プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

的場祐剛

2023-10-14 22:01:29 | 日記
1974年
的場祐剛(左翼手)は横浜でスナックを経営しているが、かつてのチームメートとは、ほとんど音信不通の状態である。大洋から中日へ、そして退団。消息は法政二高当時の堀場マネジャーしか知らなかった。堀場氏によれば「サラリーマン金融、カセットテープの販売など、いろいろやったようですが、やはり、十四年前の優勝が心の支えになっている。決して弱音を吐く男じゃありません。どんなつらい時でも自分でやってみせるってがんばっていました」


1977年


6月25日、川崎臨港署に覚せい剤密売の疑いで逮捕された的場祐剛は十数年の星霜を経た現在、「両脇がドス黒く、頬がコケ」「いつもコーラを飲みながら焦点があわないうつろな目」という近所の証言もあり、覚せい剤常習者にすっかり変わっていた。34年に法政二高に入学し、1年の夏からレギュラー。甲子園の土を踏むこと四度、二年夏、三年春と連続全国制覇し、的場は高校球界のスターだった。とくに三年春のチームは今もって高校野球史上最強と言われた。的場は主将として癖のある連中をうまく統制し、人望もあったようだ。その後、俊足巧打を買われ大洋に入団、三年目に中日に移籍したが芽が出ず一年でユニホームを脱いだ。プロ公式記録は試合9、3打数ノーヒット。期待されたわりにはさっぱりだったのだが、当時の大洋のコーチ連は口を揃えて「好選手だったが、体が小さいうえに特徴がなく、プロとしては線が細かった」と。また法政二高時代の監督だった現阪神スカウトの田丸氏も「プロより堅実な会社の方がよかったんだが…」プロを去った後は沖仲仕、サラ金、と職を変えた。大人のオモチャ屋、スナックと転々。たまにしか連絡を取っていなかったという肉親は「人が良すぎて利用されたんだと思います。覚せい剤を打つようになったのは痛風(中日時代の足の故障)が治らず、痛がっていたようでしたから」華やかなプロ球界の影の部分を元同僚の一人が語っていた。「プロで駄目になった時、それをアマ側で受け入れるようにしないと、野球外の社会でやる時におろおろするんです」野球しか知らない男を歓迎するほど、世間は甘くないと知るべきなのだが・・・。

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米増豊

2023-10-14 21:36:17 | 日記
1962年


一月十七日、その日はブレーブスが自主的トレーニングに入った二日目のことだった。そこへバットを持った一人の男が入ってきた。宇都宮マネを探しにきたのだ。「あいつどこかで見たような顔だな」とだれかがつぶやいた。「米増と違うか」「ヨネマス?誰」「近鉄の二軍にいたやろ」「ああ、外野を守っていた」昨シーズンまで近鉄の外野手として二軍戦にときどき登場した選手だ。「そうや、テストを受けにきたんやろ」一度味わったテスト生の苦しみをまた今年も味わいにきた男、米増豊選手がそれだった。昨年のはじめ、近鉄ナインが自主トレーニングで汗を流していたある日。大きなバッグを下げて一人の選手がやってきた。それが一年前の米増だった。その日からくる日もくる日も米増はテスト生という名で練習に参加した。外野を守り、守備はうまかった。約15日間の練習の末、近鉄に入団が決まった。つらい努力がやっと報われたのだ。ところが入団したものの米増が考えていたほどプロの水は甘くなかった。二つも三つも年下の選手が華やかに活躍するのを横目で見ながら、無意味に過ごした一日を振り返り、焦った。覚悟はしていたものの球団から整理選手をいい渡されたときは、舌打ちしたかった。テスト生がゆえに受けた不遇、思いは悪いことにばかりつながった。しかし、「何とかなるだろう、近鉄ばかりがチームではない。一生懸命やれば・・・」と新規巻き直しだと思った。その米増は17日からのブレーブスのトレーニングに参加している。「関大からテストを受けて近鉄に入った。しかし、出発点から僕は大きなハンデを背負っていたことに気がつきませんでした。実力がすべてに優先するということだけではこの世界では渡っていけないということですね。やはり毛並みのよさというものが絶対必要ですよ」と米増はいう。「しかしまだ希望は失ってません、とことん自分の力を試してみます。阪急のトレーニングに参加したのもそのためです。結果はそれから先です」米増の決意は尊い。だがその決意だけで果たして希望がかなれられるか。「自分から力を試してみるのだーという気持ちは甘やかされた選手より根性がある。これが米増にとってたった一つの特徴なんだ」とあるコーチは言っている…。

