プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

黒田能弘

2015-03-29 20:33:28 | 日記
1961年

黒田能弘投手…北海道北見北斗高校卒、身長1㍍80、体重74㌔、右投右打、背番号64。

黒田投手は三十四年高校卒業後巨人へ入団、三年間籍をおいていたが、ことし自由契約選手となった。黒田選手はさっそく近鉄のテストを受けたが、過日別当監督、野口コーチが藤井寺球場でテストした結果合格、今度の近鉄入団の運びとなったもの。

黒田選手の話 近鉄におられる竹下さんとは、一年だけ多摩川やオープン戦でバッテリーを組んだことがありますし、同室で生活をともにしました。巨人で下手投げのフォームに変えろっていわれて気分的にくさっていましたが、肩をこわしたことはありません。むしろ巨人時代より、いまの方がスピードが乗っていると思います。外角のストレートと落ちるシュートでがん張りたい。来年からはさっそく合宿にお世話になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安藤統夫

2015-03-29 20:21:56 | 日記
1961年

安藤統夫遊撃手…安藤選手は茨城県立土浦第一高校在学中、三年の夏甲子園に出場、卒業後農大に進学、一年の春季リーグ戦対明大二回戦からレギュラーとして出場、同年新人賞を獲得、三年生の春秋にそれぞれベスト・ナインに選ばれるなど、東京六大学では屈指の好選手で数多くの球団から誘われていた。しかし自分の意思を貫徹、阪神入りに踏み切ったもの。吉田に衰えのみえはじめた阪神にとっては非常なプラスになるものとみられている。なお阪神が東京六大学のスター・プレーヤーを獲得したのは二十三年の後藤次男(法大)別当薫(慶大ー全大阪)以来のことである。右投右打、1㍍73、67㌔、ベース一周14秒6の俊足の持ち主である。昭和十四年四月八日生まれ。

千葉県土浦一高出身、二十二歳、昭和三十二年の選抜大会に出場して注目を浴び、三十三年プロからの勧誘を退けて慶大進学、春のリーグ戦から遊撃手の正位置を獲得した。三十五年春秋連続ベスト・ナインに選ばれ、今年は主将に推された攻守走にすぐれた好選手。政治学部四年。右投右打。

安藤選手の話 阪神は子供のときから好きだったし、とにかくタイガースでやるんだという気持をもっていた。それがタイガースを選んだすべてです。ことしの春、バッティング投手をして投げすぎ、肩を痛めた、そして夏に阪大清水先生に診断をうけた。そのときは休めばなおるといわれていたが、秋のリーグ戦ではかなりよくなり、現在は八分か九分どおりなおっている。

藤本監督の話 非常な戦力となるものと思う。打、走、守と三拍子そろった好選手だ。いまのプロ野球では三拍子そろっていなければダメだが、安藤君はその点は優秀な選手である。久しぶりに東京六大学からのスター・プレーヤーであるのでみなさんの期待も大きいだろうが、それにこたえてくれるものと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城野勝博

2015-03-29 08:33:40 | 日記
1962年

城野勝博投手…同投手は鳥栖工一年生のときから同校野球部のエースとして活躍、佐賀県下高校球界では豪速球をもって定評があった。しかし一年生当時にチームが西九州代表決定戦(甲子園大会地区予選)に進出したほかは、大きな大会には出場しておらず、同投手の名は中央球界に知られていない。広島カープでは久野スカウトがノン・プロ東圧大牟田の前監督だった関係から同校野球部関係者に知り合いが多く、その線から同投手の父兄に入団勧誘を行っていたもので、広島入りは九分九厘決定的である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田英俊

