プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

妻島芳郎

2023-10-05 22:17:16 | 日記
1970年
ロッテは十日、妻島芳郎投手(32)を自由契約選手とした。妻島投手はさる三十七年、ノンプロ日通浦和から大毎へ入団。三十九年には勝ち星こそ6勝5敗だったが、防御率2.15でパの最優秀投手に輝いた。球威はないが、絶妙なコーナーワークで貴重なリリーフ投手として活躍したが、体力の衰えとともに年々下降線をたどり、九年目の今季は四試合に登板しただけだった。

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石田二宣

2023-10-05 21:26:34 | 日記
1962年
鼻の横に大きなニキビがポツンと一つ。はちきれる若さを象徴するよう。笑うと童顔がほころび、チラリ、チラリと金歯がのぞきおとなっぽい。二十歳という年齢がこのアンバランスをかもし出しているのだろうが、野球の腕前は一人前である。一般には石田選手の名前はなじみ薄かったが、「東黎に大型捕手がいる」とささやかれていた。陽南中学時代は小柄だったので、うってつけのトップバッター。そして三塁を守っていた。宇都宮学園に進学してから岩崎監督に「キャッチャーをやれ」といわれたときは「野球をやめようかと思った」ほど。しかしやっているうちにだんだんと捕手のおもしろさがわいてきたそうだ。大毎では「石田を外野に使ってみたら」という声がないでもないが、本人はちょっとやそっとではマスクを脱ぎそうもない。宇都宮学園の三年間、石田は甲子園に出場できなかったが、卒業した翌年の夏、宇都宮学園は甲子園に駒を進めたのだから皮肉なもの。運のない石田が認められたのはことしの夏、東黎工業入社二年目だった。都市対抗予選でホームランを二本かっ飛ばし、熊谷組の補強選手として初の後楽園出場。秋の産業野球には東黎初出場の立て役者となった。このころからプロ攻勢が激しくなり、大毎につづき巨人、中日、大洋が立候補。この攻防戦も大毎片岡スカウト(その後阪急二軍監督に決定)の熱意で大毎入りとなった。「ボクが大毎へ入団できるなんて夢のようです。大毎のゲームは一試合しか見ていませんからよくわかりませんが、まず第一にスピードに驚かされました。甘い考えではダメですね」とノン・プロとの違いをひとくさり。そして克服するには「努力しかありませんね」と心得ている。本堂監督は「石田は大型捕手としての素質を十分備えている。ことにバッティングはすばらしい。しかしいますぐ使えるというわけではない。あくまでも一、二年先のこと」といえば石田も「二、三年の下積みはもちろん覚悟しています。第一の目標は外角球を打ちこなせるようになることです。幸い大毎には山内、葛城さんのようにすごいバッターがそろっているので、その人たちのバッティングを勉強するつもりです」石田は七人兄弟の三男坊、お父さんは小学校五年のときなくなり、以来母親タケノさん(55)に育てられてきた。次兄の一成さん(25)も野球選手だったが、石田の希望は「早く第一線に出て親孝行すること」だそうだ。その意味で「ライバルは大毎の捕手全部ということになります」といっている。二、三日中に退社届けを出すというが、まだ東黎工業の社員。会社の近くにある池上本門寺のランニングは欠かせない日課の一つである。趣味も野球以外はこれといってない。スポーツは万能とのことだが、最も自信がある水泳も肩を冷やすので二、三年やっていない。食べものはなんでもという大食家だが、ことにくだものが大好き。ほかのことには見向きもせず野球一途に生きる男である。身長1㍍79、体重75㌔、右投げ右打ち、宇都宮学園高出。

