1974年
的場祐剛(左翼手)は横浜でスナックを経営しているが、かつてのチームメートとは、ほとんど音信不通の状態である。大洋から中日へ、そして退団。消息は法政二高当時の堀場マネジャーしか知らなかった。堀場氏によれば「サラリーマン金融、カセットテープの販売など、いろいろやったようですが、やはり、十四年前の優勝が心の支えになっている。決して弱音を吐く男じゃありません。どんなつらい時でも自分でやってみせるってがんばっていました」
1977年
6月25日、川崎臨港署に覚せい剤密売の疑いで逮捕された的場祐剛は十数年の星霜を経た現在、「両脇がドス黒く、頬がコケ」「いつもコーラを飲みながら焦点があわないうつろな目」という近所の証言もあり、覚せい剤常習者にすっかり変わっていた。34年に法政二高に入学し、1年の夏からレギュラー。甲子園の土を踏むこと四度、二年夏、三年春と連続全国制覇し、的場は高校球界のスターだった。とくに三年春のチームは今もって高校野球史上最強と言われた。的場は主将として癖のある連中をうまく統制し、人望もあったようだ。その後、俊足巧打を買われ大洋に入団、三年目に中日に移籍したが芽が出ず一年でユニホームを脱いだ。プロ公式記録は試合9、3打数ノーヒット。期待されたわりにはさっぱりだったのだが、当時の大洋のコーチ連は口を揃えて「好選手だったが、体が小さいうえに特徴がなく、プロとしては線が細かった」と。また法政二高時代の監督だった現阪神スカウトの田丸氏も「プロより堅実な会社の方がよかったんだが…」プロを去った後は沖仲仕、サラ金、と職を変えた。大人のオモチャ屋、スナックと転々。たまにしか連絡を取っていなかったという肉親は「人が良すぎて利用されたんだと思います。覚せい剤を打つようになったのは痛風(中日時代の足の故障)が治らず、痛がっていたようでしたから」華やかなプロ球界の影の部分を元同僚の一人が語っていた。「プロで駄目になった時、それをアマ側で受け入れるようにしないと、野球外の社会でやる時におろおろするんです」野球しか知らない男を歓迎するほど、世間は甘くないと知るべきなのだが・・・。
的場祐剛(左翼手)は横浜でスナックを経営しているが、かつてのチームメートとは、ほとんど音信不通の状態である。大洋から中日へ、そして退団。消息は法政二高当時の堀場マネジャーしか知らなかった。堀場氏によれば「サラリーマン金融、カセットテープの販売など、いろいろやったようですが、やはり、十四年前の優勝が心の支えになっている。決して弱音を吐く男じゃありません。どんなつらい時でも自分でやってみせるってがんばっていました」
1977年
6月25日、川崎臨港署に覚せい剤密売の疑いで逮捕された的場祐剛は十数年の星霜を経た現在、「両脇がドス黒く、頬がコケ」「いつもコーラを飲みながら焦点があわないうつろな目」という近所の証言もあり、覚せい剤常習者にすっかり変わっていた。34年に法政二高に入学し、1年の夏からレギュラー。甲子園の土を踏むこと四度、二年夏、三年春と連続全国制覇し、的場は高校球界のスターだった。とくに三年春のチームは今もって高校野球史上最強と言われた。的場は主将として癖のある連中をうまく統制し、人望もあったようだ。その後、俊足巧打を買われ大洋に入団、三年目に中日に移籍したが芽が出ず一年でユニホームを脱いだ。プロ公式記録は試合9、3打数ノーヒット。期待されたわりにはさっぱりだったのだが、当時の大洋のコーチ連は口を揃えて「好選手だったが、体が小さいうえに特徴がなく、プロとしては線が細かった」と。また法政二高時代の監督だった現阪神スカウトの田丸氏も「プロより堅実な会社の方がよかったんだが…」プロを去った後は沖仲仕、サラ金、と職を変えた。大人のオモチャ屋、スナックと転々。たまにしか連絡を取っていなかったという肉親は「人が良すぎて利用されたんだと思います。覚せい剤を打つようになったのは痛風(中日時代の足の故障)が治らず、痛がっていたようでしたから」華やかなプロ球界の影の部分を元同僚の一人が語っていた。「プロで駄目になった時、それをアマ側で受け入れるようにしないと、野球外の社会でやる時におろおろするんです」野球しか知らない男を歓迎するほど、世間は甘くないと知るべきなのだが・・・。