは降雪があるということで、人工雪スキー場へと駆けつける。

9時からTバー操業なので午前中にでも行ければと思ったが、結局出かけたのは昼前だった。初めてのところに行くにはそれなりの高揚感が必要である。何よりも左膝の調子を試さなければ本格的なスキーツアーへと更に敷居が高くなる、そのことを考えれば行くしかないのである。

ワイン街道でもみぞれ交じりなので現地では降雪は間違いないのだが、前夜からの雪が午後になってどれぐらい乗っているか、または人が押しかけているかなどをライヴカメラで観いていく。天候が悪くもう一つ視界が効かず定かではないが、駐車場もTバー乗り場もそれほどではなさそうだ。

花崗岩を登りに行くときのようにフランスからバーデンバーデンに出てビューラータールを目指す。町を抜けて山道に入ると除雪が充分に出来ていない。下りは除けてあるのでわざとだろう。ゆっくりとお尻を振らないようにB500のシュヴァルツヴァルト山並み道路に出ると、やはり除雪に関わらず雪が乗っていた。スピードは出せない。途中で不安になって道を尋ねたりして現地に到着する、三列目がまだ空いていた。先ずはこれで助かる。西風なのに西向きにトランクを開けてドアーを開けることになったので吹き付ける雪に苦しむことになる。以前バーデンバーデンのところで滑った時に比べると雪が細かく軽く量少なくとも本格的な吹雪である。

兎に角冷えるものだから、急いでトイレに駆け込む。待ち時間は殆んどなさそうである。二時過ぎから滑り始めて二時間で切り上げると帰宅時刻には丁度良いのだが、二時間券であると急いで滑らなければいけない、かと言って四時間も粘れるようなスキー場ではないことも分かっている。それならば20回券の14ユーロでとそれを買う。10回券とこれはいちいちパンチングするのであまり人気はないようだ。各々四時間二時間よりは一ユーロお得である。

大正解だった。シーズン始めどころか膝の故障以来足を入れてなかった靴に足が合って来るのに時間を要した。今まではツアーで使っていたので、歩いた後に滑るものだから中が温まっていて最初の一本ぐらいであとはあまり問題が無かったのだが、ゲレンデスキーとなると圧力が強く、足が靴に押されてしっかりと立てない。痛さまではいかなくとも滑るのが厳しいのだ。だから休み休みである。最初の四本に一時間ほど掛かっていた。標高差100mほど精々500mほどの斜面である。駆け下りても時間は掛からない。上で長く休み、途中で二回ほど休むからである。

この時点では20回を使い果たせるのか、それとも何時間掛かるのかなど皆目分からなかった。10回前に車に帰ってバナナを食して休憩とした。そのまま滑っていて膝でも痛めたらどうしようもないと思ったからだ。フロントの雪が厚く車中は暗かった。ワイパーが停まった。手で除けた。水洗液はまだ出るので凍ってはいない。エンジンがまだ熱かったからだろう。

再び滑り出す。足の調子は最初は良い。膝も大丈夫そうだ。休憩前よりは滑れるようになったが、それでも次から次へとはいかない。4時過ぎに照明が点いてナイターになった。10本がまだ滑れていない。そのころTバーで乗り合わせた山裾のビュールからやってきたおっさんが同じスキーを履いていることからスキーツアーなどの話になって、数本を一緒に滑った。お陰でただ降りていくだけのおっさんが下で待っていたので少し早くなった。その勢いで、彼が二時間で止めた後に、追い込んだ。流石に休まずに滑れるようになったが、フラフラになった。最後の三本は意地で滑った。最後の一本ではリフトの親仁も「悪くなかっただろうと」こちらの満足を見据えていたように言った。

なるほどナイター施設があり、人工雪があって都市型のスキー場でありながら、雪が乗ると斜面はそれほど悪くはなかった。20本で標高差2000メートルだから丁度サンモリッツを上から滑り降りた感じになる。フラフラになるほどではない。そしてあそこのようにスピードは出ない。四時間経過していた。バックをする車の後ろの除雪をして動かすが、スリップしたので近くの人が押してくれた。時速30㎞ほどしか出せない雪道から谷へ下りて来て帰宅したのは八時過ぎだった。

