
解離性人格障害を扱った作品だとわかるまでが結構長い。そして、そこがこの作品の魅力なのである。だいたいオープニングの導入部からしてとても長い。いつまでたっても芝居は始まらない。
客入れから前説まで、作、演出のはしぐちしんさんが自らする。さらには、その後には、この劇場のオーナーである関川佑一さんとのトークショーがあるのだ。最近、小劇場ではアフタートークばやりだが、ビフォアトークなんて聞いた事がない。はしぐちさんと関川さんがこの1周年企画「裸の劇場」について話し、この劇場のことなんかを語り合う。それが終わるとようやく始まる、のかと思ったらまだである。今度ははしぐちさんがこの芝居の製作経緯とか、二人の役者たちのことを延々と語りだす。10分なんかではきかないだろう。そして、ようやく「開演です」という声がかかる。しかし、その後、舞台にはまたはしぐちさんの姿が。
終演後、本人に確認したが、関川さんとのトークシーンも含めて台本に書かれてあるらしい。このマクラ部分のエピソードも当然この芝居の中に組み込まれてある。実はお話が始まる前から芝居は始まっていたのだ。
2人の女たち(香川倫子、竹田飛鳥)が、この乱雑な部屋にやって来る。(舞台上は平台を重ねただけの空間である。たくさんの紙が散らばっている。)そこに、1人の男(はしぐちしん)がいる。しかし、女たちはその男と2対1では話さない。女1と男。あるいは女2と男、という風に喋る。もちろん女同士で話す場面はたくさんある。最初、男は幻で、ここには存在しないのではないか、と思う。しかし、そうではない。
2人の女たちはここにきて、どうってことないことを話している。だいたいここで交わされるすべての言葉は、ドラマを紡ぎあげるための会話ではない。無駄なお喋りの域を出ない。しかし、後半その意図が明確になる。
最初にも書いたが、これが解離性人格障害の女の物語だとわかったところから、芝居はスリリングな展開を見せる。すべてが1人の女の内面の物語だ、という次元から見始めると別の芝居に見えてくる。だが、ここから芝居は一気に彼女の内面に肉迫するドラマに変貌するか、と思わせといて、実はそうはならない。ネタがばれた後も芝居のペースは変わらない。のらりくらりと、この状況は続くばかりだ。それは3人がボールを投げあう場面になっても変わらない。
医師(男)と患者(女)という構図すら明確にしない。どちらが医者でどちらが患者かすらよくわからないくらいの緩やかさだ。これは特定の病気を描く芝居ではない。誰の中にもある病としてのそれを描くことを旨とする。だから、彼女の病気がどんなふうにして進行しているのか、それをどう治療していくのか、なんていう具体的なことは一切描かれない。
タイトル『ハダカの激情』はこの企画「裸の劇場」の音あわせであり、しゃれだが、結果的にはとても奥の深い意味を持つことになった。ハダカの剥き出しになった内面がここでぶつかり合い、ひとつに統合されていく。最後に散らかった紙が集められて平台だけの何もない空間になる。そのことにより彼女の中のいくつもの想いがきちんと整理されていく。
2人の女優たちの間にはしぐちさんが入ることで空間はほんの少し緩む。緊張と緩和のバランスが生まれる。3人が正面から向き合うシーンはない。キャッチボールのシーンですら、そこには必要以上の言葉を介入させない。あらゆる意味で細部までよく考えられた作品である。
客入れから前説まで、作、演出のはしぐちしんさんが自らする。さらには、その後には、この劇場のオーナーである関川佑一さんとのトークショーがあるのだ。最近、小劇場ではアフタートークばやりだが、ビフォアトークなんて聞いた事がない。はしぐちさんと関川さんがこの1周年企画「裸の劇場」について話し、この劇場のことなんかを語り合う。それが終わるとようやく始まる、のかと思ったらまだである。今度ははしぐちさんがこの芝居の製作経緯とか、二人の役者たちのことを延々と語りだす。10分なんかではきかないだろう。そして、ようやく「開演です」という声がかかる。しかし、その後、舞台にはまたはしぐちさんの姿が。
終演後、本人に確認したが、関川さんとのトークシーンも含めて台本に書かれてあるらしい。このマクラ部分のエピソードも当然この芝居の中に組み込まれてある。実はお話が始まる前から芝居は始まっていたのだ。
2人の女たち(香川倫子、竹田飛鳥)が、この乱雑な部屋にやって来る。(舞台上は平台を重ねただけの空間である。たくさんの紙が散らばっている。)そこに、1人の男(はしぐちしん)がいる。しかし、女たちはその男と2対1では話さない。女1と男。あるいは女2と男、という風に喋る。もちろん女同士で話す場面はたくさんある。最初、男は幻で、ここには存在しないのではないか、と思う。しかし、そうではない。
2人の女たちはここにきて、どうってことないことを話している。だいたいここで交わされるすべての言葉は、ドラマを紡ぎあげるための会話ではない。無駄なお喋りの域を出ない。しかし、後半その意図が明確になる。
最初にも書いたが、これが解離性人格障害の女の物語だとわかったところから、芝居はスリリングな展開を見せる。すべてが1人の女の内面の物語だ、という次元から見始めると別の芝居に見えてくる。だが、ここから芝居は一気に彼女の内面に肉迫するドラマに変貌するか、と思わせといて、実はそうはならない。ネタがばれた後も芝居のペースは変わらない。のらりくらりと、この状況は続くばかりだ。それは3人がボールを投げあう場面になっても変わらない。
医師(男)と患者(女)という構図すら明確にしない。どちらが医者でどちらが患者かすらよくわからないくらいの緩やかさだ。これは特定の病気を描く芝居ではない。誰の中にもある病としてのそれを描くことを旨とする。だから、彼女の病気がどんなふうにして進行しているのか、それをどう治療していくのか、なんていう具体的なことは一切描かれない。
タイトル『ハダカの激情』はこの企画「裸の劇場」の音あわせであり、しゃれだが、結果的にはとても奥の深い意味を持つことになった。ハダカの剥き出しになった内面がここでぶつかり合い、ひとつに統合されていく。最後に散らかった紙が集められて平台だけの何もない空間になる。そのことにより彼女の中のいくつもの想いがきちんと整理されていく。
2人の女優たちの間にはしぐちさんが入ることで空間はほんの少し緩む。緊張と緩和のバランスが生まれる。3人が正面から向き合うシーンはない。キャッチボールのシーンですら、そこには必要以上の言葉を介入させない。あらゆる意味で細部までよく考えられた作品である。