プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

宮崎昭二

2016-11-20 13:24:49 | 日記
1964年

今でこそ昔陸軍プロ野球なんていわれるほどプロ野球選手は時代の花形あつかいされているが、その揺繁期には職業野球など浮いた水商売と見られ、親兄弟こぞって反対されたものだという。ところが近ごろではわが子のプロ野球入りを奨励し、もしスカウトたちが門前、市をなせばわが一門の名誉と誇りと思うのがジョーシキ。世の中も変わったものである。しかしわが子をプロへ入れたがる親にもいろいろあって、金の卵を産んだ親鶏よろしく、もっぱらソロバン勘定に熱心なお人もいれば、もう野球ときたら三度のオマンマよりも好き、一目見たい絆のユニホーム姿・・・といった純粋な愛球家計もいる。この宮崎昭二投手の父親などこのカテゴリーにはいる野球狂にシンニュウをかけたくらいのマニアで、宮崎クン、オギャと産声をあげたとたんから、ウォーミング・アップをやらされたという。まさかそれほどでもなかったろうが小学校から中学と、近くの広場での厳しい父さんコーチは続き、やがて鹿島高のエースを育てあげた。「東映入りの時も、母を初め家族はオール反対でしたが、父だけ大賛成で男ならやってみろというわけなんです。今でもテレビや新聞で詳しく情報を集めて、近ごろホームラン製造が多過ぎるぞとか手紙でいってくるんですよ」マン・ツー・マン・コーチがついていちゃ宮崎投手、がん張らにゃア。「野球教育といったってなにも野球ばかりやっていたわけじゃありません。中学時代は基礎体力をつくれという父のすすめで、バスケット、バレーボール、有明海のそばでしたから水泳、陸上競技、それに相撲は誰にも負けませんでした」これじゃスポーツ十八戦、万能選手じゃないの。バネのきいた伸び伸びした1メートル75の恵まれたからだはこうしてつくられたものだ。目下、4勝3敗、巧みなコントロールの持ち主で東映の数少ないリリーフ投手として重宝がられている宮崎投手だが、目下いささか悩んでいることがある。それはシュートやカーブの変化球の投げ過ぎで、右肘の関節のところに軟骨が出来てシクシク痛むことである。焼とりのナンコツなら食べてしまえばいいが、肘の場合ではそうもいかず、マウンドに上がっても五、六回は快調なピッチングを続けられるが、長く投げているとうずきだすというから全くやっかいなシロモノだ。「今、多田コーチのすすめで熱いお灸をすえたり、マッサージしたり、なんとかサッパリしようと努力しているんですが・・・湿度の高い梅雨時が最低で、これからカラリとした秋晴れが続けはじめたものなんです」同じようなリリーフ役で変化球専門、肘を痛めた巨人の宮田投手のキモチがよくわかるという。「ピッチングのほうは4勝をあげた去年が、ただ無我夢中でスピードのある球をほうろうとしていたのと比べて、ことしは低目にカーブをコントロール出来るようになりましたから、防御率のほうはよくなったと思うんですが・・・リリーフ投手というのはいつなんどきでも緊急発進OKの態勢をととのえていなければなりませんからネ」プロ入り三年目。二十一歳の前途有望の新鋭投手、監督やナインに信用され、東映に不可欠の選手になりたいというのが念願だそうである。バッテリーを組む捕手をえり好みしてはいけないのだが、やはりベテランの安藤順三捕手に球をとってもらうのが最高で、心おきなく自分のピッチングが出来る。「苦手なのは青い目の外人選手、だから外人のいっぱいいる西鉄にはヨワイ・・・」ことに平和台の西鉄がいやなのは理由がある。鹿島高のエース時代、九州地区大会で平和台に駒を進め、筑紫高と対戦した折、不調でKO負けして以来、平和台恐怖症にかかったものらしい。度胸がなくては火消し役はつとまらないから、どんなピンチにマウンドを立たされてもガタつくことはないが、日常は万時控え目なほう。いでたちにしても城の開襟シャツに濃紺のズボンといった地味好み、どうもケバケバしたアロハのごときものは性にあわないものらしい。ニック・ネームはもやしという余りありがたくない名前をつけられているが、名付け親は不明。細くヒョロヒョロと伸びている印象からつけられたものと推察されるがビタミンもたっぷりあるもやしにあやかって東映強化のためのビタミン的存在になってもらいたい。あだ名につきあったせいでもなかろうが食事にしても菜食主義。なかんずく野菜サラダは毎日絶対いただかないと血の回りがおかしくなる。海辺育ちのくせに魚がきらいというのも不思議な話だが、紺屋の白バカマとでも解釈しておこうか。目下、ほしいものは何か、と聞けば、「なんにもいらないけど、勝星をもっとふやしたいだけ」今度移った多摩川の新合宿では、一度足をもらっているが交通不便なのが困るという。「ことしはもっとがん張って好成績をあげ、シーズン・オフにはまだ行ったことのない北海道へ行ってみようと計画を立てています。そのためにもがん張らなくちゃ」さすった腰のあたりには、お父さんから送られた郷里の祐徳稲荷のお守りがしまってある。
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田辺修