2015-03-29 07:27:47 | 日記
1962年

池田投手は31年福岡高から明大に進み、同年の春季リーグ戦ではメンバー表にも名を連ねることのできなかったまったくの無名選手で高校時代はさして注目されるような活躍はみられなかったが、続く春の新人戦、対慶大戦に先発で初登板、五回まで三者凡退の好投を示したことで明大の主力選手の一人に仲間入りするとともに、秋季リーグの対立大二回戦デビューして以来、つねに明大投手陣の重鎮となっていた。とくに32、33年の春、秋4シーズンは持前のコントロールのよさにものをいわせて、八面六ヒの活躍でプロ球団からもかなりマークされた。しかし四年になって一時腰を痛めピッチングが出来なくなったためプロからの誘いも自然遠のき、35年卒業と同時に誘われていた八幡製鉄に入社した。八幡に入社してからの池田投手は気候的に恵まれたこともあってすっかり腰の負傷も回復、大学時代の快刀乱麻なピッチングが復活するようになった。そして今春の九州社会人野球を観戦していた広島カープの白石重役が本人に直接入団方を交渉したが、そのころは彼自身プロでやる自信がなく、話は進行しなかった。しかし今夏の都市対抗で日炭高松(北九州代表)の補強選手として出場したことで自信をつけ、プロ入りにふみ切り、産業対抗野球終了後、入団先を決める予定になっていたところ、去る十日の鉄鋼部門予選で日本鋼管に敗れ、十一日帰福したナインとは大阪で別れて広島入りを返答したもの。右投右打、1㍍69、66㌔。

広島カープ白石重役の話 まだハッキリいえないが、八割ぐらいまでウチにくるだろう。あとは本人が入団かどうか意思表示すればよいという段階だ。

八幡製鉄石橋監督の話 試合後、池田君はプロ入り予定のためかどうか分からないが、われわれより遅れてかえる。彼のカープ入団はうすうす聞いているが本人からまだなにもきいていないので、なんともいえない。ただ本人の動向や大阪での試合に報道陣の注目を集めていたことから、かなりプロ入りの話は進んでいるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽村起夫

2015-03-29 07:11:08 | 日記
1964年

十一月に行われた南海ホークスの秋季トレーニングに参加、このほど南海入りが決定した羽村起夫投手=倉敷工高出身、身長1㍍83、体重78㌔、右投右打=が二十一日山下スカウトに連れそわれて南海球団事務所に姿をみせた。同投手は今春センバツ大会に出場し、倉敷工のエースとして活躍した本格派投手。なお同投手の南海との正式契約は近日中に行われる予定である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大熊忠義

2015-03-29 07:01:35 | 日記
1963年

大熊は昨春浪商から近大へ進学、すぐレギュラーとなったが、36年浪商時代には春、夏甲子園へ連続出場。夏の大会では一年後輩にあたる尾崎(東映)らと全国優勝を成し遂げた。シュアーな打撃は当時から光っていたが、今春の関西六大学リーグ戦では、ベスト・テン第七位(3割2分7厘)この秋季リーグ戦では一躍ベスト・テン第二位(3割7分5厘)にあがり、その好打ぶりは注目されていた。阪急では春のリーグ戦あたりから大熊三塁手に目をつけ、西本監督、藤井スカウトもたびたび足を運んで近大のゲームを観戦に行っていたが、夏ごろ一時中退はしないということで、阪急はもちろん他球団も手を引いたかたちとなっていた。だが、秋のリーグ戦終了後、家庭の事情のため、このまま学業は続けられないという結論から中退ープロ入りを決心、早くから熱心な態度を示してきた阪急へ入団することを決めたもの。大熊は十四日午後、電話連絡で近大の松田監督へ中退の意思を明らかにし、退部届けを提出したことを最終的に報告、了解をえた。松田監督はかねてから大熊選手の苦しい家庭の事情をよく知っており、その点で積極的に引きとめられなかったようだ。「プロですぐには活躍はムリだろうが、素質は十分ある選手」というのが同監督の評だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上雅則

2015-03-29 06:25:43 | 日記
1963年

村上雅則投手…法政二高、左投げ左打ち、身長1㍍81、体重81㌔

同投手は柴田(現巨人)の一年後輩にあたり、法政二高が昭和三十五年夏、三十六年春と高校球界の連続制覇を達成した当時エース柴田のカゲにかくれて、甲子園のマウンドをふむ機会は少なかったが、今夏の神奈川予選で、慶応高校に準優勝で5-1と敗れたが、本格派の大投手として将来を嘱望されていた投手である。村上の入団に際し、鶴岡監督みずから上京のたびごとに交渉に当っていた。また大毎、近鉄が誘いにのり出し、大洋ホエールズは同投手の先輩にあたる的場選手を仲介にして、入団の交渉に当ったと伝えられている。なお背番号は10。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする