プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

屏道夫

2023-10-15 22:23:12 | 日記
1964年
十月二十二日、秋のオープン戦を目前に控え東映ナインが、多摩川グラウンドで最後の練習に励んでいるところへ、一人の青年がユニホームをかかえてやってきた。どこかで見た顔だと思ったら、つい最近巨人を自由契約選手になった屏道夫内野手だった。福岡京都高を出た屏は、期待されて巨人に入団、第一線選手を夢見て頑張ったが、今シーズン限りで自由契約にされてしまった。一度は公式戦の舞台に立ったこともあった屏は、三年間のプロ生活を清算するにはどうしても心残りだったようで、水原監督にテストを申し出てきたものだった。この日は水原監督もグラウンドに姿を見せており、一応練習を許可、テストすることになったが、屏の真剣な体当たりにどんな答えが出るか。


1975年


今春の関東プロゴルフ・テストは茨城県「セントラルGC」で行われたが、合格ラインは、36ホール通算3オーバーの狭き門ー昨年までの4オーバーから1ストローク厳しくなり、昨秋の合格者二十六人が今回はわずか七人(受験者八十一人)にとどまった。不合格者の中には、元巨人軍の屏道夫内野手(32)、米国ハワイ州でPGAのライセンスを持つ高橋純一(26)など異色の受験生も。日大ゴルフ部出身者は四人も受験したが、全員不合格。


1979年


島田博氏、屏道夫氏も、もとはといえば清峰伸銅のチームの一員であったという。屏はプロゴルファーに転向して、いまは水戸のほうに行っているはずだそうだ。

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是久幸彦

2023-10-15 22:21:44 | 日記
1974年
是久幸彦氏(三塁手)の場合は、引き裂かれるようにして、野球界を去った。東映に六年間在籍して、自由契約を宣告された時は、まだまだ野球をやりたかった。精神的苦痛をいやすのに一年間かかった。何とかインテリア関係の会社に入り、第二の人生を出発した矢先、グローバルリーグが選手を集めていることを知った。じっとしていられなくなって飛び込んだが、結果はご承知の通り、アメリカからベネズエラに渡ったが、リーグは倒産した。「27歳でした。ベネズエラで足止めをくった時、もう野球はダメだなと思いました。帰国して村山実業に入りましたが、一年間は、テレビもスポーツ紙も見ませんでした」現在の仕事は錦鯉の仕入れ販売。五年目を迎え、足はふらついていないとしても、野球への情熱は捨て切れない。できれば、自分の息子(一歳二ヶ月)に夢を賭けたい。せめて、それ以前に、若い人を指導してみたいという夢を抱いている。