2016-11-20 07:52:45 | 日記
1970年

巨人戦用に育ってきた、というより巨人をカモにしている。これで九試合目。負けなしの3勝だ。中日首脳陣にとって、実に三年ぶりのこのカードの完封勝利。首脳陣をはじめナインが「ほんとによくやった。いったいどうなっているんだ」というのも実感だろう。よほど疲れたらしい。「最後まで気が抜けなかった。ただ無心で投げただけ。完封なんて夢にも思っていなかった」ヒタイからシャワーを浴びたように汗がこぼれ落ちる。「審判が高めの球をとってくれたので助かった。外野へフライをポンポン飛ばされていたので、いつかホームランを打たれるのではないかと思っていた」マウンドでは余裕がぜんぜんなかったと告白する。捕手の木俣が「ポイントだった」と見ている六回表満塁のピンチ、二死ながらコントロールが思うようにならなくなった。「森さんの一ゴロは内角のストレートだった。ボールがまるで死んでいた。それがかえってよかったみたいだ。ボールはやや沈んだ。そして森さんは変なふうにひっかけてくれた」(木俣)というから、運もよかった。田辺も「ストライクをとりにいった球だった。本当に助かった」と、冷や汗の場面を思い起こしてニガ笑い。そんなだから巨人打線をふりかえる余裕はまるでない。「巨人打線のことなどまるでわかりません。給料からいったらONには百%ヒットを打たれておかしくはない。でも、つとめてそういった意識をもたないように、ただ無心で投げただけ」と笑った。これで防御率は1・87とはねあがり、大洋の平松を抜いて第二位。「野球は水もの。いつめった打ちにされるかわからない。そんなことどうでもいい。ことしこんなに勝てるとは思っていなかったしね。もうどうでもいい」いまや完全に中日の柱になりきっている田辺だが、昨年まで近鉄のウエスタンでまるでうだつがあがらない男。急に別の世界にはいってきて、すべてにどまどっているような感じである。
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田辺修

2016-11-19 19:34:01 | 日記
1970年

谷沢の打球が中堅方向に舞いあがった瞬間、ベンチの一番うしろにいた田辺の顔に笑いが広がった。四十一年七月十五日以来、四年ぶり、中日へ移籍後、初の完封勝利だ・・・。しかし、三塁走者の中がホームへかけ抜けるところはもう見ていなかった。笑いをかみ殺し、クルッと振り返り、急ぎ足でロッカーへ飛び込んでいた。人一倍のテレ屋。ナインの祝福をまともに受けるのがはずかしかったのだろう。フロにもはいらず、ユニホーム姿のまま球場出口の方向へ足を向けたところ、ラジオのアナウンサーにつかまりインタビュー。それもそそくさと切りあげ、終始逃げ腰だった。受け答えの内容も「いや、運がよかったんですよ。だから完封できたんです」といったぐあいにあっさりしたもの。こんな中で「冷や汗もんでした」と、実感をこめて振り返っていたのが、八回無死一塁で代打近藤和を遊ゴロ併殺にうち取った場面。「外角カーブ」をうまくミートした近藤和の打球は、田辺の足元をゴロで抜け、中前へ達するかと思われたが、遊撃の一枝が二塁ベースの方向へスタートを切っていてあっさり併殺。「やられたと思った。しかし、うしろを振り向いたら一枝さんがいた」完封勝利のカー・ステレオをもらい、ますます顔を赤くした。「自動車をもっていないし、こんな高価なものを・・・。近鉄で完封勝利をあげたころは賞品など、なにもなかったです」これで9勝。中日では星野仙と並んで目下最多勝。「阪神の鎌田さんに近鉄時代より低めにボールが決まるようになったなといわれました。これがよくなった原因でしょうか」大洋の長田は前々から「どこかのダンシング・チームへでもいった方がいい。職業を間違えたんじゃないか」と、その変則投法に悪口?をいっていたが、この夜はまるで口なし。ダンサーに四安打完封負けでは、それも当然だろう。それにしても三十八年に柿本がエースにのしあがって以来、小川健(永久追放)を経て、この田辺まで、他のチームを整理同然で追われた投手が、中日で拾われると中心投手として活躍する、という妙な伝統?がつづいている。