腰の張り、普段使わない足の疲れなどはあるが、左膝の違和感は殆んど変わっていない。要するに普通にスキーをするときに問題になるようなことはなくなったということだろう。やはり雪の上に立っての運動は普段の運動とは異なるので試してよかった。ブーツを部屋で履いてというような平素からの準備をしておかなければスキーツアーでは覚束ない感じである。膝が問題なければ、まあ、何とかなるだろう。ケガ上がりであり試しておかないと不安だったが、試しておいて本当によかった。



参照:
塚原サルト崩れの謝肉祭 2016-02-10 | 暦
痛めた左足で苦行の大滑降 2016-02-24 | アウトドーア・環境
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清貧に準備する防寒

2017-01-04 | 生活
天気は悪そうだが、雪は降りそうだ。気温は上がっている筈なのに寒いと思ったら籠もり部屋の室温が二度ほど落ちていた。理由は分からないが、外気が摂氏数度暖かくなったので窯の能力がサーモスタットで若干絞られているのかもしれない。

スキーシーズン最初は自己の標準装備すら分からなくなっている。一体何を着ていたのだろうかと忘れている。それでも手元にある衣料を組み合わせているうちに分かって来る。ここ暫くのように寒い思いばかりをしていると不安であるが、ショック療法のように先ずは試してみるしか方法が無い。以前のように発汗しなくなっているとは言っても、先週土曜日の大晦日の零下七度以下での走りのように30分も走るとうなじが確りと濡れていた。やはりそれほど着込む気持ちはしないが、Tシャツに襟が付いたポロシャツの上にフリースと薄いヤッケでは高所では寒いような気もする。その時はフリースを重ね着するのだが、吹雪かれるとやはり寒い。下半身は古い胸当て付きのスキーパンツを使い続けているが、これは下着が無くても暖かい。何れはハードなクライミングパンツが欲しい。

スキー場を取材するSWRロ-カル番組のオンデマンドを見ていると昨年12月に気温が上昇したのにも拘らず人工雪が綺麗に残ったという話があった。気象条件で湿気が無いことが幸いしたようだとあったが、それは森の中の乾燥した空気にも感じることはあって、この冬の特徴かもしれない。湿気があると気温が氷点下以上でも寒さは堪えるのだが、乾燥していると上手に着込んでいると皆平気な顔で外出している。昨年の春からの降雨量の多さはどこかで調整されるようにこの冬の降雪量は少ないのかもしれない。それでも冷えるとなると氷登りのチャンスが訪れるがどうだろうか。

初買いの序に燃料を往復250㎞分、25L以上給油してくるつもりだ。夕方で冷えるが最も価格が下がる時を目指す。肉類はまだまだ充分に買い置きがあるが、米とかミルクとか少しの野菜や果物類もまたリップクリームも買わなければいけない。

ここのところの寒さへの感じ方は、一つには慢性的になっている歯茎の炎症があったとしても、皮下脂肪の減少ととても燃料変換の効率が良くなったのか、食事量が落ちていることにも一因があるようだ。充分に飲み食いをしているつもりなのだが、無駄な摂取や消費が無くなっていているのは如実に感じるので運動はし易くても無駄な熱もあまりでなくなっている気配がする。それでも少し暖かくなるとバスの暖房を切ってしまうので燃料消費削減は間違いなくしている。寒いと言われるこのシーズンであるが暖冬の昨年度よりも燃料消費を落とせるのかどうか、何よりも興味を持っているのである。籠もり部屋も気温摂氏18度ぐらいになると寒さは感じなくなる。バスルームも15度以下と以上では大分異なる。暖房のお陰だ。



参照:
三世が見るトラムプ像 2017-01-03 | 歴史・時事
TV灯入れ式を取り止めた訳 2017-01-02 | 暦
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三世が見るトラムプ像

2017-01-03 | 歴史・時事
アメリカの遠縁からメールが来た。トラムプ家のことは知らなかったようで、私の情報からWikiを調べたとある。トラムプはTVに出たりでの印象だけで、皆そうした背景については知らされていないというのである。勿論私が書いたことなどは合衆国の人々にとっては興味のないような情報で、出自とかはどちらかといえば忌み嫌われるようなものだと感じている。要するに合衆国はそうしたものを超えての自由でならなければいけないというテーゼがある。しかし、トラムプが話題にしているのはまさに出自に関することまでが含まれているのである。そうした論理矛盾がトラムプ問題なのである。