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有吉洋雅

2023-10-14 21:18:50 | 日記
1955年
五尺九寸、二十一貫という堂々たる巨体から豪速球とシュートを投げる。いわば西村型のスケールの大きい投手。万事に落ち着いた選手で、小事にコセコセしない。監督や先輩が呼んでも、一度や二度では返事をしないというシブトさをもっている。

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近藤晴彦

2023-10-14 15:03:47 | 日記
1961年
近鉄は大洋の自由契約選手となった近藤晴彦外野手を、スプリング・キャンプにテスト生として参加させることに決まった。同選手は昨シーズン31試合に出場したが、見るべき成績を記録できぬまま整理された。「どこかで野球をやりたい」と情熱を捨てないところを見込んだ千葉監督が、とりあえずテスト生として参加させることになったもので、採用されるかどうかは、キャンプの結果による。これについて近藤は「結果として不甲斐ないシーズンだったが、何としても野球生活をつづけたい。そのためにはキャンプだけでなく、キャンプ開始日が試験日のつもりで、それまで猛練習する」と決意を語っている。

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泉嘉郎

2023-10-14 14:14:39 | 日記
1969年
くる日も、くる日も、バッティングピッチャー、二十代の若者にとっては、まるで灰色のような生活であった。苦節五年、その青年がようやく陽が当り、脚光を浴びようとしている、プロ入り六年目の泉嘉郎投手である。ここ数年、オフシーズンになれば、泉はスポーツ面には目もくれず、いちばん先に見るのは求人案内の広告であった。そして求人欄の中でいつも目に入ってくるのは、運転手求むのところであった。「長距離トラックの運転手なら給料も高いし、ファーム時代と同じくらいの給料はとれるのではないかと思いましてね」いつ球団から自由契約の通知があるか、ビクビクとした寂しい気持ちの毎日であった。去る二日の姫路球場での対中日にこの泉が、オープン戦第一戦の先発を命じられた。結果は、六回を投げ、打者二十一人に対して三安打の散発、三振三個をとって完封してしまった。中日の主力打者は、キツネにつままれたように「あの下手投げのピッチャー、なんといったか…」と、呆気にとられていた。それほど泉のピッチングは冴えていた。ついでに六日、大阪球場の対阪神戦も、救援で四回を投げノーヒット、三振二個の好投を見せた。この試合も勝利投手となって、二試合で二勝、快調の出だしであった。この泉は、三重県菰野高から入団し今年で六年目。入団した当時は上手投げであった。ところが、三年目のシーズン途中に、当時の柚木二軍監督から「お前の球じゃ、プロでゼニはとれんぞ、上から投げるのはあきらめて下から投げてみんか」といわれた。下手投げの練習には必死だった。注目され始めたのは、昨年後半からである、下手投げという投法もさることながら、一生懸命投げる泉の姿に藤江ピッチングコーチが目をつけた。公式戦終盤に、六試合に起用されて十イニングを投げ、経験を深めた。さらに磨きがかかったのは昨秋の日南キャンプだった。「低目に落ちる球はいい。外角へのスライダー、カーブがまともであれば、そう打てるバッターはいないはず」藤江ピッチングコーチが、このように太鼓判を押すまでに成長した。下手投げ投手が苦手とする左打者に対しても、落ちる球でビクともしない。とくに九日の阪神戦では、藤田平、カークランド、遠井らの左打者に対して、外角シュートで勝負し、また右打者には速球とカーブで堂々と勝負した。泉が闘志を燃やすのは、その右腕に、昨年一月十四日に結婚した弘子夫人と、二ヶ月になる一粒種の長女かおりちゃんの生活がかかっているからだ。現在の段階ではペナントレースに入ってもまだ救援か中継ぎといったところだが、藤江コーチは「通用できそうなチームがあれば、どしどし先発で使っていくつもり」といっている。飯田監督も「いい者はどしどし使うのがプロ野球。年功序列なんてのはプロの世界では通用しないんです。泉ももちろん使っていきます」と、その実力を高く評価している。六年目やっとつかんだチャンス。今シーズンこそ、新聞を開けば求人欄には目もくれず、派手な自分の活躍を活字で見ることができるのではないか。ようやく、咲かせた希望の花、自らのためにも、弘子夫人やかおりちゃんのためにも立派に実らして欲しいものである。

