プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

川口孝秀

2014-03-15 23:16:44 | 日記
1975年

近鉄の延岡キャンプで今年、イキなバックグラウンド・ミュージックが流れた。最初のうちこそ勇ましい軍歌ばかりだったが、そのうちに一転してギター伴奏のしぶいノド。昭和枯れすすき、遠くへ行きたいなど、哀愁を帯びたメロディに選手もついホロリ。練習そっちのけで聞きほれていた。実はこのギターの語り弾き、荒木球団課長の要望で川口投手が一時間ばかりテープに吹き込んだもの。川口は例年、キャンプにギターを持ち込むほどの愛好家で、声といいギターといい、まるでプロも顔負けのものを持っている。宿舎は西階球場の隣にある競技場内だが、ここでは練習終了後、連日若手ナインと輪になってギター教室。自ら聞かせることもあるし、また一人一人に歌わせることもある。井本などは川口にホレ込んでしまい、ある日、真剣な顔で言ったことがある。「オレはテレビ局によく知ったディレクターがいる。「一度紹介してやるが、お前の歌とギターなら十分メシを食っていけるよ」-。こう言われた川口は初めのうちこそテレて、顔を赤くしていたが、井本があまりにすすめるのでつい悪乗り。「テレビじゃ、あまり金にならんのと違うか、同じ紹介してくれるのなら、ナイトクラブの方がいいんだがな。どこか捜しておいてよ」と、得意顔。しかし、このやりとりを聞いていた中西コーチがすかさずクギを刺した。「野球も歌のようにうまくやれんものかな。今日のピッチングだと、プロだとは言えないな。もっと気合を入れて練習せにゃ。冗談ばかり言ってると本当に歌手転向になってしまうぞ」プロ入り七年目。もうそれほど若くはない。目下、バッティング投手をつとめるなど下積み生活が続いている。「今年のウチは投手が二十九人、競争はますます激しくなっていきそうです。よほどがんばらないことには・・」このためピッチングフォームを改造中。上手投げから投げていたのを、下手に変えて一日150球の投げ込み。「ようやく感じがつかめてきたところです」練習で疲れた体を、川口はきょうもギターを片手に口ずさんでいやしている。
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小室光男

2014-03-15 20:51:04 | 日記
1968年

南海三連破の立役者として、その対戦の初戦で大殊勲を立てた小室。目下のところ代走要員が本職だが、「チビ、出番や」と声がとべば、「ハイ」と、すっ飛んで塁上に立って気持ちのいい選手。まだ駿足広瀬とは比べものにならない存在だが、南海戦でみせた(十八日・平和台)盗塁と決勝三塁内野安打は、いずれも南海内野陣を、足でかき回して余りあるもの。愉快でたまらんといった中西監督も思わず「うちにもチョロが一人おるぜ。小室、よくやった」と大声を張り上げたほど。敗戦の重い足をひきずってベンチへ帰る広瀬が、これを聞いてジロリと目をむいてにらみつけていたが、この日からチビ小室は、チョロと改名したも同然。チョロといえば「ハイ」と答えているからにくい男である。
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加川敏治

2014-03-15 19:12:57 | 日記
1974年

広島・加川外野手が充実したキャンプ生活を送っている。昨年テスト生として入団、進境を認められて日南に呼ばれた。好天に恵まれ、連日の猛練習、やっと一週間目に休暇がもらえたというのに、加川だけが不服そうな表情だ。「もうくたくただ。これ以上やられると死んでしまうよ」というナインの中で、一人ケロッとして言ってのけた。「そうですか。ボクは平気ですけどね」名門・広陵高に入学したのは、佐伯がちょうど卒業していった年、一年生80人のうち早くも実力を認められて他の4人とともにベンチ入りした。ところが思いもよらぬ病魔から退部せざる得なくなった。胃かいよう。「とても野球を続けられる体じゃない」医師の宣告は冷たかった。半年もたたない一年生の夏だった。絶望に打ちひしがれる加川。無気力になりヤケにもなった。こんなとき、父真吾さんの言葉が激しく胸を打った。「なんだ、それぐらいのことで男がメソメソするな。何も野球は高校だけのものじゃない。ノンプロだって、プロだってやろうと思えばできるはずだ」治療に専念し、ようやくボールを握れるようになったのは一年生の終わりごろ。ただし軟式野球部にしか入れなかった。それから毎日、血のにじむような努力が続いた。早朝ランニング、夜の素振り300回。そしてプロ選手の分解写真を見て研究し、専門書の愛読。まだ二年生のとき、初めて広島のテストを受けたが、あっさりと一次試験で落第。だが竹内育成部長から「やる気があるのなら、来年もう一度受けてみろ」と希望の灯は消えなかった。「どうしてもプロ野球でやりたい」頭の中はプロのことでいっぱい。そしてまた一年間の苦しみが続き、一昨年秋、待望のテストに合格したのである。昨年、ウエスタンに40試合出場、打率は・202だった。いまは一軍とともに鍛えているが、オープン戦が始まるころにはまた広島に帰らされるかも知れない。それでも加川は胸を張って言った。「福本さん(阪急)を目標に、やれるところまでやってみる。オヤジも楽しみにしているんだ」
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内田周作

