Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

久しぶりのオテロ感

2018-11-16 | 生活
喉の痛みを飴で押さえたら。今度は声が出なくなって、洟が垂れてきた。これで回復するのだろうと思うが、久しぶりに風邪をひいたようだ。喘息気味に痰が絡む。

「オテロ」の録音を流した。ドミンゴのオテロである。久しぶりに楽譜を見る以前に音を流した。思いはどんな楽譜面が想像してみたくなったからだ。そのLPを購入したのはクライバー指揮でドミンゴを聞く前だったかよく覚えていない。但し、そのLPは比較的鳴らしていることも覚えている。日本盤で新品を安売りでなく購入しているということは準備に購入した可能性が強い。当時はVIDEOなどもなく、もっぱら音を聞きながら歌詞カードを通すというのが最初だった。オペラ体験も一桁の数であったろうから、ト書きまでを読んでいた気がする。

流石に今は大分違う。先ず歌詞を読むということがない。何もオテロの一語一句が頭に入っているどころか、シェークスピアのそれと混同してしまっている可能性が強い。今回が二度目だからだ。要するに馴染みがないオペラなのだが、音だけ流していれば歌詞はある程度聞き取れる。流石に制作録音の利点であり、また劇場に行けばテロップが流れている ― 流石に先日のマンハイムでは両サイドに重ねてドイツ語しか流れていなくてそれはそれで馬鹿げていた。要するに昔のように歌詞に邪魔されない。それ以上に重要なのは音楽の流れと構成でしかないからだ。

そこで台所仕事をしながら耳を澄ました。最初の出だしがやはりとても独創的でよい。しかし音形や和声などあまり上手く定着しない。劇的な効果はとても高いが、勝手が少し違う。するとどうしても演奏が気になってくる。特に一幕冒頭から終わりまでの流れがやはり決まらない。以前は気にならなかったことが気になってくる。ここではジェームス・レヴァイン指揮でロンドンの寄せ集め楽団が演奏している。しっかり鳴り切っていないだけでなく、例えば声がどうしても劇場のそれに比べて出を急いでいる感じがあって、劇場臭くない。カオスに至らなくとも明白さも今一つなのに流れが決まらない。嘗てはオペラにおいてもこうした表現がメリハリと思っていたのだが、歌を考えるとどうしても表現が十分でない印象を受ける。

そもそも劇場の楽団で録音するぐらいならこのような制作録音の価値はなかったのだろうが、これはこれで物足りない。なるほど座付管弦楽団の日常の演奏とは大分異なるのだが、これではやはり片手落ちだ。最も苦になるのは細かな表現まで管弦楽が演奏できていないことで、そもそも当時のメトロポリタンの音楽監督でも管弦楽の表現に依存していたのだろうと思う。バイロイトにおいてもいつも決まったテムピを打てる指揮者として定評があったようだが、こうして制作録音になると楽譜を十分に読み込めていない。

やはり、カルロス・クライバーの方が積極的な表現を低音のフレージングなどによって強調していたこともあり、演奏していたのがスカラ座の管弦楽となると、表現力があった。こうしたLPの良さはなるほど名場面を取り出して聞けばドミンゴやスコットやミルンズの声として楽しめるのだが、やはり「オペラじゃないな」と感じてしまう。嘗ては、「テークばかりのスタディオ録音では本気度が出ない」という説明をどのように解釈するかを考えたが、今は大分違うことが言える。最大の問題はそのような環境の問題でなく音楽表現自体が問題だと思うようになってきた。

テークの継ぎはぎの問題は致命傷であり、傷を修正可能な幸福でもあるのだが、このLPで感じるのはそれ以前の演奏の質であり、楽譜読解で、歌手も管弦楽も寄せ集めで同じ指揮者何回も更っている訳ではないので定着していない。やはりそれが何よりも大きい。ライヴ感覚とはまた別な話なのだ。

もう一つ感じたのは、LP三枚に収まるように短いという感じで、「マイスタージンガー」やその他の楽劇などに慣れると、お勉強するのもやはり手っ取り速い。逆に時間を掛ければそれ以上に精妙に合わせることは可能になると思う。あのカール・ベームでもこの「オテロ」はレパートリーにしていたぐらいだから、今回もペトレンコ指揮で音楽的な本質が明らかになるだろうと期待している。(続く)




参照:
論理逸脱にドラマあり 2018-11-11 | 音
イアーゴに騙されるな 2018-11-06 | 文化一般
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客家入りの喉飴

2018-11-15 | 雑感
一昨晩の就寝前から喉がガラガラした。嗽などをしたのだが、翌日は終日調子が悪かった。天候も悪かったので走ることもしなかったが、週末に雨に濡れたのが悪かったのか。必要な時に強力なのど飴がなく緩め甘めのものしか購入していなかった。仕方がないのでパン屋で客家入りを購入しようとしたら、各々取っていくといっていた。インフルエンザではなさそうだったが売り子さんも喉を鳴らしていた。

体調は前日よりは良かったので沢コースを往復した。途中で親仁三人組を抜こうとすると一人が振り返って顔を見て「サラブレットが抜いていくから」といった。少なくともそのように聞いたので、「ロバじゃないですかね」と自虐的に答えようかと思ったぐらいだ。折り返し点から戻って再び追い抜いて声を交わした。大したことはないのだが高級住宅街の上の散歩道でもその三人に近いような、丁度小津安二郎の映画に出てくる大会社の重役や大学教授のような風情の人はあまり見かけない。聞こえる喋り口も社会のエリート層だった。

先週あたりにも話すことがあったのだが、日本もまだ高度成長時ぐらいまではそうした小市民的で尚且つよりよい明日への模範となるようなものが少なくとも描かれていたのだが、そうした希望とか向上心とか描きがたい社会になっているのは間違いない。当然のことながら60年代の転向とその後のぶり返しがあったとしても、教養などはあまりにも軽視されていった歴史がある。

また新しい記事が出た。ベルリンのデアターゲスシュピーゲルは、バッハラーがザルツブルクの地方議員に「ベルリナーフィルハーモニカーを戻す」と誓ったというのは噂に過ぎないと書いている。つまり取材出来なかったということだ。勿論、バッハラーがまるでキリル・ペトレンコやベルリナーフィルハーモニカーを思いのままに操れるような言及なので殆ど意味はない。そもそもベルリンの支配人であるツェッチマン女史を普段から取材していないことがまる分かりだ。この手のジャーナリズムは、音楽ジャーナリズムでも無く芸能ジャーナリズムでも無いといういい加減なものが存在するのかもしれない。

ベルリナーフィルハーモニカーが参加する2020年のマーラーフェストでの交響曲4番と6番のプログラムが発表になったことから、また2019年の日本旅行はメータ指揮になったという前提で想像を飛翔させる。つまり11月にはフィルハーモニカーは居ないので、その間にミュンヘンの新制作が準備されるとなる。その前に恐らくその前にオープニングに続いて9月末か10月初めに二つ目のコンサートの指揮をする。その後はジルフェスタ―しか振る時間はないだろう。ここまでで三つのプログラムとなる。

年明けてから4月12日の復活祭までに三つのプログラムを指揮して、5月初めにもう一つのプログラムとなるだろう。最後の一つがマーラーの4番とリュッケルトとなるのか、6番となるかだ。復活祭の時期柄を考えると前者になるか。すると、オペラに加えて、第九とマーラー四番ぐらいだろうか?ジルフェスタ―に続けて第八も期待していたが、マーラーの二つに加えて三つめのプログラムは多過ぎる。

兎に角、復活祭前にベルリンでコンツェルタンテで練習してきてほしい。6番は5月初めにベルリンで初日、アムステルダムで演奏する。そうなると、しかしその後のオープニングツアーは4番の方が都合がよい。6月7月はミュンヘンでの新制作二つ目だ。再演があるとすればどうなるのか?バーデンバーデンでの演目とも影響するだろうか。