そしてメールには、「ヒラリーは嫌い」と改めて書いてあって、恐らくトラムプに一票を投じたと思われる。旦那も写真でも英国風の人物で、それもオレゴンの山奥に住んでいるので典型的なトラムプ支持の中産層である。三世ということでは、メールを寄越した本人が、ドナルドと同じ立場にある。

私などは、三世とかその後の世代を思って、また同時に一世が書いた手紙などの逸話を考えるとそれなりの歴史感というか時を繋ぐ位置を定める作業が大げさに言うと、歴史とはそのように回っているのだと感じ入るのだが、恐らく三世や四世にはまた違った視点で見えるのだろう。例えばトラムプ家の場合でも、初代が砂金集めの結構危ない場所で生計を立てたり、その勢いで不動産へと二代目が中興となり、そして三代目に継がれていくとなると、やはり三代目は二代目、一代目へと関心が行く筈である。要するにアメリカンドリームとは言ってもそこには流れがある訳で、合衆国が決して相続税に厳しい訳でもなければ決して皆が思うように自由競争などスタート点が格段に異なるのであり得ない。

兎に角、トラムプ大統領に対しては、変化を期待すると同時に、大きな不安があるのはでもあまり変わりないようだ。少なくともトラムプ大統領によって合衆国の真の姿が浮き彫りになって来るのではなかろうか。

今シーズンの初雪となった。薄っすらと幾つかの屋根に乗るぐらいで霜とあまり変わりないが、夜中にちらついたことには間違いないようである。その為に気温も急激に上がった。それでもまだ寒いので、更なる降雪を待っている。スイスなどもあまりにも雪が少なく、態々出かける価値はなさそうで、近場で探してみる。人工雪を使っているところもあって料金も安く、片道120㎞で費用も余り掛からないので35ユーロぐらいで膝試しに滑って来れるかもしれない。現状ではベストではなかろうか。スキーの準備をして降雪などの状況を見よう。グリンデルヴァルト辺りで歩いて上って下りて来て、膝試しと同時に高度順応もしてこようかと思ったが、雪が無いのでは直ぐに岩に乗り上げて危なそうである。そのようなところで板を壊しても仕方がない。



参照:
厳冬の大晦日の過ごし方 2017-01-01 | 暦
不法移民、強制退去の祖父 2016-11-25 | 歴史・時事
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TV灯入れ式を取り止めた訳

2017-01-02 | 
今年のノイヤースコンツェルトには端から触れる必要はないだろう。電源タップを取り換えた時にTVの差し込みに気が付いて、今年は年に一回のTV点灯式は行わないことに決心した。それよりもやるならばネットで受信して、モニターで流す方が音響だけでなく視覚的にも臨場感が出るかとも思ったからだ。特にオーストリアの国最大のインタナーショナルな催しなのでネット転送技術的にも何か経験になるかとも思った。要するに中継内容よりも技術的な枠組みに興味がある。

その若い指揮者と彼の管弦楽団の演奏は旧年中のベルリンでの芸術際の生中継で観て、なるほどこうしたものに南米や極東を中心の世界市場があって、音楽芸術とは全く異なるものであることが分かったので、あまりにも商業的なストーリーものには気分が悪くなったのだ。それに尽きる。あんなもので商売をしているから国の売り物の座付き管弦楽団が使い物にならなくなってくるのである。

二三週間もするとシカゴ交響楽団でムソルグスキーのプログラムのコンサートに出かけるので、一連のロシアもの続きで少し勉強しなければいけない。ショスターコーヴィッチからロシア音楽の歴史的な関係にも関心が向かった。そして四月にはチィコフスキーのプログラムがある。

キリル・ペトレンコ指揮でクリスマス前に復活祭のと同じプログラムがRAIで演奏放送されていたのを聞き逃した。その前にはハフナー交響曲だけはBMWミュンヘン支店慈善コンサートでも演奏している。小澤征爾がオペラを和訳して日本で練習してから本番に臨んだように、ここでも些か雑なトリノの放送管弦楽団がいつも練習台になっているようである。2013年のバイロイト登場前にもそこで全曲を演奏していて、今回偶々その「ラインの黄金」全曲をDL出来た。

