プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石戸四六

2015-03-18 23:47:16 | 日記
1961年

国鉄スワローズは二十一日午後四時から丸の内の球団事務所で、日立製作所の石戸四六(イシトシロク)投手(21歳=秋田商)の入団を発表した。同投手は身長1㍍74、体重74㌔で右投右打、スリークォーターからの速球と、シュートを武器としている。三十三年の夏は二年生ながら甲子園のマウンドをふみ、徳島商の板東(現中日)と投げ合って惜敗している。三十五年に同社に入り、今夏の都市対抗野球大会には、日鉱日立に補強されて出場、倉レ岡山を5安打に押えて3-2で降し、二回戦の山陽特殊製鋼戦にはリリーフで好投している。秋田商では先に大洋入りした佐々木吉投手の二年後輩に当たる。二十四日から公式戦に出場できる。

砂押監督の話 未完成だが、それだけにまだまだ伸びる可能性があるわけだ。体格もいいし期待してもいいだろう。

石渡投手の話 大毎、大洋球団からも話がありましたが、国鉄が一番熱意を示してくれたし、私の力を認めてくれたので、国鉄を選んだ。どこまでやれるかわからないが、一生懸命にやるつもりです。武器はシュートなので、その効果を生かすためにもなお一そうのスピード・ボールとカーブをマスターしたい。
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遠藤浩司

2015-03-18 23:22:38 | 日記
1962年

阪急ブレーブスでは六日午後四時から大阪梅田の航空ビル九階シルバーで、東北高の遠藤浩司(こうじ)投手(18)=身長1㍍78、体重75㌔、右投右打=の入団を発表した。同投手は二年生のころからプロ・スカウトの目にとまった本格派投手。今夏の予選(宮城県)決勝では育英学園に敗退したが、遠藤投手はリリーフとして活躍。予選4試合を無失点におさえている。阪急では同投手を米田二世として大きな期待をかけている。なお遠藤投手は39年度の入団選手のため、研修100試合は来季から適用される。

遠藤投手の話 阪急を選んだのは投手を育てるのが上手だからです。武器は速球とドロップですが、とにかく一生懸命がん張り、米田さんのような投手に早くなりたいと思います。

阪急丸尾スカウトの話 昨年村上君をとりに行ったとき、遠藤君をみたのだが、球が速いので一ぺんにほれ込んだ。東映、近鉄からも誘いがあったらしいが、ウチへきてくれた。球が速いのが第一の魅力で、ウチの米田君に似たピッチングをする。体も大きく、将来が楽しみな投手だ。
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漆畑勝久

2015-03-18 22:58:37 | 日記
1961年

漆畑勝久選手…明大、清水東高出身、1㍍78、74㌔、右投右打

同選手は清水東高時代から大型遊撃手として定評があり、甲子園大会では持ち前の長打力と軽快なフィールディングをみせて注目された。当時からすでにプロ球団のスカウトがマークしていたが、その将来性をみこんだ島岡監督(現総監督)が熱心に勧誘、明大入学の運びとなった。入学後は西村選手(現拓殖銀行)のあとガマとして二年生の春からレギュラーの位置を確保、大型にありがちなもろさはあったもののつねに明大の主軸として活躍。とくに今春は三割六分七厘を記録して打撃四位、ベスト・ナインには満票で選ばれている。春以来プロ各球団はその素質をみこんで獲得にのり出した。広島、大洋、東映、阪神、中日、近鉄などがあるが、なかでもっとも積極的だったのが広島で、同選手の長兄が広島カープの出資元である東洋工業に勤務しているところから交渉をすすめ、本人はもちろん、島岡監督にもぬかりなく手を打つ一方、清水市の同選手の実家に両親を訪ねて入団を嘱望した。一方、内野陣に悩みを持つ東映も激しい追い込みをみせ、大洋もまた積極的に勧誘したが、同選手は早くから長兄のすすめる広島を意中の球団ときめており、また広島では条件的にも他チームに見おとりせぬ額を提示して意欲的な勧誘につとめ、これが実ったものである。長兄が十一月二日上京し、明大島岡総監督と最終的な話し合いを終えたのち、シーズン終了後正式契約をかわすもようである。