参照:
嵐の中での中身の熟成 2012-07-15 | 暦
光を有効に使う方法 2015-12-13 | 生活
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敵はバイロイトにあり

2018-11-14 | 文化一般
日曜日のフィラデルフィアからの放送は価値があった。いくつも語ることがあるが、先ず一曲目のベルヴァルト作曲交響曲三番ハ長調が素晴らしかった。九月にヴィーナーフィルハーモニカーで聞いたので比較すると、たとえ指揮者がブロムシュッテットのようなスペシャリストであっても、今回のネゼセガン指揮の演奏とは比較にならない演奏だった。つまり今回のようにこの曲の本質的な牧歌的でそのスカンディナヴィアの風景が心象風景としても浮かび上がる演奏はなかなかないと思う。
Franz Berwald: Symphony No.3 C major “Sinfonie singulière”

Franz Berwald Sinfonie singulière C-Dur - Klassik in drei Minuten


この曲の面白さは、バーデンバーデンでのガイダンスでもあったがその音による遠近感や、静けさと唐突な落雷のような音が醸し出す寂寥感であり、ブルックナーの交響曲には無い産業革命以前の素朴さである。考えれば当然のことで、ドイツにもいた作曲家にとればその文明的に遅れた故郷の心象風景でもある。なるほど独襖系のロマンティシズムとしての自然賛歌はそこに含まれるかもしれないが、ブルックナーのいた世界は蒸気機関の産業革命の真っ只中の世界であり、北欧のような素朴さは存在しなかった。ブルックナーにおけるカトリック的な神秘主義がややもすると誤解され理解されていない嫌いがあるものの彼が生活していたのはビーダーマイヤーのとても工業化された世界だった。

ザルツブルクの人事での続報が出てきた。南ドイツ新聞だ。そこでは、この月曜日にザルツブルク州知事の話として、「力を合わせてやり抜きましょう」とティーレマンが州の決定に承諾して語ったとされる。しかしこの言及には他の情報源はないとしている。

ここから知れるのは、ザルツブルク復活祭芸術監督クリスティアン・ティーレマンは現時点では辞表を出していないということだ。思う壺である。この時点での辞表は誰も想定していない。ここからはゲームと同じで、敗北と後手に回った状態が続く。もし想定外に彼が男らしく辞任を発表していたら状況は違って来ただろう。

既に八月にはティーレマン本人がバッハラーに充てた書面で「このような協調作業に欠くことのできない信頼関係がない」と書き送っているようだ。だからそうした感触を固めていたとしている。しかし一体この情報はどこの誰から流れてきたのだ?一方バッハラーも今回の件に関して一切コメントを出していない。

ここから想像するように、全ては仕組まれているようで、勿論ティーレマン本人も弁護士と相談のうえで対処している筈である。しかし、最初のチャンスで、夏以降表明していたように「やつか俺か」の判断を求めて、こうした結果が出た以上は、即辞任を表明しない限りこの敗北をどこまでも引きずる。こうなった以上復活祭やドレスデンを捨てて、バイロイトの護りを固める決断へと至らなかったことで、とことん波及することになるだろう。

なるほど、実際に2020年を迎えてからでもバッハラーとの権力闘争で勝てると思っているのかもしれない。ドレスデンではドルニーに勝利したが、ドレスデン州は裁判でドルニーに敗北した。ザルツブルクでも勝てると見たのかもしれない。思う壺だ。

一連の報道や動きを見ていれば、今までのような子供の力試しでは到底敵わない様な動きがあり、既にカラヤン財団や未亡人などがその矛先に立たされているので、ティーレマン如きの力ではどこまでも追いつめられる。未だに音楽界情報誌NMZが「ティーレマンxシュターツカペレとペトレンコxベルリナーフィルハーモニカーの入れ替え」に言及しているが、浅墓な記事である。否、ティーレマンを上手く誘導しているかもしれない。この説の大きな間違えは、ティーレマンが信頼する現バーデンバーデン支配人は来年以降経営補佐だけになり、そもそも新支配人のプロジェクトにはなりえない。何よりも高価なベルリナーフィルハーモニカーをもはやザルツブルクの祝祭規模では賄えなくなっている、それが大きな移転の理由であった。それはザルツブルク側も認めていて、精々ホテル業者ぐらいが関心を持っているだけとなる。

実際、シュターツカペレドレスデンのブルックナーなどの演奏会は売れないことが分かっているので大ホールが使えなくなっていて、千数百人規模の中ホール規模で漸くである。経済価値はベルリナーフィルハーモニカーの半分以下で、ペトレンコ時代となると数分の一以下にも至らないと思う。一体誰が数分の一以下の価値と取り換えるものか。しかしこのようなことは分かっていないのではなく現実を冷静に見極める頭脳があるようならば我々の知っているティーレマンではなくなる。

このような時点になれば誰も先には動かない。粛々と敗者の自爆を待つだけだ。その頃には死守しなければいけなかったバイロイトの足場が無くなっているかもしれない。いよいよティーレマンが東京行きを決断するときだろう。それでもN饗ではもはや仕事がないだろうから、劇場の次期全権監督を目指すのみだ。

バイエルン州は、半神であるキリル・ペトレンコがベルリンに行きそのオペラはバーデンバーデンへと喪失となれば、州文化政策の落ち度とみられる。与党CSUとしてはチェルビダッケの時と同じようにペトレンコを何とかバイエルン州で保護したい。だからバッハラーがカタリーナ・ヴァークナーを継ぐ話が出てきていたのだ。文化省で本気で話されているに違いない。お膳立ては整っている。反対派であったニケ・ヴァークナー博士が裁判で敗れたように、市や州の決定事項がヴァークナー家の資産としての権益を上回った。つまりカタリーナがそこに居座るには公の支持が必至となった。経済的、芸術的に落ち度が重なると更迭される。初代音楽監督であるティーレマンの権勢が無くなればもう一人では現在の地位を保てない。既に足元が揺らいでいる。州の最終目標はキリル・ペトレンコがバイロイトに毎年戻ってくることでしかない。



参照:
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
オペラとはこうしたもの 2018-11-12 | 文化一般
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新支配人選出の政治

2018-11-13 | マスメディア批評
先週のニュースの反応が不思議である。ヴェルト新聞のヘイトアホ親仁が書いている通りだ。SWR2などの関係する報道機関のみは事実関係だけを短報として伝えている。だから週末まで気が付かなった。ザルツブルクの復活祭はそれなりに催し物として公認されていて、そこの新支配人が決まるというのは文化ニュースとしてそれなりの価値がある。ヘイト親仁は肝に据えかねたのか今になって報じた。周りを見ていた臆病者に違いない。狐に包まれた感じとはこういうことを指すのか。

日程は事前から報じられていてショー的効果がお膳立てされた中で、ティーレマン監督を州政府関係者が訪問して直接その意思を確かめて、次期支配人には、芸術監督がその就任に強く反対した現ミュンヘンの劇場支配人バッハラー氏が推挙された。これによって2022年からの就任と復活祭プログラムの同意権行使が決定した。それに先立って2020年7月1日付けで経営権を握る。同意権はないかもしれないが、予算を握ることになるので大きな影響を与えるのは間違いない。

ザルツブルク州の音楽祭諮問委員会を辞任した緑の党を代表する作曲家のダンツマイール氏から背後事情が漏らされている。ザルツブルガーナハリヒテン紙が伝えるところによると、益々減少する後援者数と関心の減少が、不正経営のスキャンダラスを何とか耐え抜いた祝祭を圧迫しており、経営上も立て直しが諮られているらしい。その一つとして、支配人の重要性と同時にティーレマン監督祝祭の人気の無さが拍車を掛けているという現状認識のようである。つまり、バッハラー支配人とは協調できないと明言した芸術監督の辞任は予め読み込まれていることになる。

