自分が好きなことはなんなのだろうか?
仕事は好きだからやっているってもんじゃない。
お金をもらうためにやっているのだ。
だから、わりきってやるべき最低限のことをすればいいのだ。
でも、なんか、そういう働き方ができない性分だから、
何事も、好きになって、より一層興味を持つように自分を仕向けてきた。
でも、それって、ちょっと違うと思うことがある。
本当に好きじゃないんだってことが、ある日わかったりする。
以前のことでいえば、
私は日本語が好きだから日本語を教える仕事をしていたのだけど、
私は語学が大の苦手で、自分自身が外国語を覚えることができないのだ。
日本語を教えるときは、直接法という方法で、日本語だけを使って教えるので、授業で外国語を使うことはなかった。
でも、やっぱり、外国語をマスターできない日本語教師が、外国人に日本語を教えるのはおかしいと強く感じるようになった。
そういうことを思うと、
今の仕事も決して自分に向いているとは言えないんじゃないか?と思う。
また、喩え話になるけど、
ある人の目が大好きで、憧れていたとする。
でも、目以外のパーツは自分の好みではなく、性格も合わなかったりする。
どうして、「目」だけが素敵だからって、その人を好きになったんだろう・・・。
あるとき、別の部分に関して、「ついていけないなあ」と気がつく。
好きだと思っていたのは、ごく一部分だったんだと気がつくのだ。
だからといって、他に好きなことがあるのかというと、
何も好きじゃない。
自分は何が好きなんだか、何がしたいんだか、
わからないわけだ。
まだ、他にカードがあるって思っているから、人はなんとなく希望を持って生きている。
今の仕事がダメになったら、宅建やればいいとか思ったりする。
ある人は、車が好きだからクルマの仕事がいいなと思っていたのかもしれない。
でも、やってみたら、どうも、そうではなかったなんてことがあるかもしれない。
クルマの世界で生きて行こうと思っていたのに、それが水の泡のように消える。
自分が一番向いていると思っていたものに裏切られたとき、
人は喪失感でいっぱいになるだろう。
しかし、裏切ったのは会社でもないし、他人でもない。
自分自身が勘違いしていただけ。
自分自身が至らなかっただけのことなんだ。
人は絶望したり希望を持ったりするけれど、
実態は何も変わっていないことが多い。
自分が自分に期待できれば、自分はすばらしいものになるし、
自分が自分を見限ればそれでおしまいだ。
だから、結局結論は
何事も「気の持ちよう」ってことなんだ。
仕事は好きだからやっているってもんじゃない。
お金をもらうためにやっているのだ。
だから、わりきってやるべき最低限のことをすればいいのだ。
でも、なんか、そういう働き方ができない性分だから、
何事も、好きになって、より一層興味を持つように自分を仕向けてきた。
でも、それって、ちょっと違うと思うことがある。
本当に好きじゃないんだってことが、ある日わかったりする。
以前のことでいえば、
私は日本語が好きだから日本語を教える仕事をしていたのだけど、
私は語学が大の苦手で、自分自身が外国語を覚えることができないのだ。
日本語を教えるときは、直接法という方法で、日本語だけを使って教えるので、授業で外国語を使うことはなかった。
でも、やっぱり、外国語をマスターできない日本語教師が、外国人に日本語を教えるのはおかしいと強く感じるようになった。
そういうことを思うと、
今の仕事も決して自分に向いているとは言えないんじゃないか?と思う。
また、喩え話になるけど、
ある人の目が大好きで、憧れていたとする。
でも、目以外のパーツは自分の好みではなく、性格も合わなかったりする。
どうして、「目」だけが素敵だからって、その人を好きになったんだろう・・・。
あるとき、別の部分に関して、「ついていけないなあ」と気がつく。
好きだと思っていたのは、ごく一部分だったんだと気がつくのだ。
だからといって、他に好きなことがあるのかというと、
何も好きじゃない。
自分は何が好きなんだか、何がしたいんだか、
わからないわけだ。
まだ、他にカードがあるって思っているから、人はなんとなく希望を持って生きている。
今の仕事がダメになったら、宅建やればいいとか思ったりする。
ある人は、車が好きだからクルマの仕事がいいなと思っていたのかもしれない。
でも、やってみたら、どうも、そうではなかったなんてことがあるかもしれない。
クルマの世界で生きて行こうと思っていたのに、それが水の泡のように消える。
自分が一番向いていると思っていたものに裏切られたとき、
人は喪失感でいっぱいになるだろう。
しかし、裏切ったのは会社でもないし、他人でもない。
自分自身が勘違いしていただけ。
自分自身が至らなかっただけのことなんだ。
人は絶望したり希望を持ったりするけれど、
実態は何も変わっていないことが多い。
自分が自分に期待できれば、自分はすばらしいものになるし、
自分が自分を見限ればそれでおしまいだ。
だから、結局結論は
何事も「気の持ちよう」ってことなんだ。