VIDEOでは練習風景か何かわからない断片がいくつか存在するが、全曲乍らなぜか音が悪い。放送録音のようなマイクロフォン録りにも思えるが、まるでフルトヴェングラーがローマで公開録音したもののような音質である。録音技術的にも横着だが演奏も勢いはあっても放送交響楽団とは思えぬ演奏ぶりで、指揮者の息遣いと共に勢いで突っ走っている。ある種の共通性があの2013年のバイロイトでの演奏にもあるようで、屡々各奏者のバランスがとんでもないことになるのは管弦楽団のアンサムブル技術なのだろう。どうしても各々のパートを明白にクリアに演奏しようと思うと管などはダイナミックスをコントロール出来なくなるのかもしれない。

今年もこの指揮者の演奏を何回も聞くだろうが、もう少し批判的に聞いてやろうとは思うのだが、2010年フランクフルトでの「トスカ」上演の断片を聞いたり、歌手の話を聞いたりすると ― つまり歌手も皆共々とても細部までにも留意させられて扱かれているのだが、皆苦笑いしながらも「楽譜の読み方」に目を開かされて、それでもとてもジェントルな指揮者だと心酔している ―、こうしてプロフェッショナルな音楽家が必死に指揮者の細かな指摘に応えようとしているのを見るととてもバランスが悪いだとか簡単に否定できないのである。だからトリノでのあのような演奏でも熱狂的に受け入れられているのだろう ― 聴衆はどうしてもトスカニーニを重ね合わせるのではなかろうか。RAIの放送管弦楽団とベルリンのフィルハーモニカ―が同じように演奏できないことぐらいは皆知っているからである。

ネットを見ていると10月に再演された「マイスタージンガー」新演出もはじめはヨーナス・カウフマンが出ることになっていたようだがキャンセルしたと書いてあった。また当初カメラが入る予定になっていた七月終わりのそれを観ての批評記事もあって、「この演出では流石にあの事件直後のミュンヘンでPVは出来ない」とあってはっとした。全てに敗れたベックメッサーが皆に愛されているハンス・ザックスを撃ち殺そうとして、結局は自害する終幕のことである。台本にはないがまさにそうした事象がミュンヘン市北部で起きたところだった。これを偶然とか予言とかとは言わない。少なくとも演出の本質はまさにそこにあったのだ。日本風に言えば「よき昭和と思われていたような街の人々の繋がりが薄れてシャッター通りになった」、そこがこの演出の舞台であったのだ。そしてその関連性に気が付かずにいた。また余談であるが再上演の時の舞台横のロージュでは、バイロイト音楽祭から一昨年駆逐されたパスキエー女史が招かれて観劇していたようだ。

音楽劇場には「演出など」というような意見もある。そもそも私などはブーレーズと同じでオペラ劇場などは放火して仕舞えと思わないではないが、音楽劇場の可能性は今後とも否定できない。そしてそれは決して商業主義的なものではないことを改めて先日のショスタコーヴィッチの作品の演出に纏わり演出家ハリー・クッパーが示してくれた。更に申せばあの手の劇場はミュンヘンのそれではなくベルリンのそれなのである。社民党、緑の党、左翼党の左翼政権のベルリン市の現在の姿こそが偽りもなくこうした劇場の源であり、シュツッツガルトにおいても大成功している演出家フランク・カストルフなどが現在のベルリンを体現しているのである。しかしミュンヘンは劇場的にも異なる。同じくシラー劇場のマンハイムも異なって当然であり、そこには紛れもなく現実の生活空間と劇場空間とのディアローグが存在するのである。何回も繰り返すことになるが、皆共産圏出身の人たちなのだ。そしてその人たちが西側で過ごした私たちの視座に影響を及ぼす。これはベルリン独自の東ドイツ文化だけでなくて、そうしたプロシアから遠く離れた我々の社会文化であるということである。東独出身のメルケル首相が世界の権力者であることを見逃してはいけないということである。なにも彼ら彼女らは、全体主義の下で虐げられた旧共産圏出身の人材ということだけではなく、明らかに我々西側で暮らした人々とは全く異なる教育を受けて異なった視座を与えてるということを肝に銘ずるべきなのである。そうした文化的な背景がそれらを先取りする芸術にも深く結びついているのは至極当然のことである。なぜ公共の劇場が、音楽劇場が必要なのかの明白な回答でもあろう。娯楽など本当にどうでもよいことなのである。



参照:
雀百までの事始め 2016-01-04 | 暦
ひしひしと積み重ねの喜びを 2013-01-02 | 文化一般
「ドイツ生まれのドイツ人」 2016-07-25 | 歴史・時事
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