通常ならばこれでティーレマンが退陣して、ザルツブルクから椅子を蹴って出て行くのだが、バーデンバーデンへと移ったベルリナーフィルハーモニカーに代わって音楽祭の中心となったシュターツカペレドレスデンにとってはこのザルツブルク公演があるからこそのティーレマンという。つまり音楽祭の監督を投げ出すと同時にシュターツカペレの指揮者としての 地位も揺らぐとされる。

正直シュターツカペレとティーレマンの関係はよくわからない。一度しか聞いたことがなく指揮者の実力からすれば可もなく不可もなくの凡演だった。そもそもこの指揮者のどこがよいのか全く分からないので判断に困る。但しハッキリしているのは客が入らないことだ。座付管弦楽団でもミュンヘンのツアーのコンサートの方が売り切れになる。ペトレンコと比較しても仕方がないがこのオペラ指揮者には人気がないのだろう。

この件は当初から政治事件として捉えられた。そもそもバッハラーが次期監督に名乗り出たということ自体が驚きであり、真偽のほどが疑われた。しかしこうして結論が出るとティーレマンの天敵としての意思で応募したことになる。バイロイト音楽祭の場合は最初から抗争の構図が明らかだったが、ザルツブルクにおいては敢えて打ち落としに行くとは思わなかった。ミュンヘンにおいてもケントナガノから辞表を出させるような形で首を取り換えた実績があり、そこまで待たずともティーレマンが自滅をするようにここまで慎重に進められた様子がある。なるほどザルツブルク州は「ティーレマンを追い出すことはしない」と外交的な姿勢を崩していないが、シュターツカペレドレスデンと音楽祭の関係は保全されるとの感触なくしてはこのような結論には至らなかったのは当然で、まさか交換可能なゲヴァントハウスとの密約が成立しているとは思えない。つまり、ドレスデンでのティーレマン切りの憶測が立っているということだろうか。

確かに今晩二度目のコンサートとなる共生のための催し物はシュターツカペレが明白にティーレマンのペギーダへの関与を責めるものであり、そこで政治と芸術を混同しないというような言論は成立しない。へートに繋がるような発言や行動はMeToo以上に厳しく対処される姿勢を示すと同時に、様々な外見や思想などに関わらず寛容を訴えていることからAfDに相当するティーレマンの政治姿勢を排除することもできない。ここでもバッハラーのような政治手腕が要求されるので、まさしく新支配人はゴーストバスターのような任を与えられる。それが同意権であり、経営権なのだ。

復活祭運営の背景には、やはりああした政治姿勢の文化活動には経済支援ができないという企業などのカムパニーポリシーがあり、残るのはもともとフォン・カラヤンが自費を費やして創立した芸術祭であった故にそれに賛同する金満家からの支援がある。本人の死亡後にその援助はじり貧となり、観光事業として州政府が管轄するように、未亡人のカラヤン財団がバーデンバーデンへとパートナーを変えた事情があった。そしてティーレマンの手引きもあってかカラヤン財団が再びザルツブルクへと乗り換えたのは二三年前のことである。我々にとってはどちらでもよいことなのだが、カラヤン財団にとっては口出しする場所がしっかりしていないと意味がなく、ザルツブルク州はその関与を迷惑に思っているとされている。なるほど「ヴァルキューレ」のリヴァイヴァル上演は少なくとも興行的には成功したのだろうが、芸術性という意味でも分岐点になったのかもしれない。カラヤン財団のみならずカラヤンの芸術的業績が洗い直されて、その意味合いが変わってきたこともそこに反映されていると思われる。

ブログには来年のベルリナーフィルハーモニカーの日本公演にはメーターが指揮するとあった。真偽のほどは分からないが、もともとはペトレンコ指揮以前に誰かが変わって指揮するのであろうと考えたが、今年の出来からすれば東京で現状を問うだけの形は出来つつある。キリル・ペトレンコが同行できない理由はもっぱら日程上の都合であり、12月のジルフェスタ―コンツェルトのプログラムにも関わっているかもしれない。いずれにしてもペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの日本初公演は2021年となるのだろう。しかし最初から日本では人気の無いズビン・メーターが指揮をする計画が立てられていたとすると驚きである。メータ氏は治療を日本でしているのかと思わせる。



参照:
Bachler oder Thielemann: Es kann zu Ostern nur einen geben, Ljubisa Tosic, Der Standard vom 11.11.2018
"Wir vergraulen Thielemann nicht!", HEDWIG KAINBERGER, Salzburger Nachrichten vom 10.11.2018
釈然としないネット記事 2018-10-03 | マスメディア批評
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事
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オペラとはこうしたもの

2018-11-12 | 文化一般
二十数年ぶりにマンハイムの座付楽団の演奏を聞いた ― 最後はジュン・メルクル指揮かもしれない。こちらの耳も変わっている部分はあるかもしれない、会場も全く変わっている、楽師さんも重なっているのはほんの一部だろう。N饗のMeTooデュトワ指揮によるフランクフルト公演と昨今の生中継の差異を考えるのと同じような感じである。勿論よくなっている部分もあって、時代的な背景があると思う、しかし根本のところは同じだ。地方の名門オペラ劇場でしかなく、ヴァークナー上演にかけては連邦共和国の中では一流の歌劇場に続く名門である。なんといっても歴史上最初に作られたヴァークナー協会で楽匠自らが指揮をしたメッカでもある。それを良しとして独自の伝統を保持しているかに見える劇場だ。だから大物の演目が並ぶレパートリー劇場でその実はブラックミュージックシアターのようである。

そんな塩梅だからバイロイトでもまた先日飛び入りのミュンヘンでも立派なハンス・ザックス親方を歌ったミヒャエル・フォレでも初めはマンハイムにいたというので、今回も期待した。そのハンスザックスはこれではどうしようもなかった。あの会場であれだけの声しか出ないだけでなく、技術的にも全く冴えない。バイロイトでペトレンコチームに入っていたオックスフォード出身のアレクサンダー・ソディーの棒も歯切れが悪くてどうしようもないが、あの歌と比較するとどんなに調子が悪くてもミュンヘンのコッホは声、技術的にも一流だ。ヴァルターに関してはどんなに不調なフォークトが歌ってもその足元にも及ばなかった。エファーも小粒と書かれていたが、ミュンヘンで苦労しているのを見ていると、到底その域の声も出ておらず技術的に上が出ないテノールやソプラノが並ぶ。こうしてみるとオペラファンが声で舞台を楽しむとしても、座付管弦楽団がどんなに酷くても、その夜の状況ではただ一人ベックメサーを歌ったモネマーのヨハヒム・ゴルツだけが指揮者や楽団とは関係なく場面を作れていた。要するにオペラファンが二三流劇場で楽劇を楽しむというのは如何にも通そうに見えるが全く音楽的にはお話しならない行為であり、そのようなものは楽劇でもなんでもなく、学芸会である。

座付管弦楽団の問題は、指揮者の技術的な程度の低さだけではなく、たとえエキストラを入れてもアンサムブルが出来ていない。否、そういうものがオペラ劇場の座付管弦楽団であり、ジンダを演奏しているに過ぎない本物のオペラ劇場なのだろう。ミュンヘンのそれに慣れるとあれと本物の差が分からなくなる。確かに昔と比べてアマルガムの響きは少なくなったが、コントラバスの音程の悪さや発音が、あれは直さなければと思わせた。終始私は指揮者の気持ち見ていたが、ホルンが鳴ると第一の女性が高く浮ついた音を出してあれではヴァークナーにならないと思わせた。ミュンヘンの深いデングラーの響きに比べるまでもなく、そもそも音程が安定しなかった。兎に角、弦と管がバラバラで、何段もの楽譜になると嘗てのそれのように全体の響きで一小節の中の響きにしましょうという程度の合奏力であった。それでも昔よりはマシに思えたのは「マイスタージンガー」はベートーヴェン程度の楽器編成だからだろうか。自慢の恒例の「パルシファル」などになるとアマルガムになるのだろうか。そして、この指揮者がミュンヘンの座付き楽団を振ったらどのように響くかなども想像してみた。そのタラリンリズムは変わらない。

