山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

いつものごとく

2007-02-24 22:32:55 | 未分類過去
いつものごとく、締まらない休日。
特に予定もなく、散歩に出るにもものすごい強風なので家の中にこもっていた。

この間、本屋に行ったとき、「掃除をすると運気が向く」というような内容の本が何種類も平積みしてあり、どれか買おうかと思ったのだが、どうせ読むだけ読んで終わると思ったので買うのはやめた。
それで、そのコーナーではなく文庫本で「定時に帰る仕事術」というのを買ってきた。

私の仕事は締め切り間近に頼まれた仕事は必然的に残業となるわけで、それは避けようがないものであるが、最近どうも自分の仕事のやり方が効率が悪いような気がするのである。
パソコンを使いこなしていなかったり、うっかりミスがあったりして、思わぬ時間のロスを作ってしまうこともある。
また、日常継続的にやっている仕事の中に単発的な仕事が入ってきた場合、それをどこに入れるかというのも非常に迷う。いつものものを中断していれるのか、それとも一段落した時に入れるか。先日などは一段落したらと思っていたのが結局一段落しないままだったので、単発的な仕事をかなり後まわしにすることになってしまった。
また、急ぎでない自分の仕事が控えている時に、自分本来の担当ではないがなるべく早く済ませたほうがいい仕事があった場合、それを消化しておいたほうがいいのか。
私がそれをやれば仕事がスムーズに進む人もいるわけだが、私自身の仕事はたまったままということになる。でも人のものはほっといて、急ぐ必要もない自分の仕事ばかりしていたら何だか性格が悪そうな感じもする。
どうも最近要領がわるいなあと思っていた。
また、自分の手持ちの資料をファイルしたり、机の中に保存するのもなんか乱雑で、時がたつと共に量も増え、ごちゃごちゃになってきている。
その本には、資料の整理の仕方なども載っているようだったので買ってみた。

それで、先日から流し読みをしていたのだが、きょうは午前中から自宅の机周りをきれいにしようと片付け始めた。
日本語を教えていた時の教材は以前もだいぶ捨てたのだが、まだまだたくさんのものが場所を占領している。今回は、コピーした絵カードすべてと自作の絵カードすべて、また養成講座のときの手書きのノートを、数冊のルーズリーフのファイルから全てはずし、もらったプリントも全て捨てた。

この本によると、過去に手に入れた価値がありそうなものは、本当にもう手に入らないのかということだった。自分にとって貴重に思えてもそれはありふれたものであることが多いとのことだ。
確かに、日本語の教え方などは何度でも勉強しなおすことができるし、教材は新しく買うこともできる。せいぜい何千円ということころだ。自作のものはまた自分でつくればいいことである。
聴解の教材などは、30課くらいあるもので教師用スクリプトと生徒用タスクシートをせっせとコピーし、テープもダビングしたもので、なかなかいい教材だと思っていたものだが、このようなものも、新しく買うことができるし、今ではきっとCDになっているだろうから、頭出しも簡単だ。必要ならば教師用と生徒用の2冊の本とCDを買えばそれですっきりである。

思えば、どうしてこんなにコピーが多いんだ!とあきれる。コピーしたものというのはとかく乱雑になりやすく、整理するのも大変で、いざというときに見つからなかったりする。

特に一番最初に勤めた学校は教科書を使わず生徒に対してもプリントばかり使っていた。また、ボランティアの教室などでも学習者が教材を買う負担を軽減するために教材をコピーしてあげることが多かった。それを準備する手間はたいへんなものだったし、そのときに編集して作ったプリントの元原稿などを全部、教科書別、課別、指導項目別、などということで保存してあったので、その量は半端ではない。
大量の宿便、大量の贅肉のごとく、資源ごみの束となった。
第一、コピーの使用ってのは著作権の侵害にもなりかねない。

この量から行くとコピーに何万円という金額をかけていたことも実感するが、元がかかっているからというだけでこのようなものを溜め込んでおくのはストレスである。
これで、実際的に副教材が無くなったので、それを利用して教えることもできなくなった。
もし教えるとしても、コピー教材などは使わずもっとスマートに教えたいものだ。

ひとしきり不用品処分をしていると、いつものごとく疲れが出てきた。
相変らず机周りはごちゃごちゃのままだが、もう続ける元気は無い。
昼過ぎから夜まで昼寝した。

これで、今日1日はおしまいだ。

コメント (4)