プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

柿崎幸男

2014-03-12 21:25:47 | 日記
1975年

・・・柿崎幸男選手

三沢高校

31、11、28生 1㍍76、72㌔

ドラフト5位。100㍍11秒1の俊足の持ち主。勘が鋭く、パンチ力も抜群で、高校時代3年間で通算20ホーマーをマークしている。積極性、指導力をかわれて主将に選ばれた。「思い切りのよいバッティング、バネのある体は衣笠そっくり」と期待を集めている。
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二宮忠士

2014-03-12 21:13:49 | 日記
1968年

若武者という言葉がピッタリする東映入団第一号の二宮忠士選手(東芝)にはその球歴からも実力とファイターぶりがうかがわれる。昭和37年八幡浜高二年の時、夏の全国大会愛媛県予選に於いて現阪神・プレーイングコーチの谷本稔選手の持つ6打数連続安打の愛媛県高校野球新記録を樹立した。翌38年の四国大会に於いては39度4分の高熱を押して出場。優勝に大きく貢献した。大変なファイターで42年の東芝における公式戦成績は約50試合に出場して打率・330本塁打10本打った安定した中距離ヒッターである。守備でも堅実を誇り、セカンドとショートを得意する。12月19日正式契約を交し多摩川の合宿所入りと同時に近くにある陸上競技場で軽いトレーニングをはじめる張り切りぶり。正月を返上して鹿児島県薩摩郡の樋脇にこもってトレーニングを積み重ねている二宮選手に期待しよう。
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鈴木哲夫

2014-03-12 20:59:03 | 日記
1969年

福島・猪苗代高時代は「怪物」といわれ、草薙キャンプでも早速「ダンプ」とプロレスラーまがいのニックネームをつけられたのが新人の鈴木。大洋が昨年、ドラフトのシンガリで獲得したルーキーだが、その強打ぶりはケタはずれで別当監督の惚れ込みようも大変。「とにかく腕の使い方が素晴らしい。一生?直さなくてもいい。足腰のバランスさえよくなれば、飛距離もどんどん伸びるだろうし、将来、大洋を背負って立つ打者に育つだろう」投手として入団したが、いまは強打を買われて三塁手での特訓中。まだ動きが堅く、肩のほうも野手の肩になっていないが、バッティングになるととたんに本領発揮、九十六メートルの左翼フェンスオーバーを連発して「オレもかすんできたナ」とポパイ・長田を嘆かせている。十八歳で一メートル七八、七八キロ、胸囲一〇八センチの大男は「中学の時はスキーの大回転で県大会で優勝したス、野球はピッチャーで四番、ホームランは大体、場外だったス」と東北弁でボソリという。
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日野茂

2014-03-12 20:48:40 | 日記
1968年

キャンプもあとわずかで終わろうとする二十日すぎに、松山球場へ突然新人が現れた。その男は日野茂遊撃手(二三)=中大ー松下電器=である。しかも入団の決まったのが、この十九日というから、球界でも珍しい遅ればせの補強だ。「どうしても内野、とくに遊撃を強化せよ」という、球団の指令を受けた土屋球団総務の胸中に、すぐひらめいたのがこの日野であった。ドラフト会議では、どこからも指名されていない。「よし、これだ。当ってみよう」昨年まで東京の大学担当記者をやっていた土屋総務だけに、そのカンには狂いがなかった。松山入りしたとき、むしろ小柄な日野を見て、中日選手たちは「フーン、一体どんな新人だろう。どうせ大したことはあるまい」と、だれ一人として特別に関心を持った者がいなかった。大学時代からポーカーフェイスで通っているうえに、内心では相当のファイトを持つ男。なかには「新人のくせに、人を食った態度だな」と、白い目を見せる選手までいたのだが、初めてグラウンドに現れた日から驚かせた。というのは、初めての紅白戦で、なんと新人若生から二塁打、そのあとの打席でランナーを置いて左へ2ラン大ホーマー。これには中日選手たちが「ヘーエ、えらいヤツが飛び込んできたゾ」とびっくりすると同時に、改めて日野を再認識した。もちろん杉下監督や各コーチの第一印象も及第点であった。そうして「武上さんには負けません」と中大時代の先輩、昨シーズンの新人王武上に堂々と挑戦する強心臓ぶりだった。松山キャンプ終盤のうれしい異変であった。
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里見進

2014-03-12 20:32:51 | 日記
1968年

東映戦は鮮やかな逆転勝利をおさめたが、猛反撃のとき、濃人監督は珍しい選手を代打に起用した。それは捕手の里見。ファームから一軍へ入ったばかりの六年生で、もちろん今年はその日が初めての打席。しかし宮崎の球に詰まりながらも、右側へタイムリーして逆転の勝星をたたき出した。里見は一昨年、一軍の試合に出場しホームランを打ったことがある若手捕手だが、昨年腰を痛め、ずっと二軍で働いていた。木樽がファームで整調しているとき、主に捕手をつとめ、その調子を植村コーチに報告する重大な役目をつとめており、インサイド・ワークもよく、打撃もシャープな選手。濃人監督が昨年、二軍監督から目をかけられたことから、そのシュアーさを買われたわけで、「あの子は、みなさんおかしな顔をしますが、いい選手なんですよ。シャープなんですよ」と濃人監督は里見をPRしていた。
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松原良明

2014-03-12 20:23:29 | 日記
1967年

三原監督の退団さわぎをよそに、藤井寺での近鉄秋季練習で大洋から移ってきたばかりの岩本コーチが若手へ新たな情熱を注いでいた。同コーチは練習終了後、若手を雨天練習場に呼んで、岩本打撃教室を開くほどの熱の入れようだが、入団早々とくに目をつけたのが、一八二センチ、九八キロという大柄な松原だった。「なかなかいい気力をしている。下半身がちょっともろいようだが、鍛えれば大洋の松原のようにスケールの大きな選手になれるだろう」と、さっそく外野から内野手の守備練習の仲間入りをさせて下半身の鍛錬、大洋時代、松原を特訓で育て上げた実績を持つだけに、この育成法が近鉄でも再現されるかどうか注目されている。
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