ただし、前回のゲスト公演の「ポッペア」においても若い合唱団は人数の割にとても強い声を出す。恐らく一番大きい音響は合唱団である、しかし如何せん芝居しながらになると急に声が出なくなる。経験というか訓練が出来ていない証拠だろうか。オペラとはこうしたものだ。

そして同じ座付楽団でも音出しがミュンヘンのように遅れて出てこない分、歌手の方も拍から拍へととても窮屈なことになっていた。勿論これも指揮者の責任かもしれないのだが、やはりこの程度の座付楽団では上手く歌わせる伴奏などは出来ないのだ。そしてあの広さにも拘らず、ぐずぐずとして管弦楽が鳴らないのにも拘わらず、言葉が聞き取れない。お話しにもならない、もはや致命的だ。合奏が出来ていないと全てにおいて具合が悪い。こうした上演を百回聞こうが見ようが、何十年経っても楽匠の音楽などは理解出来ないで一生を終える。だから繰り返して聞けるのかもしれないが、時間と金の無駄である。出来れば次回はもうこうした地方都市での音楽劇場はご免でやはり名門の芝居小屋に限定したい。楽匠がオペラ劇場での楽劇の上演を禁じた気持ちがよく分かる。



参照:
逸脱にドラマあり 2018-11-11 | 音
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
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論理逸脱にドラマあり

2018-11-11 | 
ひょんなことで急に楽劇「マイスタージンガー」を聞くことになった。九月の記念公演で堪能したのだが、最終稿とはならなかった。ハンスザックスの急遽の交代もフォークトの体調も両方とも制限があったからだ。それでも自分の書いたものを読み返すと思い出すことも多い。だから本当はほかの演奏を聴くのは厄介なので、三幕だけを訪れる。出来れば楽譜を復習しておきたい。理由は正しく批判するためである。どうも中途半端に悪くはなさそうなので気になるからだ。

しかし、こうして思い出していくと2016年からペトレンコの指揮は厳しいものなのだが、そこまで管弦楽団も徹底出来ていなくて、歌手もそれに乗っているので、九月のもしくは最後の「指輪」公演のような厳しさが前面に出るものではなかった。どうしてもやり足りないとメローな方向へと傾き、音楽劇としてもう一つ上の芸術的な価値を引き出せないところがあるものだ。特に放映されたものは歌手の見た目さえ隠しておくとヴァルターの声も美声であり、余計に甘い方へと突き進んでいる。

三幕二場のベックメッサーが登場する三場へ入る前の経過部分においても今はとても厳しい音楽になっていたと記憶する。要するに「愛されてから憎まれて」への転換がある箇所で実際に長い経過となっていて、見事な筆捌きだと思うが、この辺りだけでもしっかりと示してくれる演奏の素晴らしいことに言葉がない。

三場における加速減速する常動風の動機もまさしくコムパクトに演奏されることで初めて独襖系の音楽の響きの核となるところである。要するに叙唱のそれから歌へと変容、ああいうところをしっかり振れない指揮者は、ベルカントで歌えないイタリアオペラを振る指揮者と同じである。それによってはじめて息の長い歌も歌えるのだ。

それにしても四場へと五重唱への流れの書き込みの素晴らしいこと、こうした楽譜を前にしてやっつけ仕事でやってしまう指揮者などがいるのだろうか?暗譜などと見せびらかしている者は芸術を冒涜しているのではないかとさえ思う。情報量の問題でもあり、ベートーヴェンのような論理性ではなく、豊富な限りないニュアンスが書き込まれている限りは、そのようなものが全て音化つまり暗譜されていると思うのは横暴でしかない。つまり音符の数が多いことがその情報量とは必ずしもならないということになる。まさに論理から逸脱するところにしかドラマは生じないとなるか。何かこのようなことをしていると来年のフェスティヴァル公演にも手が出そうになる。

そろそろ今週末辺りから「オテロ」のお勉強の始まりだ。前回聞いたのはドミンゴが歌いカルロス・クライバーが振るというものだったから、そろそろ時効である。カウフマンがドミンゴにとって代わる筈はないが、あれだけの楽譜からそれ以上にものを引き出してくれるペトレンコ指揮の下で期待出来るだろうか。



参照:
職人の技が導くところ 2018-10-01 | 音
社会的情念の暴力と公共 2016-06-01 | 音
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無色透明な音の世界

2018-11-10 | 
床屋にやり手婆しかいなかった。入ったのも遅かったが、男女一人づつを相手していた。初めは待っているといったが、お気に入りの髪結いさんも誰も居らず、これは退去した方がよいと思った。待ち時間よりも同じ金を出すなら上手い人にやってもらいたい。来週来るわと言ったら、午前中ならまだ誰かいるからと言っていた。やはり暇な時にお暇を出したのだろうか。朝一番で行くしかない。

床屋となると年末年始だけでなく一月のチューリッヒ訪問辺りまでを計算に入れる。どの時点で散髪して次はどの時点かなど可能な限り計画を立てておく。つまり暖かくなった今行くと混んでいる年末には行かずに、年始の床屋の休み明けまで伸ばし続ける。遅くとも一月月末に間に合えばよい。前回はバリカンで大分駆られたので、それほど今も煩わしくないのだ。流石に冬場はバリカンでの剃り上げは嫌である。

思い立って、GPS腕時計の電池を交換した、入手したのは夏前だったので、大分長く放ったらかしていた。半田付けが面倒なのと、裏蓋のパッキングを綺麗に収めるのが厄介だからだ。細かな仕事でも一時間も掛からなかったと思う。最後に苦労したのは外のターミナルと内側のところの合わせが上手くいかずに再び蓋を開けてやり直しする必要があった点だ。それでもGPSの一時間の狂いも夏時間を手動で合わせていたからであり、GPSだけでは正しい時差を調整出来ないことが分かった。要するに車のGPSの狂いもどうもその辺にあるようで、やはりナヴィのソフトが壊れているようだ。無事完動するようになったが、予想していた電池の残り時間が10時間しか出ない。オリジナルは11時間だった。仮に入れていた小さな電池は10時間だった。しかし今度はその容量の表記からすると12時間30分と出る筈だった。なぜ正確に反映しないのか。一つは電池の表示とその能力が著しく異なる場合、もしくは最初の充電では二割以上少なくしか充電できていない可能性だろうか。後者を期待しているが暫く使ってみないと結果は分からない。

N饗の生中継を聞いた。ノセダという指揮者が振っていて、2021年から現監督ルイージを継いでチューリッヒの監督になるようなので名前は知っている。しかし、放送を聞く限りあまり感心しなかった。客演の程度だから仕方がないのかもしれないが、もう少し技能が高くてもよいと思う。しかしこうして色々な指揮者でN饗演奏会を聞くと、何よりも感じるのはあの会場が形成したアンサムブルからのサウンドの貧弱さを感じずにはいられないことだ。あの会場の録音の影響かと思って、昨年のペトレンコ指揮の座付管弦楽団の録音を聞き比べると、その真相が分かる。アンサムブルに起因するものは致命的で一朝一夜ではどうしようもないが、それに合わせるようにソロ楽器の響きも独特な艶消しなサウンドに統一されている。比較対象が座付管弦楽団だから木管も若干個性が強いが、金管でもその鳴りの差は大きい。