2014-03-15 18:36:21 | 日記
1976年

昨年11月のテストでは、外野手として合格したが、その強肩をかわれて投手で入団した。「あこがれていたプロ野球に入れて最高の感激です。この気持を忘れずに思い切ってやります」と目を輝かせていた。

1977年

小柄な男だが大変なファイター。昨年は一軍の手伝いにしばしばかり出されたが、グチ一ついわず黙々と練習に励んできた。その努力が実を結び、ストレート、変化球が一段とよくなってきている。あすが楽しみの存在。
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佐々木茂

2014-03-15 17:50:38 | 日記
1973年

ドラフト外で、佐々木茂(1㍍80㌢、72㌔)という異色の投手が入団した。入団するまでの勤務地は岩手県大船渡市場、いわゆるヤッチャ場の若い衆である。大船渡高時代はバレーボールの選手で国体にも出場している。しかし、野球も大好きだったそうで、魚市場につとめだしてから大船渡パイレーツという地元の軟式クラブチームに入団。地方大会でおおいに活躍していた。そこをヤクルトのスカウト網にひっかかり、テストを受けた結果、三原監督の「おもしろい」といった理由がまたふるっている。テストを受けたとき、佐々木が投げるのはいつまでたってもストレートだけ。しびれを切らした三原監督が「ストレートはいいから、次はカーブ」と注文すると、マウンド上で「ボク、カーブなんか投げたことがない。タマの握り方さえ知らないんです」あわてて河村コーチが佐々木のところにとんでいって、即席に握り方を伝授したが何しろ佐々木にとって初めて投げる球種。なかなかそのコツをのみこめず、いくら力投してもキャッチャーミットのはるか手前でワンバウンド。とうとうその日は最後まで、捕手のところまでノーバウンドで到達しなかった。ところが、三原監督は逆にそこがお気に入り。「手付かずの味といいますか、自然食品のような魅力があります。硬式野球の経験不足はありますが、こんな選手もおもしろいんじゃないですか」入団発表の席で、佐々木はヤッチャ場の男らしく胸を張っていった。「ボク、まっすぐしか投げられません。でもがんばります」変わってるうー。
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宮崎昭二

2014-03-15 11:52:36 | 日記
1967年

八月九日は、宮崎投手にとって忘れられない日になった。南海戦で嵯峨をリリーフしての一勝は、プロ入り以来(六年目)、夢にまでみた十勝ライン到達を実現させたのだ。おまけに、開幕以来、地道に緑の下で投げ続けた火消しが、花を咲かせて、規定投球回数が満たされた。プロ入り以来、初めて新聞紙上、投手成績の欄に「宮崎」の名が出たのもこの日だった。しかも防御率一・八四で、一躍パ・リーグの第一位にランクされたのだから、感激はひとしおだった。文字通り待ちに待った記念の一日を迎えた宮崎は、じっくりと喜びをかみしめていた。「防御率もうれしいが、ピッチャーである以上、勝ち星が十勝になったことが何ともいえない喜びです。昨年、一昨年とヒジと肩を痛めてもうダメかと思った。ことしはやっと痛みもとれて、がんばったカイがあった。先発投手への夢はあるが、一応自分の力に応じたリリーフ役で、これからも、悔いのないピッチングをしたい」これまでの最高勝ち星は四勝。しかし、その持って生まれた制球力をフルに生かして、プロ六年目で花を咲かせた努力は見上げたもの。佐賀県鹿島高出の二十四歳。「投手の基本はコントロール。それをもっている宮崎はもっと早く出てきても不思議でない投手なんだ。投手陣が安定しない今シーズン、逃げ込みには安心して使える宮崎はウチのエースといってもいい」水原監督はこういって宮崎を讃えている。
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川内雄富

