団塊の世代が生きてきた時代というのは何だったのだろうか?
その中に、過激な学生運動に加わっていた人たちがいる。
学生運動と言っても実は私はその内容はよくわからないし、社会情勢や歴史は私の苦手分野であるから、こんなところに何か書けるようなブンザイではないのだが・・・。
確たる思想を持って危険な目にあってまで主張をしたそのエネルギーはすごい。
私は暴力は嫌いだが、納得できないことには黙っていられないような要素があるので、学生運動の頃学生だったら、熱心に運動に加わっていたかもしれない。
それで、私は学生運動をしていたという人から、それについてじかに話を聞いたことはないのだが、実はその後、成田空港に反対している人たちとかかわりをもったことがある。
それはもう1980年代になってからのことだが、自分自身新婚旅行に行くにも喜んで空港を利用していた部類なので、いまさら空港反対と聞いても実感がわかず、まだ続いてたんですか?というのが正直な気持ちだった。
私とその人たちとのつながりは、その空港に反対している三里塚の畑でとれた無農薬野菜を定期購入するというものだった。野菜ばかりではなく、様々な自然食、低温殺菌牛乳などを扱っていたので、子どもが生まれたばかりのころ、健康のためにもよかろうと、その人たちの勧めにしたがってそれらを購入していた。人間の安全を無視した資本主義に対抗するという思想も確かに前面に出ていた。
ある部分では危険思想の持ち主集団と一般社会からは思われていたが、そういうことで付き合う限りは、あまり過激な雰囲気はなかった。
自然食の購入を通して、三里塚の問題にも多少関心を持ち、本などを読んだこともある。
そして、土地の持ち主である農民の運動に、元学生運動をしていたような人たちが加わって反政府運動が過激になっていった流れなどがおぼろにわかった。
だが、結局成田空港反対運動は、空港が開港されて運営され続けるうち、月日を経てだんだん静かになっていった。反対運動をしていた人たちは、その後も意思を変えずに、三里塚の農産物や自然食を売りつつ生業をたてていたように思うが、1990年もすぎると、政府の謝罪もあったとかで、その影響もあってか、私がやりとりしていた人たちの活動は以前ほど盛んではなくなったようだった。普通の仕事に転職する人もいたようで、実質的には解散したのかもしれない。
私も、子供が成長するとともに仕事を始めて自宅にいなくなり、また、家計上も高価な自然食などを買う余裕がなくなり、スーパーの安価な農薬使用野菜と高温殺菌牛乳等を食すようになっていった。
全共闘として過激熱心な活動をしていた学生が、企業に就職したりはせず、セクトとなって社会活動を続け、成田空港反対運動などをし続けていたようだ。その人たちは、かなりの長い期間人生をそれに使ったのであり、中年になって安定した職業に就くというのもなかなか難しかったのではなかろうか?
自然食を売って御用聞きや配達のようなことをしている人たちが、意外にすごい大学をでていたりするのに驚かされた。結婚していない人が多いようだった。
そのグループには団塊世代以上の人もいたし、もっと若い世代もいたが、いずれも長期にわたってある活動に人生を費やしているわけだった。
その人たちは無農薬野菜を広めたり、アメリカ軍の基地や核持ち込みに反対したりなどし、私はその主張に賛同はできるものの、積極的に活動に参加するほどの意義は見出せなかった。
ところで、成田空港は土地買収ができないため、いつになっても完成されず、長い期間中途半端な形で運営されていた。そのような形でも日本の表玄関としての国際空港として活躍し続けてきたが、最近では都心からも遠く不便であるし、騒音問題もあるために、成田だけに表玄関としての役割を課すのは無理があるという見解に至っているようだ。成田1つでは便数も過密すぎるし、海が近い羽田も国際空港として活用するべきという動きがでているそうだ。
空港側は今もなお、土地買収、滑走路完成の希望は捨ててはいないようだが、成田に関する最も激しい時代は終わったような感がある。最初の土地所有者の世代も代わっているようだし、1969年ころの学生運動から移行し関わっていた世代も、もう60歳近くになってしまったということか。
あの学生運動の時代に、同じ場にいた人たちにも様々な人生があったと思う。
卒業後には大企業に勤め、経済を発展させ、バブル期をすごし、その後も生き残り、多額の退職金をもらって会社を引退しようとしている人がいるが、大学を卒業し、そのまま反政府的な活動をし続けた一部の人たちもいるのか・・・とふと思った。