偶々週末に東京の管弦楽団で演奏していた人に会うのだが、昔から同じことが語られていて、今こうして直接比較して聞くようになると、その落差は殆ど埋まっていないのを感じる。どうしてもその話に言及してしまうのは仕方がないだろう。それはドイツ風とかフランス風とかアメリカ風とかというのとはまた違う次元であり、日本の聴衆は見ざる聞かざる物言わずに徹しているのだろう。さもなければやはりああした無味乾燥な響きが素晴らしいと思う独特の趣味があるのだろう - 風の音も水音も無色透明だ。要するに反響がない、音が共鳴しない、つまり西洋近代音楽的には音色の無いモノトーンな音の世界である。その対極にヴィーン風なものへの憧れが存在しているとすると文化的な響きへの錯覚も可成り重症である。その点ではボストン饗は、欧州から見るとあまり関心はしないが、独自の伝統的なサウンドを有している。

生演奏は映像収録もされているというからにはマイクロフォンもしっかりと設置されていた筈だがあまりにもお粗末だった。ピアノの響きも取り立てて言うほどのものではなく、一体これは東京では交響楽団ごっこをやっているとしか思えなくなってきた。なるほどこうした客演指揮者が振るよりもブロムシュテットなどが振って音が出てくる方が受けがいいのは理解できた。



参照:
批判精神無しに育たない 2018-10-20 | 文化一般
音響の文化的な価値 2018-10-14 | 音
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2018-11-09 | 雑感
メインノートブックを旧HDDで使っている。しかしSSDの静かさなどを知ってしまうと完全移行も早めに済ましたくなる。ここしばらくは暖かいので、日差しの下でつまり籠り部屋から出ての座業が増える。つまり8.1までインストールしたSSDを外して再び1TのHDDを入れて仕事をしている。それで喧しく感じるとなればあまり猶予はない。一方ストレージのNASを発注しなければいけないが、じっくりと将来性も考えて検討している。

SSDにインストールすべきアプリケーションをリストアップする。リカヴァリーディスクを作成する。そして先ずは、Chrome、Opera、FireFoxのブラウザー群だ。同時にキャスティングプログラムもインストールしておく。次にFUJITSU関連のデヴァイスドライヴァーだ。この辺りで先ずはリカヴァリーのポイントも入れておこう。出来るだけ早めにハードに纏わるソフト類を入れるとすれば、キャノンのプリンター類とモニター関連のインテルやロジテックのアプリケーションも入れる、

メーラーとしてサンダーバードである。これが一番データーの移動があるので厄介だ。その前にもう一度整理しておこう。テクスト制作はLibreOfficeでよく、今後はデーターベースもLINUX主体となるので、マイクロソフトオフィースは使わない。その中で使っているのは写真の縮小やヴィデオ編集ものなので、これらは新規で無料でより良いものを探す。

ファイル圧縮ソフトなどは先ずはインストールしない。もはやデーターの大きさが問題となるような時代ではなくなった。MPC-BEを入れてそれでも駄目なときにVCLをインストールすればいい。

ここでリモートコントロールソフトのVNCを入れる。先ずはマスターになるためのヴューワーだが、同時にスレーヴになるUltraVNCで事足りるかである。ここで時間が掛かるかもしれない。AudacityとoCamも入れておく。Adobeなどは必要に迫られて入れればよい。Realtekを入れる前にデジタルダイレクトで音を取り出せるプログラムを探してみよう。AudacityでALSから録音すると音量調節無しで録音可能となる。ウィンドーズではWASAPIを使ってもこのようにはならない。

PlayMemoriesHomeやFoobar2000は直ぐに使うが、QualcommやCDBunerXP、SoftEtherVPNなどと同じく緊急性はない。パスワードなどが入っているものが面倒なのだが、巧く繋がらなかったりすると作業時間が伸びに伸びる。週末に時間があるかどうか微妙である。

行けるかどうかわからないが、オペラ初日の切符を購入した。売れていないから気になって手を出した。「ルグランマカーブル」新制作だ。指揮者のルィージはSACDも持っているのだが生で聞いたことがない - もともとこの人の名前を初めて聞いたのは彼が紹介していた作曲家の口からだ、「そんなにいいの」と尋ねたが、勿論悪く言う筈がない。まだ若いので急ぐ必要がないが、ツューリッヒも辞めるようなので、また劇場は何回も行きながらもしくは向かいに宿泊しながら未だに中で聞いたことがない。初日の雰囲気も知りたい。嘗てはアーノンクールの指揮で行こうかとも思っていたがチャンスがなかった。ヤルヴィ指揮コンサートもその前に初めて訪問するので、これで中堅どころでつまりペトレンコよりも上の世代で力のある指揮者をおさえられる。サイモン・ラトルが目立ち過ぎて、それに匹敵するような指揮者がなかなか続かなかったかにも思える。リゲティーのこの「アンティオペラ」もサロネン指揮のグロテスクを一度洗い落として、改めて聞き直したいと思った。指揮に関してあまり期待していないが、この作品を上手に振れる指揮者としては、まあまあいい方ではないかと思ったからだ。何よりも安いところで適当なところが残っていたので押さえておいたのだ。



参照:
アップデートの数々 2018-11-08 | テクニック
狩りの日だった土曜日 2018-11-04 | 生活
録音の準備の週末 2016-11-13 | 生活
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アップデートの数々

2018-11-08 | テクニック
想定以上に苦労した。予想以上に時間が掛かった。先ずは、フォーメーションとパーティションが上手く捗らなかった。FUJITSUのマザーボードのBIOSがまず出ないところから躓いて、そのUefiを出してのシステム作りが今までとは違っていた。前回HDDのクリーンインストールの時は問題にならなかったことばかりだ。そして最後にはCD-ROMからのインストールで止まってしまった。やり直しだった。それでもDディレクトリーを切らずにCだけのシステムが出来た。しかし直に8.0のフューチャーがインストール出来なかった。理由は分からない。仕方がないのでそのままアップデートへと向かった。予想通りネットからパケットがDL出来ない。今年の1月でサポ―トが終わっているからだ。こうなるとどこからか探してこなければいけない。幸い信頼できるサイトに全てのパケットが用意されていた。

1.5GほどのそれをDLする。今度はそれをインストールするのに数時間を要していた。160種を超えるアップデ―トファイルだ。目標は正式に8.1へとアップグレードすることなのだが、アップデートが完了しない限りアップグレードも不可と拒絶される。しかし公式なDLは出来ないとの袋小路に追いやられる。

最初からこれが一番の不安点であった。だから8.1へとアップグレードまでが全てであり、そこまで漕ぎ着ければ二三年中は状況は変わらないので落ち着いて行える。要するに早めに判断しなければいけなかった点であった。本年一月前に執り行っていれば余裕があっただろう。実際にここまで時間が掛かり複雑であると、あっさりとウィンドーズを断念してLINUXの恩恵を預かりたくなる。それでもウィンドーズは最初にインストールしてしまえばLINUXのようにこまめにアプリケーションを考える必要がない。多岐のタスクに即応が可能となる。どうもそこが使用勝手として一番異なるような気がする。つまり我々が意味するところのマルティタスクとシングルタスクである。

そして8.1へのDLに至ったのが約12時間後のことだった。そこでも完全にアップデートが終了していないと弾かれ続ける。何回かリスタートを繰り返して、やっと8.1のDLが始まった。これで、インストール成功で無事終了である。3Gを超えるDLもすんなりと進み、インストールである。

BGMにボストンからの生中継の録音が響く。何故か低音の量感が多い。メインシステムで鳴らすのは初めてなので気が付かなかった。録音の問題なのか、先日のフィラデルフィアからのものと比較する。やはり低音の出方が異なる。会場の相違か技術的な問題かは分からないがその傾向は変わらないであろう。それにしてもSSDの静かさは明白だ。まだ静かなところで本格的に使用してないので結論は下せないが、少なくとも熱を殆ど感じさせない。クールだ。