2014-03-15 09:42:33 | 日記
1969年

三割一分(打撃三位)、二ホーマー、十二盗塁という好成績をひっさげて一軍入りしたばかりの巨人のチビッコ外野手川内(広陵高・元広島)が、こんどは左のワンポイント投手として特訓を受けはじめた。金田がダウンし左投手は高橋一ひとりという現状から「肩のいい川内ならワンポイントに使えればいいと思って・・」(藤田コーチ)というのがその理由。この川内、昨年の五月に巨人の深沢投手と珍しいファーム選手同士の交換で巨人へ移籍。一メートル七一、七一キロという小柄ながら馬力のあるバッティングと強肩が売り物。今シーズン古巣の広島戦で西本から代打ホーマーを飛ばしている。特に、その強肩ぶりには定評があり、こんどの投手練習もそこを買われたわけ。しかし当の川内は困惑しきった表情だ。「広陵(高校)の時にピッチャーは二か月程やったことがあるだけ。第一ストライクが満足に入らないし、カーブなんてとてもとても・・」と尻込みしているが、首脳部の方は「これから段々慣れさせていく」という考え。プロ入り三年目に勝手のわからぬ東京の球団へ移籍され、今度は救援投手へコンバートの話。「左利きなばかりに大変ですよ」と川内はしきりにボヤいている。
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板東順司

2014-03-15 09:27:48 | 日記
1968年

多摩川から後楽園へ、倉田につづいてもう同人ルーキーが、その希望に胸をときめかしている。それは、鳴門校から今季入団した板東投手(一八二センチ、七五キロ)で、十三日の後楽園でのイースタン東映戦に初勝利をあげにわかに脚光を浴びた。板東は百メートルに十一秒台の快足の持ち主で、バッティングもよく、このまま成長すれば一軍入りも間近かいと見られている。
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平井誠一

2014-03-15 09:19:32 | 日記
1968年

入団当時軟式野球出の特異な選手として知られていた近鉄・平井もすでにプロ入り六年目、いまでは若手選手のリーダー格として、また一軍ベンチへ入ったときはヤジ将軍として勇名?を馳せている。一、二軍が歩調を合わせて下降線をたどった六月初旬、ついにいたたまれなくなった三原監督はシーズン中異例の強化合宿に踏み切った。平井は、この強化合宿でもたくましいエネルギーで沈滞した空気を打ち破ろうとハッスルしている。初日の朝から起床ラッパの代わりになったのがヤジで鍛えた平井のドラ声。「全員起床!」平井にたたき起こされたあと藤井寺球場でランニング、体操、打撃練習・・。ファーム選手が集まってくるとむろんそのリーダー格。ウエスタンの試合に出ては九州男子らしいハッスルプレーをする。鍛え直すのが強化合宿の目標だが、平井はタフガイぶりを発揮して、早朝から深夜の素振りに至るまで一、二軍のパイプ役だ。
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小平誠次

2014-03-15 09:10:11 | 日記
1968年

「体力はあるし、第一筋金が入っている。三年目ごろが楽しみ」-と注目を集めていた自衛隊出身の異色の新人、小平誠次選手(巨人)が徐々に腕を上げてきた。後半戦に入って七打数三安打(二十一日現在)。百メートル十一秒八の快足を買われて、最近は本職の捕手の他、右翼手に起用されたりで大忙し。「好選手の多い巨人で、先発メンバーから出ているのはさすが」と小平株は上昇してきた。一メートル七八、七五キロと恵まれた体。西部自衛隊(北九州)当時から強肩強打で鳴らし隊内での体力検定、百、千五百、五十メートルの土のう(五十㌔)運搬、重量あげ、銃剣術でも常に一級の腕前という抜群の運動神経の持ち主だっただけに、プロ野球でも地道に伸びている。小平を獲得した内堀スカウトも「性格はおとなしいが、バッティングにさえ自信をつけたら楽しみの多い選手。これからまだまだ伸びるし、三年先には必ずのしてくると思う」と、大きな期待を寄せている。小平は「きびしいいけど野球の楽しみもわかってきました。いまの中にうんと鍛えて貰って、いい選手になりたい」と黙々と汗を流している。鉄カブトをマスクに変えた二十一歳の前自衛隊陸士長の後半戦を注目したい。
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阿部良男