その中に、過激な学生運動に加わっていた人たちがいる。
学生運動と言っても実は私はその内容はよくわからないし、社会情勢や歴史は私の苦手分野であるから、こんなところに何か書けるようなブンザイではないのだが・・・。
確たる思想を持って危険な目にあってまで主張をしたそのエネルギーはすごい。
私は暴力は嫌いだが、納得できないことには黙っていられないような要素があるので、学生運動の頃学生だったら、熱心に運動に加わっていたかもしれない。
それで、私は学生運動をしていたという人から、それについてじかに話を聞いたことはないのだが、実はその後、成田空港に反対している人たちとかかわりをもったことがある。
それはもう1980年代になってからのことだが、自分自身新婚旅行に行くにも喜んで空港を利用していた部類なので、いまさら空港反対と聞いても実感がわかず、まだ続いてたんですか?というのが正直な気持ちだった。
私とその人たちとのつながりは、その空港に反対している三里塚の畑でとれた無農薬野菜を定期購入するというものだった。野菜ばかりではなく、様々な自然食、低温殺菌牛乳などを扱っていたので、子どもが生まれたばかりのころ、健康のためにもよかろうと、その人たちの勧めにしたがってそれらを購入していた。人間の安全を無視した資本主義に対抗するという思想も確かに前面に出ていた。
ある部分では危険思想の持ち主集団と一般社会からは思われていたが、そういうことで付き合う限りは、あまり過激な雰囲気はなかった。
自然食の購入を通して、三里塚の問題にも多少関心を持ち、本などを読んだこともある。
そして、土地の持ち主である農民の運動に、元学生運動をしていたような人たちが加わって反政府運動が過激になっていった流れなどがおぼろにわかった。
だが、結局成田空港反対運動は、空港が開港されて運営され続けるうち、月日を経てだんだん静かになっていった。反対運動をしていた人たちは、その後も意思を変えずに、三里塚の農産物や自然食を売りつつ生業をたてていたように思うが、1990年もすぎると、政府の謝罪もあったとかで、その影響もあってか、私がやりとりしていた人たちの活動は以前ほど盛んではなくなったようだった。普通の仕事に転職する人もいたようで、実質的には解散したのかもしれない。
私も、子供が成長するとともに仕事を始めて自宅にいなくなり、また、家計上も高価な自然食などを買う余裕がなくなり、スーパーの安価な農薬使用野菜と高温殺菌牛乳等を食すようになっていった。
全共闘として過激熱心な活動をしていた学生が、企業に就職したりはせず、セクトとなって社会活動を続け、成田空港反対運動などをし続けていたようだ。その人たちは、かなりの長い期間人生をそれに使ったのであり、中年になって安定した職業に就くというのもなかなか難しかったのではなかろうか?
自然食を売って御用聞きや配達のようなことをしている人たちが、意外にすごい大学をでていたりするのに驚かされた。結婚していない人が多いようだった。
そのグループには団塊世代以上の人もいたし、もっと若い世代もいたが、いずれも長期にわたってある活動に人生を費やしているわけだった。
その人たちは無農薬野菜を広めたり、アメリカ軍の基地や核持ち込みに反対したりなどし、私はその主張に賛同はできるものの、積極的に活動に参加するほどの意義は見出せなかった。
ところで、成田空港は土地買収ができないため、いつになっても完成されず、長い期間中途半端な形で運営されていた。そのような形でも日本の表玄関としての国際空港として活躍し続けてきたが、最近では都心からも遠く不便であるし、騒音問題もあるために、成田だけに表玄関としての役割を課すのは無理があるという見解に至っているようだ。成田1つでは便数も過密すぎるし、海が近い羽田も国際空港として活用するべきという動きがでているそうだ。
空港側は今もなお、土地買収、滑走路完成の希望は捨ててはいないようだが、成田に関する最も激しい時代は終わったような感がある。最初の土地所有者の世代も代わっているようだし、1969年ころの学生運動から移行し関わっていた世代も、もう60歳近くになってしまったということか。
あの学生運動の時代に、同じ場にいた人たちにも様々な人生があったと思う。
卒業後には大企業に勤め、経済を発展させ、バブル期をすごし、その後も生き残り、多額の退職金をもらって会社を引退しようとしている人がいるが、大学を卒業し、そのまま反政府的な活動をし続けた一部の人たちもいるのか・・・とふと思った。