そしてついに到達した。8.1である。そしてSSDの速さもわかるようになってきた。そしてタスクをしていないときの静けさは格別だ。8.1の65種もあるアップデートを済まして、先ずは一区切りである。あとは時間を掛けてマルティタスクシステムを構築していこう。



参照:
狩りの日だった土曜日 2018-11-04 | 生活
HDDが故障して一週間 2016-11-12 | テクニック

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邪魔になるZDFクルー

2018-11-07 | 文化一般
一走りして汗をぬぐいながら肉屋に立ち寄る。店前で若者が屯していた。挨拶もしないのでどういった連中かなと思っていたが、店内に照明が立っていたので聞いてみるとTV撮影だという。地元のSWRかと聞くとZDFだという。どちらもMainzからだが、後者は世界に流されるので全国規模だ。前者はローカル番組が主体となる。ドイツで一番有名な肉屋さんの一つだからTVでも頻繁に取り上げられているが、ZDFはあまり記憶になかった。

ボストンでの復活交響曲を聞いた。ざっとBGMで流す限り、部分的なシステムの強調などが聞かれたが、全体の印象として凡演だった。理由はそこの交響楽団を上手く鳴らすだけではとても音楽的な高みへは到達しないというのが明らかだ。逆にマーラーでもゲヴァントハウスの方がギクシャクしたところが面白いので、若干非力なこの交響楽団には小澤ぐらいの指揮の方があっていたかもしれない。その意味からショスターコーヴィッチ全集などもあまり期待できない。合唱を使った前プログラムの新曲を入れるのはいいアイデアだと思うが、これもそれ以上ではない。アンドリス・ネルソンズにはやはりゲヴァントハウスに集中して欲しい。

そのゲヴァントハウスとのスーパーオペラ上演を期待していたが、意外に実現するかもしれないと思った。理由は来年の元旦もドルトムントで第九を演奏するように、前支配人スタムパとネルソンズの協調関係というのが存在して、ネルソンズともネゼセガンともサロネン同様の専属契約を結んでいたからなのである。これはやはり大きな意味を持つ。当然のことながらネルソンズがバーデンバーデンでゲヴァントハウス管弦楽団を振ってオペラを上演するアイデアは既に存在することになる。問題はライプツッヒの劇場とそこのシルマー監督との関係でしかないだろう。ネゴシアンとしての手腕を示すならば実現可能ではなかろうか?
Konfetti-Salut zum Abschied von Intendant Benedikt Stampa


従来通り夏はペテルスブルクからゲルギーエフ一団が、復活祭はベルリナーフィルハーモニカーがとなると、ネゼセガンのオペラに加えて、空きシーズンにネルソンズ指揮ゲヴァントハウスがどうしても欲しい。そうなればスーパーオーパーのメッカとなる。それ以外にもサロネンフェストやブーレーズフェストなどを加えれば、ロシアからのみならず世界各国からの訪問客が期待される。

それにしてもスタムパは先シーズンで勇退していて、本来ならば今シーズンからバーデンバーデンとなっていたはずなのだが表向き一年休養したのには事情がありそうだ。やはり、今までのプロジェクトからのプログラムを前任者が最後までやることと、新任者による大きなお披露目があるということだろう。さし当たって、来シーズンのオープニングが気になる - ヴィーナフィルハーモニカーがまた呼んで貰いたいといっていたから、来年はルツェルンに続いてのゲヴァントハウスのブルックナーの八番でのオープニングだろうか。その前の春の発表でペトレンコ指揮のオペラ公演が発表されるのだ。

兎に角、同じような楽団を他所まで演奏会に訪ねると出し物が重なりそうになる。新春のルクセムブルクでのユンゲドイツュは狙っていた席が一般発売とならず希望価格の席は良くなかったので断念した。割安席は定期会員に回っていたようだ。そこでエルブフィルハーモニカー行きが決定した。泊めてくれるともあったのだが念のために序に宿も予約しておいた。

エルブフィルハーモニーも早く完売した。その前に催されるSWR管弦楽団の演奏会はどうも上部は閉鎖されているが車椅子席以外でも83ユーロで売れ残りがある。あそこまでソニーが広報をしても売れ残っている。プログラムもチャイコフスキー五番、シュニトケを組み合わせただけなのでかなりコンサヴァティーヴだ。詳しくは分からないが、上の演奏会の「春の祭典」に比較すると売れないのかもしれない。



参照:
イアーゴに騙されるな 2018-11-06 | 文化一般
もぞもぞとした地所の味 2018-11-05 | 試飲百景
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イアーゴに騙されるな

2018-11-06 | 文化一般
試飲会では一口小皿が出る。しかしこのミュラーカトワール醸造所のそれはラインガウのロベルトヴァイル醸造所の本格的なガーデンパーティーものとは異なる。片やその食い逃げを避けるためにも最低購買数を決めて、さもなければ最初に出した30ユーロは返ってこない。今年は結局最初から取られなかったが、要するに増えに増えた迷惑客は一掃されたことになる。しかしこちらのワイン街道の方は一本当たりの価格も低いが、それだけの予算を計上していない。当然であろう。

しかし、いつも楽師さんを都合していつも何か音楽をやっている。今年はユグノーでドイツに逃げてきた醸造家の代々の楽器を使って演奏していた。当家の先祖の作曲家のコレクションである。チェムバロであるが、音がメタルでなくてかなり木製の箱が巧く鳴っている感じだった。勿論音量も細やかさもないが、ああしたホームコンサートの程度にはとても都合よい楽器だ。近所に住んでいる祖国ロシアで習って来た女性奏者といろいろと話していて面白かった。なによりもその装飾音のあり方への言及で、何でもないことが腑に落ちたことがあった。チェムバロも特別馴染みがない訳でもあるが、なぜだろう。

初期モーツァルトやバロックとこの楽器の話となって、その装飾音が当然のことながらこの楽器では当然でしかないことだ。つまり早い楽想になればまだしも、遅い楽想になればそこまで楽譜を書き込んでいるようなバッハなどが特殊であって、適当な大きな流れ以外は埋めるように音を入れていくというのは至極当然であるということだ。後年のピアノのような弦が震え続けていればそこで和声が組めるわけだが、撥弦楽器の性質上出た音が直ぐに消える物理的性格が支配する。そんなことは皆知っていて、クセナキスなどの作曲のアイデアでもある物理特性である。しかし、そのことと装飾への節理が、なぜかすっきりと身についていなかったか?

これは彼女にも話したのだが、バッハでもなくグレン・グールドの演奏というのを知っていると、そうしたマニピーレンに馴染んでいると、本末転倒になっていたのではないかということだ。要するにグールドのチェムバロ演奏もあるが、そのピアノでの演奏に馴染むとなるとどうしてもその発想の転換から逃れなくなる。改めて、レオンハルト演奏のハープシコードでイギリス組曲の演奏を照査してみたくなった。

ベットに入るとタブレットが呟きへの反応を知らせた。誰かなと思ったらジェラード・フィンレーからだった。23日にミュンヘンで初日の「オテロ」でイアーゴを歌う。時刻からするとミュンヘン滞在ならば稽古の後だろう。そこで私の放送プランを見つけたとなる。この人の呟きは一度扱ったことがある。あの時は、イアーゴからアンフォルタスヘと変わる時だった。もしかしたらその時に気が付いたかもしれないが、今回はイアーゴである。

そのアンフォルタスに関して、後に聞くゲルハーハーとの比較になって気の毒だったが、評価の割にはそれほど感心しなかった。理由は分からないが、ラトルの指揮にも責任があったかもしれない。自由度が足りなくて窮屈な印象を与えた。今回はその点ペトレンコ指揮で間違いなく大きな体験をしているに違いない。主役のカウフマンやハルテロスに関しては何も想定外の驚くことはないだろうが、このフィンレーのイアーゴにはそもそも期待していたのであり、更に期待が高まった。それにしても三週間を切ってしまった。自身の訪問日程が12月の新制作公演後半の初めであるからついのんびりしてしまっていた。

