山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

失速とゴテゴテ

2007-02-06 23:53:14 | 未分類過去
目が結膜出血を起こしたときに、放送大学の勉強が失速したのですが、なんだか、そればかりではなく、ブログも失速、仕事も失速という感じです。
マラソンで順調に走っていた人が、急に調子を崩し「まさかの失速」などとよく言われますが、ふとしたことをきっかけに失速してしまうものですね。
ブログはいろいろと書き始めるのですが、なんだか途中で考えがごてごてになってきて中断してしまう状況です。

仕事のほうは、校正、書類チェックの結果の振り返り方法について、私自身の考え方と会社の考え方が合わず、ちょっともんもんとしています。
今の会社は理系の人ばかりです。私は文系で出版社出身で、さらには日本語教師だったので、統計的にどういう間違いがいくつある、多いの少ないのではなく、「どのような状況において、どういう間違いが多くおきるのか、それを無くすためにはどうしたらいいいか」「技術者として普通に使う言葉だが、日本語としておかしい言葉、非常にわかりにくい文章」などということに焦点をおきたいと思っています。

しかし、今の会社の上司や同僚は、ミスの数を表とグラフにまとめて統計的に示すということで、各書類作成者にフィードバックをしようとしています。修正箇所をひとつづつ数え、それを数値としてまとめるのにはかなり時間がかかります。そのことにどれだけの意味があるのかわかりません。

忙しいときには間違いが多くなるのはあたりまえだし、より複雑な内容の書類を作成するひとはそれだけミスも多くなるのはあたりまえです。
図面のミスが多い人がいたとしても、それはその図形が複雑だったからで、簡単な図面のものを担当すればミスが起こらないのは当然です。

確かに数値を見て、間違いの多かった種類のミス(たとえば誤字脱字、たとえば符号まちがい)に今後気をつけようと思うかもしれませんが、それよりも、そのミスがどうして発生するのかということが重要な気がするのです。
ミスの数の統計だけを見て、そんなことがわかるわけではありません。

それは、校正者が「言葉」で説明しなければいけないと思うのです。たとえば、「古い図面を利用し、一部を変更したためにおきていることが多い。」「手書き原稿が汚いために数字や記号が読み取れず間違ったものが記入される」などということを指摘することが大切なことではないかと思います。「図面のミス=37箇所」というようなことでいいのかな~??
しかし、命令されていることは、表とグラフを作ることのみです。

パートタイマーだから、命令されてもいないことには時間を使えないし、言われたことだけやってればいいのか?
フラストレーションをためつつ、昨年の修正箇所を延々と数え、表とグラフ作りに打ち込むしかない毎日です。

もうゴテゴテのままで、ブログ更新します。


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自分の毒に

2007-02-06 02:00:12 | 未分類過去
放送大学の試験も終わり、かなり気がぬけている。
ひさしぶりに、とある掲示板に漢字を尊重する書き込みなどしていたら、こっちを書く暇がなくなった。
自分の意見などを書くと、自分自身の毒に毒されたような気分になる。
意見や主張をすると、かなりエネルギーを使う。

高校生の頃、演劇に夢中になっていて、演劇評論みたいな同人誌(?)を気の合った友人と一緒に作ろうとしたことがあった。当時は、文学座の太地喜和子さんが活躍していたころで、太地喜和子について書き始めたが、結局第一号もつくらずに挫折してしまった。
そのとき、それに使おうとしていたペンネームが、「テアトロ泥子」という。

昔から、どうもすっきりしない人間だ。演劇作りなどでも結構自分の意見を主張してきたが、それは、まわりにドロをかけ自分自身も泥だらけになる気分だった。別に相手を侮辱するとかいうわけではないが、意見の違う人に意見をぶつけるということは、少なからず相手を不愉快にさせるわけだ。
いつも自分についてそのように感じていたので、そんなペンネームを思いついた。
姓は当時毎月購読していた演劇誌が「テアトロ」だったので、それにした。

太地喜和子さんについては、崇拝に近いものだった。私は文学座が好きだ。当時は水上勉の「飢餓海峡」などを上演していた。
当時私は重いテーマの地味な台本を選び、しっかり内容分析をしてから劇を作っていくべきというような主張をしていた。
しかし、演劇部の中には宝塚の「ベルサイユのバラ」のまねをして、「マリーアントワネットはフランスの女王なのですから~」などといって楽しみたいだけのような人もいたわけで、私のような堅苦しい劇作りを敬遠する人もいないでは無かった。そして、自分でもそんな自分自身の灰汁を感じていた。

短大のころ、自分につけようと思った名前は、「まろや」である。
「まろや」とはきれいな名前だ。「まろやか」を連想するだろう。
しかし、「まろや」は「雨月物語」に出てくるへびの妖怪で、人間の女の子に化けたときの名前である。大蛇の化身である女主人にお供していた。
その音に意味のある文字をつけた。「真路矢」。
真の路を進む矢である。男か女かわからないところもいい。
どうもひらがなではなく、漢字の意味にこだわる人間である。

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