プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井上幹夫

2014-03-02 21:52:33 | 日記
1979年・年俸260万
・左投げの技巧派投手。体はきゃしゃだがボールの回転が非常によく、コントロールはすばらしい。特に大きく手元で変化するカーブは1軍でも十分通用しそうだ。即戦力のショート・リリーフとして期待十分。

1979年
・「ワンポイント・リリーフで十分使えるネ」と、梶本監督から高い評価を受けているのが、ルーキーの井上幹。
ノンプロ・あけぼの通商からやってきた左腕投手だ。ストレートより打者手元で変化させる技巧派だが、「クセ球」に紅白戦でも「おもしろい存在だ」と首脳陣の注目を集めている。監督構想では、ショート・リリーフの型で使いたいようで、
右腕・三枝、左腕で井上が「中継ぎ」として、オープン戦でも相当に出番が回ってきそうだ。チャンス到来に井上幹も「ことしを逃すと、もう二度とチャンスがこない覚悟で頑張ります」とガッツ宣言だ。左腕不足に光明なるか。
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別部捷夫

2014-03-02 19:46:53 | 日記
1968年

「大学ノートがもう六冊にもなってしまったヨ。いまからこれじゃ、キャンプが終わるころには何冊になるか見当もつかん」ギューちゃんこと別部捕手がニガ笑いしていた。別部は中学(徳島県坂東中)-高校(鳴門高)-大学(明大)で捕手の経験があり、そのキャリアを買われて、今シーズンマスクをかぶることになったが、七年ぶりの捕手へのカムバックとあって、苦労も並たいていではないらしい。「プレーそのものは、すぐ思い出すことができたし、スローイングは外野をやっていたときも、キャッチャーみたいな投げ方をしていたからどうってことはないんだけどネ。相手打者の長所・欠点ということになると、ことしは外野から、漫然とみていたときのようなわけにはいかなくて、五球団の打者をぜんぶ覚えるとなると大変なんだ」研究熱心な別部は、スコアラーのデータを分析するのはもちろん、投手にいろいろ参考意見を求めてそれを忘れないよう一つ一つ刻名にメモしている。それがすでに大学ノート六冊になったわけだが、「調べてみると、いままで知らなかったことがわかっておもしろいヨ。成果は後日のお楽しみさ」という。その別部メモに期待しよう。
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高井諭

2014-03-02 18:52:37 | 日記
1968年

「ドン、いい加減にほかのバッターにケージを譲ってやれヨ」田口コーチにいわれた加藤捕手、口をとがらせて盛んにアピールを始めた。「だって、ストライクがなかなかこないんです。ボクは、もう三十分もケージの中にはいっているんですが、バットを振ったのはたった九回です。もっといい球を投げるよう、ピッチャーに注意してください」このときマウンドに上がっていたのは日本コロムビアから入団したルーキーの高井投手。「ランニングの最中に右ヒザをひねってしまい、整調がみんあより遅れているので・・」その分をなんとか取り戻そうとビュンビュン投げたのはいいが、足腰ができていないためか、高い球ばかり投げてしまった。「高井、名前が高井だからといって、フリーバッティングのときまで高い球を投げたんじゃ練習になりゃせんゾ」こうバッターからクレームがついて高井は恐縮。「すみません。きょうは押えがきかずに迷惑をかけましたが、こんどからストライクを投げますから・・」まことにルーキーらしい気持ちいい返事に当の加藤も「いや、なに、その、お構いなく」としきりに頭をかきかき、テレッ放しだった。先ほどの元気はどこへやら。お粗末の一席。
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川根康久

2014-03-02 17:12:23 | 日記

1983年、年俸260万

ファーム成績
1981年・2試合・0勝0敗・2イニング・・・防御率4,50
1982年・8試合・0勝0敗 ・防御率4,50
1983年・6試合・1勝0敗・9イニング ・防御率5,79
「南海時代、後年は打撃投手に転向」

1981年
・今季、柏原東高「大阪」からテスト入団した川根康久投手の背番号「47」に、ひとつの夢がかけられている。同じテスト生で入団し通算320勝をマークした小山正明氏がつけていたのも47番である。「大先輩小山さんにはとうてい及ばないが、一歩でも二歩でも近づきたい。頑張ります」昨秋、中モズで行われたテストで、投手ではただ一人合格した川根。試験官の全コーチから合格点をもらったほどの逸材だ。「小山二世」を目指し目下、自主トレに参加している。将来が楽しみだ。
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渡辺博敏

2014-03-02 13:23:05 | 日記
阪神時代
・クセ球を持ちながら球威不足、制球難が災いして第一線に登場できない。黙々と練習するひたむきな姿勢は好感が持たれる。1976年に阪神を退団後,スポーツ用品会社「デサント」の販売課に勤務する。

1971年、西鉄時代
・「ボクは稲尾さん直々に見てもらいたい。それがダメなら西鉄入りをあきらめます」昨年11月に行われた入団テストで
コーチ連を前に、こう大見得を切ったのが渡辺博敏投手「22歳」である。「印象の強い男だった。素人にしてはタマは速い。フォームを直せば伸びると見て採用した」稲尾監督は20人近く集まったテスト受験者の中から渡辺だけを採用したいきさつをこのように話した。東都リーグ加盟校・日大の本格派投手だったふれ込みの渡辺も当初はプロのカベは厚く「2,3年
気長に育てていきたい」と稲尾監督は見ていた。だが、キャンプ前は、ひょっとすると「掘り出し物」との期待もあり、テスト時のダイナミックな投球が球団首脳陣に強いインパクトを残した。同じテスト生で阪神入りをした小山正明「現・ロッテ」のような金の卵じゃないかと期待し、背番号もレギュラーナンバー「13」を与える。現在はキャンプ早々、二軍行きを決定づけられたような状況だが落胆はしていない。「ボクは芽が出るのが遅いタチなんです。日大時代も4年になって、やっと登板のチャンスが訪れたほど。だから少々のハンデにはくじけませんよ」なんとも頼もしい渡辺の心意気である。この調子なら、いつかきっと目標にする日大の先輩・佐藤「南海」に追いつき追い抜く日も訪れよう。
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