フィラデルフィアのシーズンオープニングは国歌から始まった。やはり昨シーズンのイスラエル訪問の議論などもあり積極的な姿勢を示しているのだろう。流石に弦のメロディーラインも見事だったが、ただし病上がりのアンドレ・ワッツのグリークは弛んだテムピとリズムに苦労して合わせていて、これはこれでと思った。しかし後半のラフマニノフの交響的舞曲はペトレンコ指揮などと比べるもなく、あれではサウンド豊かな分だけ曲の本質から離れていくのではないかと思った。ネゼ・セガンもそこまでラフマニノフを読み込むだけの準備をしていないということで、こうなるとこの指揮者と楽団で上手に演奏して仕舞えることが否定的にさえ思える。

一曲目の新曲もアメリカらしい曲でそれ以下でも以上でもなかったが、全体を通して「星条旗よ永遠なれ」が一番聞かせた演奏会中継だった。今までで一番悪いかもしれないが、来週は期待したい。リサ・バティアスシュヴィリに合わせてのチャイコフスキーだからだ。上のような演奏ではオーマンディー時代のようにルーティンの演奏会が繰り返されることになり、質の悪い録音がまた繰り返しDGから増版されることになる。それを適当にボストン交響楽団と別けあってとなると目も当てられない。サウンドがいかしているだけにカラヤン時代の焼き直しにしかならない。



参照:
デジタルコンサートの新シーズン 2017-08-09 | 雑感
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
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もぞもぞとした地所の味

2018-11-05 | 試飲百景
ボストンからの生中継を録音した。上手くいったようだ。同時刻にアーカイブ録音として、エッシヘェンバッハのアメリカデビューをセル指揮でというのがあった。クリーヴランドの楽団からも「いいよ」を貰ったが聞けなかった。やはり過去のものよりも現在のトレンドの方が重要な情報だ。その過去もそのモーツァルトのピアノも嫌というほど聞いているので確かめるだけでしかなかったからだ。実は寝入ったのは、放送が始まる午前一時の十分ほど前だが、起きだすと三時まで眠れない。徹夜する価値はない。両方を録音することも可能だが、これも睡眠に影響を与えるので断念した。

最初のハイドンの交響曲もボストンのあのアンサムブルの妙が心地よく、同時に鳴りは小澤の時よりも遥かに良い。なるほどライプツィッヒでは出来ないことも可能としているので、二足の草鞋は続くのかもしれない。高名なホールの音響も綺麗に捉えられている。生放送の鮮度が違うのだろうか?

タネージの新曲は、意外に交響楽団が発音に慣れていないような感じで、なぜかゲヴァントハウス管弦楽団の方が初演慣れして遥かに上手いという先入観を覆す印象である。確かに小澤のころからボストンはぐずぐずした発音が特徴で、メリハリがない代わりにボストンサウンドのようなものを形作っていた印象がある。何か当時は、ケンウッドかトリオか東芝がそのようなキャッチフレーズで観音開きのステレオ家財道具を販売していたような記憶がある。シックと称するそれは、些かもこもこした音がしたのだろう。

そうしたなにか歯切れの悪さは後半のエルガー作「エニグマ変奏曲」には向いているのかもしれない。その意味ではいかにもな感じだったが、総合的にゲヴァントハウスとの演奏比較は、芸術性文化性を度外視しても、一長一短であり、よほどのことがない限りアンドリス・ネルソンズがゲヴァントハウスを投げ出す根拠はないと思う。

試飲会に出かけた。結論からするとそれほどいいものは見つからなかったが、悪くもなかった。三種の一級地所からの三種類を比較するのに熱心になった。毎年は出ないギメルディンゲンの「マンデルガルテン」と称する地所のものが出ていたからだ。それの問題はアルコールが13.5%もあって糖が三グラムとなる。要するに栄誉たっぷりなのだが酸が乗っていて、同類のナーヘのシェーンレーバー醸造所の「ハルガンツ」などよりも軽く感じる。いくらでも飲めそうなのが厄介で、飲み過ぎ食い過ぎになりそうだ。日本酒感覚ならばこれでもよいのだろうが、小さな食事と合わせるとやはりぶつかる。今すぐ飲み干すならば香りも高く一番上手かったかもしれないが、半年も置いておくと丸くなって退屈しそうなのだ。だから結局クラシックな選択で「ビュルガーガルテン」を購入した。これは、もぞもぞとしたミネラルで2017年産は特別な出来ではなかったが二年ぐらい掛けて熟成して開いてくる可能性高いからである。要するにがぶがぶ飲んで無駄をすることがないリースリングだ。価格も20ユーロを切っているので文句はない。それに比較すると29ユーロのグローセスゲヴェクスならよそで更におもしろいものが買える可能性が高い。



参照:
赤みが薄い今年の紅葉 2018-11-03 | 生活
還元法は十五年も前のこと 2015-05-06 | 試飲百景
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狩りの日だった土曜日

2018-11-04 | 生活
森の駐車場へと向かった。ジープがコンボイを組んでいる。直ぐには分からなかったが、狩りの連隊だと分かった。いつもの峠からの下り道は閉鎖されていて、おばさんが尋ねてくる。昨年の経験から道の内側で見張りを立てていると教えたが、やっぱり他の方面にしておくわと去って行った。実際峠まで上がって行っても見張り番は居らず、脇道に車を見かけたぐらいで、以前とは違った。前回の時は追いかけられてきたバムビが左上方から降りてきて、これは気を付けないといかないと思ったが、有視界で追い詰めてからしか発砲しないのは分かっている。しかし今年は折り返していく車と遭遇したぐらいだから、あまり獲物が居ないと判断したのだろう。知る限りイノシシの親子は間違いなく居たが、バムビは初夏以降見ていないと思う。私は頻繁に走っているので知っているが、狩人は糞や猟犬の臭覚などから判断するのだろう。イノシシなら徒党を組んで仕留めるほどのこともない。折り返して次の猟場へと移動する感じだった。

私もこの週末から日曜日はパン屋が閉まっているので、土曜日までにそこを走るかいよいよ山登りコースへのシーズンになる。今年は体調もあり記録を出せそうな気は一切しないが、走りやすいシーズンにはなってきた。薄らと汗をかくぐらいの気温一桁二桁の間ぐらいが一番いい。

SSDが届いてからのクリーンインストールの計画を練っている。いつもならば簡単に試してみるのだが、流石にこれだけ経験を積んでくると、システムの作り方などをどうしても考える。先ずはディレクトリD:が必要かどうかで、無くても困らないのではないかと考える。大抵はC:を100から120GBほどにして残りの容量をD:に充てる筈だが、いつも苦労して整理整頓するのがシステムの入っているC:である。今回注文したSSDは240GBなのでそれを全部システムにして、そこにある書類や音楽、ヴィデオなどのフォルダに先ずは入れて、直ぐにNASにミラーにして保存して、一週間内に全て消去するようにしてはどうかなと思う。疑心はNASへの転送が正確に行われてミラーで正確に保存されるかどうかだ。出来る限り書き込み量を減らして長持ちさせたい。同時にSSDをシステム専用にしておけばSSDをそのままクローン化するのも容易だ。一体FUJITSUのノートブックがどこまで長持ちして過不足なく使えるかはわからないが、スピードが物足りなくなればLINUX化すれば機械専用機として間違いなく使える。以前使っていたFUJITSU/SIEMENS機のヒンジが折れてしまったので使えていないが、箱さえしっかりしていればノートブックは今後は長く使えるのではないかと思う。モニターもドッキングステーション化してしまえばどちらでもよく、さしあたってUSBとかブルーテュースとかが古くなるぐらいではなかろうか。

SSDを初期化してパーティションを別けない。リカヴァリーディスクで、その次にネットに入って、つまり割り当て番号が変わるか、変えないようにするには?、あとは先ず8.1にアップグレードしてとことんUPDATEを繰り返す。SAMBAとリモートコントロール機能を整える。先ずそこで中断してHDDを元に戻しておく。そしてNASの方を発注完成させる。そこからは厳選してリストアップしてある必要なプログラムをインストールしていく。三十数GBで留まるか?