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難波孝将

2023-10-05 13:47:33 | 日記
1965年
岡山久世中を去年卒業し、大阪西成の佐野安造船所に工員として就職した難波君は、同所の野球部の黒田コーチ(元南海)の目にとまった。上手投げの美しいフォームは、すぐに南海のテストを受けさせた。去年五月中旬のことである。大阪球場でただひとり。「胸がドキドキした」ことだけが記憶にあるそうだ。テストは合格だった。球団からの定時制高校へ通いながらをキッパリ断った難波少年は「野球に人生のすべて」をかけた。契約金などあるはずがない。支度金三十万円、これもまた手元にははいらない。それでも月給は三万円と松本君の場合よりも恵まれている。難波君も、松本少年同様に親孝行だ。三万円のうち半分は必ず父益永さん(54)母シゲノさん(49)の元に送金している。合宿費や食事代を引くといくらも残らない。「一日に四度ご飯が食べられたらいいですよ」と暗いカゲはみじんもない難波投手は、まだ一度も公式戦で投げていない。だが、試合前のバッティング練習で、野村や広瀬、ハドリといった主力打者にむかって思い切ってピッチングをやっている。そして、現在はそれに生きがいを感じるそうだ。「プロの練習はきついです。でもこれがボクのあすのためになる一投だと思うと、決しておろそかにはできないんです。いまの目標はウエスタン・リーグで1勝をあげること。その次はもちろん一軍のベンチ入りです」階段を一段一段と登りつめようとする難波君にも、もっとデッカイ夢はあるのだ。それは村上投手のピッチングを見て「なるほど大リーガーだと思うピッチングをしますが、球速という点ならボクもそう負けないと思います。ボクだっていつかは村上さんのように…。いや、目標は鉄腕投手稲尾さんで。追いつけ、追い越せと若さをぶつけてみるつもりです」といい切る。そして「中日の松本君はボクを知らんでしょうが、ボクは知っているんです。どっちが早く一軍へ上がるか、ひそかに挑戦状を胸にしまいこんでいるんです」と競争心をかきたてている。

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西田暢

2023-10-05 09:00:12 | 日記
1965年
「西田しだいで理想的なオーダーができる」石井監督の打の期待をになっているのが西田だ。早実時代に遊撃を守って注目されていたが、早大に進学した一年生の夏、軽井沢キャンプから帰京したとたんに右足くるぶしを骨折し一年間棒に振った苦い経験をもっている。肩が強いのと足が速いのが特徴だ。バッティングはバットをたてていたのを寝かせるフォームにかえてからよくなった。「バックスイングするとバットが寝るので初めから寝かせたらどうかと監督さんに注意されたんです。いまの打率のいいのもそのせいだと思います」オープン戦では3割4分をマーク。チームで矢野に次ぐ好成績だ。西田は往年法大外野手として鳴らした成田理助氏(アマ野球評論家=本名西田)の四男坊だ。長兄篤さん(東邦レーヨン勤務)は青山学院ー明大で捕手、次兄潔さん(東洋大監督)は東洋大にはいってからラグビーをやめ、野球をはじめて現在監督をやっているという文字通りの野球一家だ。「あの子は私の血筋を一番うけついでいます。おとなしいけど根性はあるし、やると思いますよ」父親理助氏もリーグ戦のはじまるのを楽しみにしている。「二塁のポジションにまだ慣れないので連係プレーのときおかしいんです。先輩(小淵一塁手)もお前の投げるのはどこから出るのかわからないから捕りにくいといわれるんです。これを開幕までになんとかしたいです」西田は初陣への希望に胸をふくらませ色白の整った顔も日に焼けてこむぎ色にかわってきた。(早実出身、1㍍73、70㌔。右投げ、右打ち。文学部三年)

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嵯峨野昇

2023-10-05 08:49:40 | 日記
1965年


アゴにはられたバンソウコウが痛々しい。準々決勝の対熊谷組戦で前打者佐々木のバットをどけようと勝田主審が投げたのをまともにアゴに食らって七ハリ縫う裂傷を負った。「頭がボーッとして…。かめないんで、あれからオカユばかりでふらふらしてしようがない。それに消極的になって…」上気しているせいか、傷が痛いのか語尾がぼけていたが、グラウンドではさっそうたるものだった。首位打者になった快調なバッティング、10併殺の軸になった好フィールディングと文句のないものだった。「去年は卒業論文とか卒業試験でトレーニングができずさっぱりでしたが、ことしは三ヶ月間みっちり体作りをやったのがよかったと思います。最高殊勲を受けるなんて感無量です」鎌倉学園ー国学大で一度もフットライトを浴びたことのない嵯峨野は引きしまった顔にはじめて笑みを浮かべた。表彰式で最高殊勲選手賞、首位打者賞と両手に花の嵯峨野は記念撮影がすむと長兄功氏(28)=川崎市役所勤務=と通路でバッタリ「ケガをしたという連絡があって心配していましたが、元気にやっている姿を見てほっとしました。さっそく茅ヶ崎(実家)に帰って両親に報告しますよ」功氏はうれしそうに弟の晴れ姿をカメラにおさめていた。田中監督は「まだ甘い。夏までにはもっと立派な選手にならなくては…」ときびしく語っていたが、負傷にもめげずがんばった嵯峨野にとっては文字どおりの傷だらけの栄光だった。

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