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斎藤幸夫

2023-10-14 12:33:19 | 日記
1965年
新聞で東京オリオンズのライン・アップを見て気がつくのは、近頃、ゴールデンボーイの山崎に代わってショートに斎藤というあまり馴染みでない名前が並んでいることである。殊にこの斎藤選手、左右の動きも敏速だしタマさばきも軽く守備のうまさは定評つきだったが、打力がやや迫力に欠けるというので控えのそのまた控え選手といった立場で一軍とファームを往復していた選手。ところが八月に入って遊撃の位置をまかされるや好守好打、打率も・261を打ち、なかなかいい線をいっている。東京は吉祥寺生まれ、桐朋学園という進学率のいい高校から早大入り、二年で中退してオリオンズ入りした、いわば無名の選手。体も1㍍73と小柄だし、温和な顔立ちをしているが、二年間の下積み生活で鍛えてきただけになみなみならぬバイタリティと根性の持主とみている。この目下、金の卵の代役をつとめている斎藤選手が契約金ゼロのテスト生で入団したというから世の中は皮肉なもの。中途退学した理由と言うのは父を小さいときに亡くし母一人に育てられましたので経済上の事情もあり、当時野球部内でゴタゴタしていて楽しい空気ではなく、いっそのことプロの世界でやってみようという決心でオリオンズのテストを受けてみたわけです」38年の秋の入団だからことしは3年目、22歳の油ののりつつあるところである。今シーズン、前半はファームの田丸コーチが下でみっちり打法を仕込まれたのが、大いにプラスになったという。体力のあまりない斎藤選手としては体重をうまく利用した、シャープなバッティングを身につけつつあり、これが打率上昇の一因となった。遊撃手といえば、すぐ吉田、広岡ときてしまうが、彼はあくまで誰というより個性のある自分なりの選手でありたい、と芯のある事をいう。座右の銘はわが歩む道はこの道の他なし。趣味といっても薄給の身でこれといったものはなく、テレビで歌謡曲を聴く事。好きなのは女心のバーブ佐竹。目下、立川市錦町にある自宅で母と弟の四人暮らし。ただいまの望みは価値ある選手になって給料を上げてもらうこと以外にない。

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石橋貢

2023-10-14 10:59:01 | 日記
1992年
石橋さんは、神奈川大から、昭和54年ドラフト外で大洋に入団。昭和63年5月28日の阪神戦では1試合3ホーマーという快挙も演じている。平成2年、須藤監督が就任してから出番に恵まれず、その年のオフ、ヤクルトへ移籍。しかし、昨年も一軍の出場はわずか1試合だけだった。引退後、現在は、横浜の「株式会社石材センター」に勤務する石橋さんだが、就職したいきさつがおもしろい。「うちの社長と大学の野球部の監督が知り合いで、石を扱う仕事ならウエートトレーニングになると思い去年のオフからバイトしていたんです。そうしたら野球を辞めることになって、そのまま居着いたというわけです」会社は、社名からもわかるように墓石をはじめ石材の販売、それに、道路や公園などの工事も請け負っている。「仕事の内容は工事部ということで、現場で職人さんの手助けと監督をしています」そのため、起床は午前5時40分。7時過ぎには会社に出て、工事が始まる8時前には現場に到着する毎日だという。「職人さんより遅かったら示しがつきませんからね。早寝早起きです」昨年の年棒は、1100万円。現在は「月給にして3分の1ぐらい」とか。夫人との間に男の子が1人。「生活は大変ですけど、いまの職場でしっかり社会勉強もして、将来は自分でなにかやりたいと思っています」

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幡野和男

2023-10-14 10:45:22 | 日記
1974年
法政二高の主将だった幡野和男氏(中堅手)は、阪神に入団した。一軍半的な存在で、三年目にケガで見切りをつけざる得なくなった。当時二十歳。退団して、タクシー会社の事務員になった。五万円の給料が二万円に下がったが、しようがないと諦めた。その後、義兄に子供服の卸商を始めるから手伝わないかと誘われた。現在では、そのキコ・フラワー株式会社(社員五十八人)の取締役営業部長の地位についている。「創業時代、同業者から叩かれても、私は絶対負けるかと思ったものですが、野球で培った精神ですね。夏になると、やはり思い出しますよ。あの栄光の場にいた経験は大きいと思います」

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高井準一

2023-10-14 10:33:17 | 日記
1974年
高井準一氏(二塁手)は中退して近鉄に入った。だが、田丸監督に徹底的に仕込まれたライト打ちがかえってアダとなり、二年間で退団。旅行代理店に一年、専売公社に四年間勤めた後、実兄が工場長を務める林精鋼に落ち着いた。スポーツのコーチも買って出ている。「野球の損得抜きの考え方は、会社でも役立っていますね。でも、今は野球とは縁なきサラリーマンですよ。柴田とか奈良とか根岸とか、今でも野球をやっている連中とは付き合っていません。会えば思い出すでしょう。つらいんです」

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