プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ビル西田

2015-03-23 20:20:53 | 日記
1963年

元大毎のビル・西田投手がこの日国鉄のキャンプに参加してテストを受けた。さる二十四日まで大洋のキャンプに加わっていたのだが、不採用となったため友人の宮本を頼ってこんどは国鉄を訪れたもの。小山コーチの61番のユニホームに着かえると浜崎監督の見守る中に片岡を相手にさっそくピッチング。「二十四日までやっていた」だけあって変化球もまじえて約百球ほど全力投球を行った。「スピードは無理としてもカーブ、スライダー、チェンジ・アップなどで十分やれると思う」と自信満々。浜崎監督は「二、三日見てから」と採用を後日にのばした。
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後藤修

2015-03-23 20:19:17 | 日記
1963年

西鉄の第一次整理者となった後藤は十年間に8チームを転々、七転び八起きの旅路だった。しかし彼はボールへの情熱を燃やし続けている。さて球界のジプシーの異名を背負ったまま後藤は再び新天地をもとめている。二十九日夜の納会では後藤は契約更改の交渉日時の通告を受けなかった。玉木マネからただ三十日、会社にくるよう…といわれただけだった。後藤は「まさか…」と不吉な思いにかられた。三十日藤本球団課長から後藤へ言い渡されたのは自由契約選手の通告だった。昭和二十七年十七歳のとき松竹ロビンス入団のプロ生活第一歩から同二十八年洋松ロビン酢ー同三十年東映ー同三十一年大映ー同三十二年巨人ー同三十四年近鉄ー同三十六年南海ー同三十八年西鉄が二十九歳の今日までの球歴。「今季は自分の力を出し切れないままでした。若林コーチの指導でフォームを変えてスライダーをマスターしかけのテスト生の年だったんです。登板の機会は少なかったが、それでも好調のときは三振の数が多かった。ボクはまだまだ投げられるんだと希望がわいてきましたね。だから藤本課長へ西鉄のトレード・ルートである広島か中日へ紹介して下さいといっておいたのです。それがだめならどこのチームでもけっこうです」後藤は再び球界行脚をどこかのチームに求めているのだ。
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