2014-03-15 08:39:04 | 日記
1969年

西鉄に東田、竹之内につづくノンプロ出身の優秀なルーキーが登場した。シートバッティング、紅白戦と次第に力を発揮して、ついにオープン戦で「実践的な打撃が魅力」と、中西監督に認められた阿部外野手である。宮城水産ー全常盤を通じ四番を打っていたが、首脳陣からみれば掘り出し物の部類に属する選手。一日ごとに成長して産経とのオープン二試合には二打数で無安打だったのが、次の広島戦ではボレスのあとの四番に置かれて二打数二安打の大当たり。新人に似ずものおじせぬ度胸が買われている。阿部は東北人特有の重い口で、「プロは変化球が多いので的がしぼりにくい。だからつい悪球に手を出してしまう」といいながらも、プロでもやれるという自信が日ごとにふくらんでいく感じだ。
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松下芳夫

2014-03-15 08:32:18 | 日記
1969年

近鉄のホープ松下捕手が希望に満ち溢れた年を迎えた。プロ入り一年目の昨シーズンの成績は一軍で一試合、ウエスタンで三十七試合、打率二割一分八厘、三ホーマーとまずまずの成績、そのうえ旧冬知子夫人と藤井寺に新居を構えた。「家庭を持ったのだから一軍入りの夢を果さなきゃ・・・」松下は新妻の巧リードで、トレーニングにせっせと精を出している。
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西村公一

2014-03-15 00:37:12 | 日記
1967年

よみ返ったホームランで阪神のホープ西村は四番打者の座にしっかり根をおろしてしまった。その話題のホームランは阪神のウエスタン第一試合対西鉄戦で飛び出した。この試合は八回西村の左翼第一号ホーマーが飛び出した後、降雨のためコールドゲームが宣告され、七回打ち切りとなり、西村の処女ホーマーも記録として残らなかった。ところが後日野球規則の適用で宣告までのすべての記録が算入されることになり、西村の第一号ホーマーも追加記録、甦るホームランとして日の目を見ることになった。以来西村に運が開けてきた感じ。六試合を消化したところで二十一打数六安打の五打点。打率は0.333で阪神若手のホープとして四番打者の重責をまっとうしている。未完だが、将来の四番打者と見込んだ藤本監督はこの西村に英才教育を課し、一日も早く第一線に出場できるよう徹底的に鍛えている。一八三センチ、七九キロの恵まれた体格。むろん兄(元阪神投手西村一孔氏)譲りで、野球に対するセンスもいいものを持っている。甦ったホームランースターのタマゴは、やはりそれだけの話題をまきながら順調に育っている。
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住吉重信

2014-03-15 00:26:17 | 日記
1967年

岡村浩一人しか頼れない阪急の捕手陣だけに、二番手捕手をめぐる争いが一段と激化している。現在のところ、中沢、岡田、住吉の三人が互角のまま開幕に突入したが、メキメキ台頭してきたのが、ファーム生活六年目を迎えた住吉である。この住吉は、昨年限りで阪急を退団することになっていた。プロ野球の厳しさに耐えかねたのである。彼は親父が郷里の飯塚(福岡県)で医者を開業しているのでその手伝いをすることになっていた。ところが、球団首脳陣がもう一年と住吉の奮起をうながした。てっきり整理されるものと思っていた住吉にとっては、大げさにいえば人生の分岐点。住吉の選んだ道はプロ野球だった。「あのときの決心をいまも忘れずやっていきたい。辞める気持ちであれば、少々のつらいことはやっていけるだろう」とハリキル住吉には、十年目で芽を出した矢野の生きた実例が目の前にある。矢野に比べると住吉はまだその半分の五年。「矢野さんの生きた手本を目標にがんばります。今年一年がすべてですわ」という住吉は、オープン戦でも快打ぶりが認められ、いまでは一軍を経験した中沢、岡田と五分の勝負を挑めるまでになった。「あとはインサイドワークとバッティング。与えられたチャンスを確実にものにしなければ」と住吉は人一倍のハッスルぶりで再びプロ野球の返り咲きを狙っている。
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