1980年
渋いプレーヤーとして鳴らした秋山重雄氏は、倉敷工時代に二度甲子園に出場。立教大学に進学後、2年からレギュラーに定着して、3年で小川享と中軸を打ち、44年に近鉄に入団した。秋山氏の現役時代での一番の思い出は、50年後期に優勝した事で、今でも忘れられないそうである。解説者としての秋山氏は、常に近鉄を思う心で満ちている。退団後、神戸板宿の兄の元でブティック経営を学んでいたが、現在は仕入れから販売戦略まで一人で切り回している。商売熱心であり、各種のセミナーに出席して販売作戦の研究をする毎日である。このセミナーで得たものが心理学。これを野球解説に生かしたいという抱負をもって、プレーをしている選手の人柄・心理状態を分析したうえで、マイクに向っている。お洒落な秋山氏は、お酒に強いほうだが、野球談義に花を咲かせる事もしばしば。本当に野球が好きで好きでたまらないといった好青年である。宴会の席でのお得意の曲は「思い出のサンフランシスコ」。野球一筋の青春を過ごした近鉄時代のコーチ、広田順さんとの送別会で、同氏とデュエットした。これを歌うと、いつもスタッフや女性たちを惹きつける。近鉄が日本一になるように、板宿の氏神様に参拝に行くことがあるという、近鉄を愛する秋山重雄氏なのである。
渋いプレーヤーとして鳴らした秋山重雄氏は、倉敷工時代に二度甲子園に出場。立教大学に進学後、2年からレギュラーに定着して、3年で小川享と中軸を打ち、44年に近鉄に入団した。秋山氏の現役時代での一番の思い出は、50年後期に優勝した事で、今でも忘れられないそうである。解説者としての秋山氏は、常に近鉄を思う心で満ちている。退団後、神戸板宿の兄の元でブティック経営を学んでいたが、現在は仕入れから販売戦略まで一人で切り回している。商売熱心であり、各種のセミナーに出席して販売作戦の研究をする毎日である。このセミナーで得たものが心理学。これを野球解説に生かしたいという抱負をもって、プレーをしている選手の人柄・心理状態を分析したうえで、マイクに向っている。お洒落な秋山氏は、お酒に強いほうだが、野球談義に花を咲かせる事もしばしば。本当に野球が好きで好きでたまらないといった好青年である。宴会の席でのお得意の曲は「思い出のサンフランシスコ」。野球一筋の青春を過ごした近鉄時代のコーチ、広田順さんとの送別会で、同氏とデュエットした。これを歌うと、いつもスタッフや女性たちを惹きつける。近鉄が日本一になるように、板宿の氏神様に参拝に行くことがあるという、近鉄を愛する秋山重雄氏なのである。