先に小説版を読んでしまったので、少しよくない先入観が出来ていたかもしれない。先に小説の感想は書いたが、そこで「これはあまりアニメ向けの題材ではないのではないかという不安を抱いた」というようなことを書いた気がする。(いつものことだが、もう詳しいことは忘れている! そのうえ確認する気もない)
今回はなんとアイマックス上映もある。この映画が大ヒットすることは必然だが、アイマックス用の仕様で作られてあるのかは知らない。基本僕はほかの映画同様通常上映で見る人だ。だけど、今回はとりあえずできるだけ大きなスクリーンで見たほうがいいのではないかと思い、IMAXではないけどTOHOシネマズ梅田1番スクリーン(THX上映)を選んで見た。
公開5日目の夕方の回だったが、半分近くの客席が埋まっていた。スクリーン数も多く、それでもこれだけ入っているのはさすがだ。僕は新海誠監督の『秒速5センチメートル』(これを初めて見たときの驚きは、忘れない)の頃からのファンだが、彼がここまでブレイクするなんて思いもしなかった。うれしいなんて次元ではなく、今はあきれている。とんでもないことだ、と。
お話は知っている。当然小説通りに話は進む。新海作品の場合、それは原作小説でもノベライズでもない。映画の叩き台だ。あくまでも目的は映画にある。まず、結果から話したい。ほっとした。いい映画だった。2時間2分、最後まで緊張が持続する。そしてラストでは幸せな気持ちにさせられる。こんな悲惨な話なのに、である。今回取り上げたのは東日本大震災だ。これは3・11を真正面から描く映画なのである。津波によって母親を失い天涯孤独になった少女が主人公だ。すずめは母の妹である叔母に引き取られて育った。あれから12年。18歳の夏。彼女はある日ひとりの青年に出会う。廃墟を探している、という彼の後を追いかけてすずめの冒険が始まる。
宮崎から、愛媛、神戸へと舞台を移すロードムービーだ。そこでの様々な出会いを通して彼女が成長していく、というのはよくあるパターンだろう。だがこれはただのひと夏の旅を描く冒険物語、というわけではない。彼女には使命がある。この世界を救うことだ。たったひとりの少女(彼女を導く猫と、お供をする小さな椅子がいるけど)がそんな大きな使命を帯びて、誰も知らない世界の終わりと向き合う、ということになるとこれもまたよくあるSFアニメのパターンとなるのだろう。だが、これはそういうわけでもない。
ではこれは何なんだろうか。神戸から新幹線で東京へと向かうところから、お話の後半戦に突入する。東京での戦いがクライマックスではないが、ここでこの作品に方向性が改めて明確になる。当然これはほのぼのとしたロードムービーではなく、孤独な戦いのドラマなのだと再認識させられるのだ。小説はこの先の展開が視覚的に描き切れてなかったから失速したが、映画は壮大なスペクタクルとして見事に視覚化している。これだからこの映画は大スクリーンがいいのだな、と納得する。東京にはこんなにもたくさんの人がいて、変わることのない日々を過ごし生きている。でも誰も気づかないのに彼女はそこで今凄まじい戦いを繰り広げている。見ていて痛ましい。
そして、彼女はほんとうに一人になる。ここから舞台は最終決戦地である宮城へと移る。津波が彼女の家を飲み込み、母親を殺した現場へと。世界を救う戦いだったはずなのに、それは母親を奪ったものとの戦いになる。だが、目的は母の敵討ちではない。それはこの世界の安寧を祈る戦いなのだ。震災や津波を呪うのではない。もちろんそこで失われたたくさんの命を悼む。
幼いすずめは母親の死を受け入れられなかった。当たり前のことだろう。終盤12年前のすずめと今のすずめが向き合い、抱きしめるシーンがある。胸が痛い。映画はスペクタクルの先にそんな魂の救済を描くのである。そこで新海誠のこの映画に込めた決意が明らかになる。あの小説は通過点でしかなかったのだ。そしてちゃんとここまで映画がたどり着いた。だから「おかえりなさい。すずめ」と言ってあげたい。ちゃんと彼女は使命を全うした。彼女の戸締りが終わる。その先には、明るい未来が待つ。