プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山中賢次

2023-10-12 22:18:33 | 日記
1982年
鳴門商の山中賢次投手(17)が阪急に6位指名された。知らせを受けたのは午後四時前。山中は佐藤部長、浦田監督とともに校長室で「指名されたことはうれしいけど、プロ入りする気はなかったので…」ととまどった表情。夏の徳島大会後、阪急を含む8球団から氏名のあいさつがあったが、その後「まだまだプロでやっていく自信がない」と社会人入りを希望。すでに電電四国(松山市)入社が内定しており「これから部長、家族らと相談して決める」と慎重な構え。佐藤部長は「本人の意思に任せます」と話していた。山中投手は上分中時代はソフトボールの投手、鳴門商に入ってから野球をはじめ、183㌢、75㌔の恵まれた体格、強じんな足腰のバネで早くから期待されていた。二年の県秋季大会決勝で池田を2-0、四国大会でも帝京第五(愛媛)に完封勝ちし、選抜大会出場の原動力となった。下手投げ特有の浮き上がる球と切れのよいカーブ、落ちるシュートが武器。また四番打者としてパンチ力は十分で、打撃面でも素晴らしいものを持っている。浦田監督は「体力的にもバランスがとれ、将来が楽しみな好素材。努力次第でまだまだ伸びる」という。

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田頭光男

2023-10-12 22:04:47 | 日記
1955年 

昔は捕手だったそうだが、投球にスピードもあり、なかなかタフなようである。自然に投げた球がスライドするらしいが、さして威力あると思われない。それよりもフォームを安定させ、力の配合に意をそそぐべきだろう。
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山崎剛

2023-10-12 22:04:47 | 日記
1979年
ドラフト外PL学園・山崎剛投手(18)=180㌢、76㌔、右投げ右打ち=の入団内定を発表した。同投手は無名ながら、近大付属中学校時代は軟式の近畿大会優勝投手。柔らかいからだから投げおろす将来性豊かな本格派投手。

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橋本政雄

2023-10-12 21:57:57 | 日記
1955年
昨夏甲子園大会で、中京中山(現中日)と対戦して、完敗を喫したので、その仇討をプロ野球日本選手権でもやろうと、大した決意、斗志で西鉄へ入団したという。真向上段から投げ込む速球と、ブレーキの大きいドロップはよい。性質は素直。また水戸っ子らしい頑張り屋である。頭脳の方も、三百八十人中主席を競ったほどのきれ味を持っている。他に特徴といえば、トンカツなら三、四枚ペロリといった大食だ。

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小林勝巳

2023-10-12 21:44:57 | 日記
1955年
北関東の雄、大生相互銀行のピッチャーだったが、同チームが解散してからは、殆ど練習らしきものをしなかったらしく、入団当時は太り過ぎていた。キャンプで一番シボられ、一貫五百匁痩せた。現在は五尺四寸、二十一貫だ。スナップスローのピッチャーで、意識して投げるスライダーがよい。球が軽いのが難点だ。

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金城鉄治

2023-10-12 21:26:59 | 日記
1983年
今春の沖縄キャンプ中に入団の決まった金城鉄治投手。初登板は5月28日の対近鉄11回戦(広島)だった。8対5と3点リードされた9回表に登板した金城は、エラーがらみで2失点はあったものの自責点は0。「負けのゲームだったし、テストのつもりで使ってみた。まあ、初登板にしてはよく投げた」と阿南二軍監督。球種は速球と落差の大きなカーブ。「コントロールに難があるし2、3年は体作りが先」というように一軍に目を向けるのは、先のことになりそうだ。練習だけで日々を送るよりは少しでも試合を経験させて、励みにしてほしい、というのが首脳陣の考えである。「伊藤、田中健ら、このところ1イニングずつだけど投げさせてみたんだが、みんなよく投げる」(阿南監督)。ルーキー、高校出の投手たちの今後の成長が楽しみである。

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井洋雄

2023-10-12 21:04:39 | 日記
1962年
広島をクビになった井洋雄投手が、濃人中日監督に拾われた。日鉄二瀬のエースだった彼が、なぜ陽の目も見ずカープから出されたか、これは手先で投げるフォームをなおされたからだ。ところがこれが失敗、カープの指導は理論上は間違ってなかったが、井の個性が死んでしまった。そこで濃人監督は、井のフォームをドラゴンズ入りと同時に元の小さなものに変えさせた。球は生き生きとして来、強い彼のリストがよみがえった。レギュラー・バッティングでも大活躍だが、今シーズン、井の変則投球がどれだけのものをいうか。同時に個性が大事か、理論が大事かの解答を見せるモデル・ケースとして興味深い。

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植田健作・上田重夫

2023-10-12 20:52:04 | 日記
1960年
シーズンに入ってから、三原監督は山口県柳井中の陸上選手だった植田健作という十五歳の少年と、和歌山県田辺高出身の上田重夫という沖仲仕の二十一歳の投手を、練習生として採用した。評判を札束で追いかけるのがチームの強化策ではない、という三原流のスカウト。二人とも前途有望の折り紙付きといわれているが、これなども三原監督の「打倒巨人」三年計画の一端に入るのだろう。

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