1962年
鼻の横に大きなニキビがポツンと一つ。はちきれる若さを象徴するよう。笑うと童顔がほころび、チラリ、チラリと金歯がのぞきおとなっぽい。二十歳という年齢がこのアンバランスをかもし出しているのだろうが、野球の腕前は一人前である。一般には石田選手の名前はなじみ薄かったが、「東黎に大型捕手がいる」とささやかれていた。陽南中学時代は小柄だったので、うってつけのトップバッター。そして三塁を守っていた。宇都宮学園に進学してから岩崎監督に「キャッチャーをやれ」といわれたときは「野球をやめようかと思った」ほど。しかしやっているうちにだんだんと捕手のおもしろさがわいてきたそうだ。大毎では「石田を外野に使ってみたら」という声がないでもないが、本人はちょっとやそっとではマスクを脱ぎそうもない。宇都宮学園の三年間、石田は甲子園に出場できなかったが、卒業した翌年の夏、宇都宮学園は甲子園に駒を進めたのだから皮肉なもの。運のない石田が認められたのはことしの夏、東黎工業入社二年目だった。都市対抗予選でホームランを二本かっ飛ばし、熊谷組の補強選手として初の後楽園出場。秋の産業野球には東黎初出場の立て役者となった。このころからプロ攻勢が激しくなり、大毎につづき巨人、中日、大洋が立候補。この攻防戦も大毎片岡スカウト(その後阪急二軍監督に決定)の熱意で大毎入りとなった。「ボクが大毎へ入団できるなんて夢のようです。大毎のゲームは一試合しか見ていませんからよくわかりませんが、まず第一にスピードに驚かされました。甘い考えではダメですね」とノン・プロとの違いをひとくさり。そして克服するには「努力しかありませんね」と心得ている。本堂監督は「石田は大型捕手としての素質を十分備えている。ことにバッティングはすばらしい。しかしいますぐ使えるというわけではない。あくまでも一、二年先のこと」といえば石田も「二、三年の下積みはもちろん覚悟しています。第一の目標は外角球を打ちこなせるようになることです。幸い大毎には山内、葛城さんのようにすごいバッターがそろっているので、その人たちのバッティングを勉強するつもりです」石田は七人兄弟の三男坊、お父さんは小学校五年のときなくなり、以来母親タケノさん(55)に育てられてきた。次兄の一成さん(25)も野球選手だったが、石田の希望は「早く第一線に出て親孝行すること」だそうだ。その意味で「ライバルは大毎の捕手全部ということになります」といっている。二、三日中に退社届けを出すというが、まだ東黎工業の社員。会社の近くにある池上本門寺のランニングは欠かせない日課の一つである。趣味も野球以外はこれといってない。スポーツは万能とのことだが、最も自信がある水泳も肩を冷やすので二、三年やっていない。食べものはなんでもという大食家だが、ことにくだものが大好き。ほかのことには見向きもせず野球一途に生きる男である。身長1㍍79、体重75㌔、右投げ右打ち、宇都宮学園高出。