屋根を直している。コンサート会場の屋根である。そもそもは葡萄を絞るところだが、老朽化しているので雨漏りが激しいらしい。数年前にも直したのだが、大棟が波を打っているように完全修復は困難だと思う。その下で最近では二日間に亘るオーボエリサイタルの二日目をアルブレヒト・マイヤーが吹いた。当日は雨模様でなかったと記憶する。因みに左へと向かうとオペラ劇場となっているが、これは別棟で、グライボーンを真似てしばらくは毎年開かれていたのだが最近はオペラ上演は行われてはいない。一度見学させて貰おうと思う。



参照:
赤みが薄い今年の紅葉 2018-11-03 | 生活
囮になる狩りのその日 2016-12-18 | アウトドーア・環境
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赤みが薄い今年の紅葉

2018-11-03 | 生活


再び日差しを浴びた。しかし日照時間も限られていて、日が陰ると寒くて座ってもいられない。籠り部屋から出て序にWIN8.1で音が出なかったモニターからもう一つのモニターに接続して状況を見てみる。問題がなさそうだ。ドライヴァーの関係かもしれないが、よくわからない。

森の中も、どうもブドウへの酸の乗り方と同じで、夏の間の朝晩の冷えは殆ど意味がなくて、最終段階で冷え込まないといけないのだろう。2018年産はその意味からあまり期待できない。

リガからの放送を聞いた。本当に分からないのはモノラルでストリーミングを続けているとこで、もうこれは技術とか云々の問題ではなくて、ただ単に人為的な問題のような気さえする。モノラルとステレオにしても一体どれだけの容量が増えるだろうか。要するに細かく処理するパーソナルが居ないということだろう。しかし通常の放送がFMでモノラルということはないのでステレオをモノラル化しているとしか思われない。一体どれほどの経費削減になっているのだろう、ありえないことである。

それでもマルティマイクロフォンで収録しているので細かなところまで分かり、ツィンマーマンの協奏曲も、マーラーの交響曲も詳しく聞けるが、とくに後者は楽譜を見て見なければいけないバランスの箇所が頻出して、一々根拠を探していかなければいけない。アンドリス・ネルソンズに比較するとキリル・ペトレンコのマーラー解釈の方がまるで演奏実践を踏襲しているようなところもある。しかし両者の指揮演奏実践に共通しているのは、グロテスクから抑制の効いた楽曲展開がはかられているところだろうか。ゲヴァントハウス管弦楽団の力を出し切るような指揮ぶりが今後を期待させるもので、写真等を見るとリガでは第一プルトにズスケ氏の息子さんなどの顔が見えた。しかしようやくネルソンズが方方の楽団員から請われる意味が分かった。各々の音楽をやらせてくれるからということだ、そうした自由度は技術の賜わりものであり、楽員経験のなせるものなのだろう。革新的な芸術を追い求めるのでは無い、保守的なヴィーンやゲヴァントハウスの楽団にはこの人以上の適任者はいまい。

籠り部屋のモニターのスピーカーのWIN8からの出力が7出来ない。LINUXでは問題がない。しかし新しい方のモニターでも問題はない。恐らく、プロトコールか何かの関係なのだろうが、皆目分からない。SSDで新しいシステムを立ち上げても変わらないのではないか。モニターのスピーカーは音質が悪いのでそれほど拘らないが、少し気になる。

こうした可能性を見るにつけウィンドーズを使っているよりもLINUXに完全に乗り換えた方が高音質録音が出来ると思うようになった。データーベースなどもウィンドーズには取り柄がないとすると、次のPCでWIN10へ移行するかどうかが分水嶺となる。



参照:
寸寝かさなければ 2018-10-15 | ワイン
再び240GのSSDを発注 2018-11-02 | 雑感
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再び240GのSSDを発注

2018-11-02 | 雑感
朝起きして、PCを開けた。前日に気になっていたモニターの解像度を確かめる。メインのノートブックを籠り部屋に持ってきて比較した。大分違った。部屋の日差しの関係で眼がしょぼしょぼしていたのかなと思っていたが、やはりグラフィックカードの相違だ。A4ノートブックにはgma 4500mhdと称する一体性型のものを使っている。ドライヴァーなどを探したがあまり可能性はなさそうだ。小さなモニターが付いている機種であるからそもそもそれほどは期待できない。

そして昨年同様にメインの方を繋ぐと様々な利点が分かってきた。その中でもA4の方をそれまでのようにDACに有線で接続して再生すると、アクティヴの小さなスピーカーから音楽的な響きがしてきた。これは違うと再認識した。こうなると戻れない。何よりも冬期の眼の健康が大切だ。こうなると決断は早い。

しかし、HDDの音が煩くて、音楽を流していれば気が付かないが、静寂が支配する夜間の部屋ではヒーターのお湯の流れる音とともに気になる。ヒーターの方は機械的な音でないので幾らかはましだが、HDDの機械音は煩わしい。こうなればSSDに取り換えるしかない。

さっそく発注した。先月購入したScanDiskの方はアマゾンで会員向きとなったが、WD社のものはSATA 6 Gbit/sとより速く、価格も1ユーロほど安い。迷いはない。購買者の批評を読むと、気に入らなかった人はどうも初期化からインストールの方で苦労しているようで、それはどの製品でもあまり変わらないだろう。

早速、WIN8.0からのインストール手順を考えている。サポートが効いているうちが華である。8.0から8.1へのアップデートは問題ないと思うが、早めに試してみよう。必要なソフトウェアーも厳選してリストアップして、無駄のないようにクリーンインストールしたい。それも2023年までというから、その240GのSSDはそれで使ってしまえばよい。期待するのは、HDDのクリーン化とシステム専属化で、また高速SSDの使用で動きが速まることもある。現時点では使い難さは全くないのだが、強いて言えば、メディア録音の場合の音飛びの可能性を下げることと、コピー録画ソフトがもう少し快活に動いてくれるのではないかなということだ。生中継録画予定は12月2日の「オテロ」もあるので、独立NASの完備も合わせて早いに越したことはない。

今晩はリガからの10月のゲヴァントハウス管弦楽団中継録音の放送がある。これもトラムペット奏者だったアドリス・ネルソンズがホーカン・ハルテムベルガーのソロにつけてB.A.ツィンマーマンの協奏曲を振っているので楽しみだ。リガとは夏期同様一時間の時差があるようだ。

放送とは関係ないが、フォーアアールベルクでのペトレンコ指揮のマーラープログラムを聴いている。それがとてもいいことに気が付きだした。最初の「若人の歌」のシュムツェンヘアトの声に違和感があったのだが、慣れたのかとてもそのナルシスティックな声がとても作曲家の感性をよく出している。すると付けている管弦楽の応対がとても精妙で、この元放送管弦楽団からは期待していなかった豊かな音楽があった。後半の五番はミュンヘンの座付管弦楽団の演奏として東京公演も行っていてお馴染みだが、ここでの演奏が思っていたよりもペトレンコ指揮のマーラーがダイレクトに出ていることが分かった。これは来年の八番が楽しみになってきた。エキストラを入れた楽団の音も冴えていて、全然悪くないのだ。あの響きと絡み具合は座付では出ていない筈だ。もう一度確かめてみよう。



参照:
籠もり部屋からの操作 2018-10-31 | 暦
SSD初インストール準備 2018-10-18 | テクニック
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