漆畑選手の話 兄もすすめる広島が自分としても働きやすい球団と思ったから、お世話になることに決めている。細かい話は来月二日に兄が上京するから、そのときに島岡さんにもよく相談して最後の結論を出したいと思っている。

明大・島岡総監督の話 本人は広島に決めているようです。漆畑君の兄さんが来月上京するそうですから、このときにはっきりすると思う。
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永易将之

2015-03-18 21:40:25 | 日記
1961年

東映フライヤーズでは二十三日午後三時半、東京京橋の球団事務所で永易将之投手(21)=大工大付属高出身、1㍍76、71㌔、右投右打=の入団を発表した。永易投手は三十五年近畿電電に入社、三十六、三十七年の都市対抗に出場、三十七年の都市対抗に出場、三十七年の第33回大会では日本ビールを相手に21回1/3を投げ切ったほか、昨年秋に行われた大阪大会の日本新薬戦でノーヒット・ノーランを記録した。速球を武器とするタフな本格派投手で西鉄、南海、阪急、大洋からも狙われていた逸材である。

永易投手の話 高校卒業時をはじめ、これまでに三、四の球団から誘われたが、自信がなかったのでことわりつづけていた。しかしいまは自信らしいものがついたのと、東映が熱心に入団をすすめて下さったのでプロ入りに踏みきった。球威、制球力ともまだまだ不十分で、これからみっちり勉強しなくてはいけないが、稲尾さんのような投手になりたいと思っている。

水原監督の話 ことしの夏西下したとき永易君のピッチングを見たが、そのときひと目見てこれはいけると思った。ボクが見たかぎりではカーブはまだ甘いが、スピードがある上、シュート、スライダーがいいので、多田コーチらにみっちり鍛えてもらえば、近い将来にデビューして貴重な戦力になってくれると思う。
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吉田定敬

2015-03-18 21:29:38 | 日記
1961年

吉田投手は33年泉陽高から関学大に入学、当時エースだった柴山(現阪神)を助けてその年の春季リーグ戦からベンチへ入り、第一週の対神大一回戦では先発投手として登板、七回投げて無安打奪三振12というあざやかなデビューぶりで注目を集めた。そして翌34年には柴山にかわってエースの座に君臨、関学の春秋の連パの原動力となった。そのころ南海は藤江マネージャー、阪急は矢形投手(現マネージャー)を介してかなり積極的に勧誘に乗り出し、中退を勧めたが、吉田投手は「大学選手権さえとればプロへいく」といったことで藤江、矢形両先輩も手を引いた。ところが、35年春のリーグ戦での関学は四位に転落、秋季リーグ戦では当の吉田投手が右ヒジを痛め一時は再起不能とさえいわれたことから、自然プロからの話も立ちきえとなった。しかし、その後も吉田の素質を高く買う阪急の西村コーチ(現東映)一人だけは熱心に勧誘をつづけた。一方吉田投手は今春ごろからももと通りのピッチングができるまでに回復するとともに、今夏の休みを利用して別府へ温泉治療にいってヒジの痛みを完全に治した。今秋のリーグ戦では好調時に比して、全くそん色のない速球をビシビシと投じて再び脚光をあび、阪急、大洋、大毎、東映、阪神などが積極的に動き出したが、東映は西村コーチがガッチリと食い込んでいたため、東映入りは動かないものとなった。

吉田投手の話 主将として最後まで全力でリーグ戦を乗り切らなければいけないときだけに、いまはまだ何ともいえません。リーグ戦もあと一試合残っていますから…しかしヒジの痛みも全然なくなったし、専門医に見てもらった結果もう大丈夫だといってくれたのでプロへいく決心がつきました。どの球団にするかは4球団ほど話がありますので、リーグ戦の全日程が終ってから両親とも相談してきめたいと思います。
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