ゴールデンウイークもあと1日で終わりだ。
休み中に、図書館で借りている本をいくらかでも読もうと思っていたのだが、なかなか進まない。6冊借りているうち、野島伸司の「この世の果て」だけ読んだ。
いろいろな分野の本を借りてきたのだが、結局いつも読み終わるのは小説だけである。この題名とは正反対に三木卓の「理想の人生」という小説も借りているが、最初の「まりちゃん」だけ読んで止まってしまった。
読むものはどうしても読みやすい小説になってしまうので、たまにはそうでない本を読みきりたいと思っている。
新刊で「アメリカの政治と科学」(マイケル・ガフ著、菅原努監訳)というのを借りてきたが、非常に理解しにくい。「寄稿者について」とか「序文」とか、前置きを読んでいるだけでいやになってしまう。まるで頭に入らない。それで、飛ばして一部を拾い読みしたが、どうも私の頭には高度すぎるようだ。まだ、誰も借りていなかったようだったので、自分が第一号になりたいと思ったが、これは全部読まずに返すことにした。
昨日から挑戦し始めたのは「表現の自由VS知的財産権」(ケンブりュー・マクロード著、田畑暁生訳)。これも読みにくいなあと思っていたが、腰をすえて読むとなかなか興味深い。厳しすぎる著作権の保護、著作権による利益を追求するあまりに、その作品が人のためになるのが阻害されているという問題点。
先進国が農作物の遺伝子を特許として利益を独占し、昔から作物を作り続けていた発展途上国の農業が阻害される矛盾など、初めて知る興味深い事実を知ることができた。
しかし、やはり内容になじみがなく、自分がここに書いてあるものの何割を理解できているのかもわからない。しかし、とりあえずこの本は読んでみたい。この本も比較的新しく、図書館で多くの人に借りられている形跡がない。
それにしても、上記の2冊は、もともとアメリカ人が書いたものを翻訳したものであり、その読みにくさというのが、英語の文章、英語的文脈、アメリカ的発想の展開法であることが原因のような気もする。どこがどうと説明できないのであるが、もともと日本人が書いた文脈とはどうも進み方の勝手が違うような気がする。
よく、夫がテレビでアメリカのニュースを見ているのだが、そこで同時通訳の人が日本語に訳している言葉の言い回しとも共通点があるような気がする。私はそのニュースを聞いているといらいらしてくる。
たとえば、この本では、・・・
「ティム・カークと著作権法との最初の出会いは、ある道化師が送付してきた「停止命令」という形をとっていた。」
「~の出会いは、~という形をとっていた。」・・・こういう表現に私はいらだつのである。
なんか、格好をつけているというか、くどいというか・・・。
「カークにとって無念なことに、このバンドは、時としていかれた、時として洗練された、時としてうけのよいその音楽でよりも、むしろトラブルで有名であった。」
「時として~、時として~、時として~」・・・こういう表現も、私はイラだつのだ。
日本語にすると、すいすいと流れない、形式ばっている。
そのようは言い回しに違和感と苛立ちを覚えつつも、内容を理解するために我慢して読まなければと思う。
・・・忍耐だ。
休み中に、図書館で借りている本をいくらかでも読もうと思っていたのだが、なかなか進まない。6冊借りているうち、野島伸司の「この世の果て」だけ読んだ。
いろいろな分野の本を借りてきたのだが、結局いつも読み終わるのは小説だけである。この題名とは正反対に三木卓の「理想の人生」という小説も借りているが、最初の「まりちゃん」だけ読んで止まってしまった。
読むものはどうしても読みやすい小説になってしまうので、たまにはそうでない本を読みきりたいと思っている。
新刊で「アメリカの政治と科学」(マイケル・ガフ著、菅原努監訳)というのを借りてきたが、非常に理解しにくい。「寄稿者について」とか「序文」とか、前置きを読んでいるだけでいやになってしまう。まるで頭に入らない。それで、飛ばして一部を拾い読みしたが、どうも私の頭には高度すぎるようだ。まだ、誰も借りていなかったようだったので、自分が第一号になりたいと思ったが、これは全部読まずに返すことにした。
昨日から挑戦し始めたのは「表現の自由VS知的財産権」(ケンブりュー・マクロード著、田畑暁生訳)。これも読みにくいなあと思っていたが、腰をすえて読むとなかなか興味深い。厳しすぎる著作権の保護、著作権による利益を追求するあまりに、その作品が人のためになるのが阻害されているという問題点。
先進国が農作物の遺伝子を特許として利益を独占し、昔から作物を作り続けていた発展途上国の農業が阻害される矛盾など、初めて知る興味深い事実を知ることができた。
しかし、やはり内容になじみがなく、自分がここに書いてあるものの何割を理解できているのかもわからない。しかし、とりあえずこの本は読んでみたい。この本も比較的新しく、図書館で多くの人に借りられている形跡がない。
それにしても、上記の2冊は、もともとアメリカ人が書いたものを翻訳したものであり、その読みにくさというのが、英語の文章、英語的文脈、アメリカ的発想の展開法であることが原因のような気もする。どこがどうと説明できないのであるが、もともと日本人が書いた文脈とはどうも進み方の勝手が違うような気がする。
よく、夫がテレビでアメリカのニュースを見ているのだが、そこで同時通訳の人が日本語に訳している言葉の言い回しとも共通点があるような気がする。私はそのニュースを聞いているといらいらしてくる。
たとえば、この本では、・・・
「ティム・カークと著作権法との最初の出会いは、ある道化師が送付してきた「停止命令」という形をとっていた。」
「~の出会いは、~という形をとっていた。」・・・こういう表現に私はいらだつのである。
なんか、格好をつけているというか、くどいというか・・・。
「カークにとって無念なことに、このバンドは、時としていかれた、時として洗練された、時としてうけのよいその音楽でよりも、むしろトラブルで有名であった。」
「時として~、時として~、時として~」・・・こういう表現も、私はイラだつのだ。
日本語にすると、すいすいと流れない、形式ばっている。
そのようは言い回しに違和感と苛立ちを覚えつつも、内容を理解するために我慢して読まなければと思う。
・・・忍耐だ。