1961年
高野中学時代から豪腕のきこえが高く、京都球界では注目していたが、兄賢雄(法大)と入れ替わりに平安へ入った。二年生あたりからぽつぽつ頭角を現わし三年生の藤野の(東映)とともにプレーをわけ合った。ところが、肩をこわし、藤野一人で投げ通し、大崎は未完の大器のまま埋もれてしまうのではないかと思われた。そして昨春にもまだ回復せず、あとから出てきた坂本の独舞台。ようやく夏の予選から持ち前の速球をびしびし決め、玄人筋からも絶賛を浴び、スカウトの目にもとまって大洋入りの運びとなったわけだ。ずっと面倒をみてきた富樫淳元監督(神戸製鋼監督)は、この夏のピッチングをみて「長身から速球がすべて低目に決まり、気をそらす、カーブの使い方もうまくなった。また鋭角に投げおろすドロップにも一段と凄味を増した」と、快心の笑みを洩らしていたが「しかし、彼の弱い性格がプロの世界で、あらゆる困難にうちかっていけるかどうか」と、心から心配顔。八百屋を営む長兄哲雄氏以下男ばかりの五人兄弟の四番目。両親も健在で、何不自由なく暮らしてきた。恵まれ過ぎた環境ともいえるが、それだけにどうも性格的なもろさがある。藤野と二人で投げ合っていた時代、藤野は遠征試合に行くと、たいがい負けてばかりいるが、彼は、平素藤野に比べれば負けつづけていても、こと遠征試合では勝ってばかり。遠征試合では近親の者たちがいない気安さで、実力を存分に発揮できるからではないかといわれるくらいだ。昨夏の甲子園大会準々決勝で、彼のワイルドピッチで決勝の点を失って負けたが、このとき思わず彼はグラウンドへグラブを叩きつけた一件がある。まるで捕手の罪だといわぬばかりだったが、これもやはり生来の弱さからではなかったろうか。精神的な鍛錬こそ目下の急務だとは、彼を知る人たちの一致した意見だろう。
高野中学時代から豪腕のきこえが高く、京都球界では注目していたが、兄賢雄(法大)と入れ替わりに平安へ入った。二年生あたりからぽつぽつ頭角を現わし三年生の藤野の(東映)とともにプレーをわけ合った。ところが、肩をこわし、藤野一人で投げ通し、大崎は未完の大器のまま埋もれてしまうのではないかと思われた。そして昨春にもまだ回復せず、あとから出てきた坂本の独舞台。ようやく夏の予選から持ち前の速球をびしびし決め、玄人筋からも絶賛を浴び、スカウトの目にもとまって大洋入りの運びとなったわけだ。ずっと面倒をみてきた富樫淳元監督(神戸製鋼監督)は、この夏のピッチングをみて「長身から速球がすべて低目に決まり、気をそらす、カーブの使い方もうまくなった。また鋭角に投げおろすドロップにも一段と凄味を増した」と、快心の笑みを洩らしていたが「しかし、彼の弱い性格がプロの世界で、あらゆる困難にうちかっていけるかどうか」と、心から心配顔。八百屋を営む長兄哲雄氏以下男ばかりの五人兄弟の四番目。両親も健在で、何不自由なく暮らしてきた。恵まれ過ぎた環境ともいえるが、それだけにどうも性格的なもろさがある。藤野と二人で投げ合っていた時代、藤野は遠征試合に行くと、たいがい負けてばかりいるが、彼は、平素藤野に比べれば負けつづけていても、こと遠征試合では勝ってばかり。遠征試合では近親の者たちがいない気安さで、実力を存分に発揮できるからではないかといわれるくらいだ。昨夏の甲子園大会準々決勝で、彼のワイルドピッチで決勝の点を失って負けたが、このとき思わず彼はグラウンドへグラブを叩きつけた一件がある。まるで捕手の罪だといわぬばかりだったが、これもやはり生来の弱さからではなかったろうか。精神的な鍛錬こそ目下の急務だとは、彼を知る人たちの一致した意見だろう。