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大毎引退選手

2023-10-15 13:30:06 | 日記
1966年
上条高敬。在籍六年。138試合、1本塁打、通算打率1割7分。イースタンリーグで首位打者になったこともある。高校時代(東京足立高)三振奪取王といわれたが、昨年はフリー・バッティング投手として契約した。24歳。小林英幸。在籍六年。176試合、3本塁打。通算2割3分6厘。中日から移籍した。長打力の片りんをのぞかせたが、生来の楽天的ムードが、きびしさを失わせ、大事な場面で三振することが多かった。東京都帝京商出身。24歳。新井彰。在籍二年。1試合出場で打席なし。終始テスト生の形で消耗品として使われた。投手の比率と捕手とでは、問題にならないくらい捕手は少ない。球団側は、選手として出場するメドのないテスト捕手を雇うところがある。新井も、そのひとり。マジメな性格で一昨年、支配下選手となった。千葉県銚子商出身。25歳。押田令三。在籍三年。4試合登板で4イニングス三分の二投球。防御率1.80。長身からの速球で注目されたが、肩をこわして、プロから去った。兵庫県鳳鳴高出身。21歳。この四人が、いまの職場に移籍?したのは昨年十一月十日。ボールを捨て、バットを捨てた手は、インクにまみれた。東京都新宿区水道町にある三晃印刷。中小企業としては、約四百人の従業員をかかえた、かなり大きな印刷会社である。山田潔スカウトの口ききで入社した四人は「ボールへの哀愁は何もない」とキッパリいい切る。そして、いずれもが明るい表情なのだ。はじめ、四人はグラビア課に配属され、輪転機とともに一ヶ月間を過ごした。その一ヶ月間を終えると、配属先は、それぞれ別々になった。上条、小林両君はグラビア営業課。新井君は資材課。押田君は、そのまま輪転機とともに生活している。上条君の仕切り伝票のペンさばきも堂に入ってきた。小林君は運転免許証があるから、もっぱら発注、受注の御用聞き。三晃印刷では週刊、月刊誌も軒並み闘っているから、決してヒマな職業ではない。新井君は資材課で巻き取り紙の出入庫を記載する役目。上条君の失敗談ー「フォークリフトといって、荷物を乗せるリフトを運転したんですが、不慣れなため、地下の製本の山の中に突っ込んでしまって…」小林君も、そばから口を入れる。「うん、あのときは、本のくずれる音が、ひとしきりしたが、いつまでたっても、上条の声が聞えなかった」ふたりは底抜けに明るく笑った。上条君は松戸市の自宅から通勤している。上に姉ふたり、下に妹ふたりの長男だ。両親がいっしょにいる。朝六時半に仕事を家を出て、石切橋の三晃印刷まで、午前八時始業の午後四時半終了。残業も忙しいときは連日だ。「プロ野球に未練もあったけれど、自分より、ほかの人が決めることだったので、しかたない。しかし両親は、かえって安心したでしょう」小林君は都下昭島から通勤するから午前六時に自宅を出る。この四人の中で、ただ一人の妻帯者だ。早苗夫人との間に真奈美ちゃんという誕生を迎えたばかりのベビーがいる。三人兄弟の長男。それなりに責任がある。「ボールへの愛着はまるでないですね。こちらの方が、よほど楽しい」運転免許が役立っている小林君は、いかにも、その日その日に生きがいを感じているようだ。新井君は、市川のアパートで弟さんと一緒に住む。「六人兄弟の四番目ですよ。アパートは六時二十五分に出ます。はじめは、きつかったけれど、いまは、すっかり慣れました」四人の中で、リーダー格の新井君は、いまや資材課でも、なくてはならない人になっているということ。(忠岡営業二課長の話)押田君は、八人兄弟の末っ子。兵庫県の田舎からは「しっかりやれ」といわれた程度。いま会社の寮で暮らしている。「やっと仕事を覚えたところで、毎日が興味の連続です。この会社に飛び込めばよかった。だから、ボール拾いか、なんかしてウダツのあがらん連中は、サッサとやめて、ここにくればいいのになあ」四人の共通した結論が、そんな談笑の中に引き出されている。いま四人は、プロ選手としての経験を生かして、毎朝、軟式野球部の部員とロード・ワークの先頭に立っている。忠岡営業二課長は、野球部監督も兼ねている。「ひと口にいって、マジメですね。それに、非常に礼儀正しい。立てるところは、ビシッと立てる。きびしい勝負の世界にいたせいでしょうか。こうしたものは、ほかの従業員にも非常なプラスになっていますよ」自分たちが、出直すんだという気持ちに立って、花やかな過去の舞台を忘れ切ろうとする努力。それは、だれが見ても、認めてくれるのだろう。「そうした真剣さが、軽い気持ち。安易に暮らしている連中を刺激するんですね」三晃印刷の山元正宣社長の方針は「スポーツマン歓迎。スポーツマンの明朗さ、カッ達さは仕事にプラスする」の信念を持っている。そのせいか、ここはスポーツマンが圧倒的に多い。「かといって、四人を特別視していない。仕事オンリーの観点から、ハンディなしの扱いですよ」と、忠岡氏は補足する。「新井君にしても、ソロバンはうまい。ペンを握らせても、字がうまい、事務能力が、すぐれていますし…」と四人に合格点をつけている。そして、最後に、こう結んだ。「いまの気持ちを忘れずに、やってくれること。彼らを悪くいう人は、いませんからね。これが彼らへのアドバイスです」-初心忘るべからず。あざやかな再出発を見せたプロ野球選手たち。上条、小林、新井、押田君よ。この気持ちを忘れずに、がんばれ…。

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