八時の時報がボーンと鳴ったとき、試合は六回の表二死二塁というハイ・ペース。平松と田辺の速球比べがゲームをものすごい早さで引っ張っていった。二試合連続KOの平松は、見事に立直っていた。カミソリシュートはよみがえり、四回と六回に二死から木俣、江藤に二塁打を浴びたが、あとはガッチリ縮めてエースの貫録十分。投げ合う田辺も五回二死まで完全試合と一歩も引けをとらない。六回、二死からの重松の右中間二塁打も、つづく中塚を投ゴロ。八回終わって両投手とも三安打ずつと、全く互角のピッチングだった。大洋は九回無死から重松が中前安打し、突破口をつかみかけたが、中塚がバント失敗の三邪飛に倒れ、得点圏に進められなかったのがこたえた。中日もその裏同じように、トップの中が中前安打。江藤がうまく送ったところから両チームの明暗が分かれた。ミラーの三遊間の当たりは松岡が身をていして止めたが内野安打になって一死一、三塁。ここ十日間、勝ち星の味を忘れている平松にとって苦しい場面だ。木俣を敬遠して満塁策をとり、谷沢との勝負に出た。もう平松は得意のシュートを投げるより手はない。このシュートがやや高めに浮いた初球を果敢に打って出た谷沢も並みのルーキーではなかった。中堅やや左に高く飛球が上がったとき、もう中日のサヨナラ勝ちは決定的。中塚が必死に本塁送球を試みたが、快足の中が唯一の得点を本塁ベースにしるしていた。シュートとスライダーの揺さぶりで、大洋を四安打に押え込んだ田辺は、中日移籍後初完封をマーク。大洋は4連敗を喫し、好投の平松も貧打に泣いて3連敗。なお、一時間四十分の試合時間は今季最短。

水原監督「九回のバントの巧拙が明暗を分けた。田辺は非常によく投げてくれた。ここ一点のゲームで何度も勝ち星を落としているが、この夜は食いついていけば勝てるという執念を見せてくれた」

別当監督「平松はよく投げた。すっかり立ち直ったといっていいだろう。しかし、打たなければ勝てないよ。とくに中心打者の二、三、四番がノーヒットでは勝てません」
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鬼頭洋

2016-11-19 18:24:55 | 日記
1967年

「え?鬼頭?どんな投手だい」メンバー交換が終ったあと、阪神ベンチですっとんきょうな声をあげたのは後藤コーチ。プロ入り初登板が三年目の今シーズン六月十七日の巨人戦だから、新人と間違えるのもムリはない。大洋に入団してから毎年、ケガに悩まされる。ことしもそうだ。オープン戦で快調にとばし、十一イニング無失点で2連勝しながら、ツメを割って開幕までもつづかなかった。「あいつから気の弱さと故障をとれば大した投手になるだけの素質は十分持っているんだ」秋山コーチのことばが鬼頭のすべてを的確にあらわしている。一年目は左ヒジ痛に悩まされ、昨年は左ヒジ痛から制球難病を誘発して自信喪失。まるで方程式のようなきまりきったシーズンをおくった。今シーズンからその胸にはいつもライトブルーのマリアの像を浮きぼりさせたペンダントがさがっている。毎年ケガに悩まされ、自信を失いかけた鬼頭をみかねた友人の母親がくれたものだ。「それからはケガもなく自信らしいものがついてきたんです」という。それを立証したのは五度目の登板のこの試合。ボールがおもしろいように決まり、実にさっそうとしていた。二回の一死満塁のピンチも「不思議とビクビクしなかった」そうだ。六回二死満塁をあとにロッカーに走り込んできた目は、まるでウサギの目のように真っ赤だった。「きょうはボールが走っていたし、シュートがよくきれた。降板?なにかいけそうな気がしたけど、死球を出したでしょ。あそこが限界じゃないですか。きょうは打たれて元々の気持ちで投げたんです。ぼくには過去の実績が全然ありませんからね。これだけ投げられたのがうれしいんですよ」まるで新人のような答え。何回も期待を裏切られているだけに、首脳陣の感想も慎重だった。秋山コーチは「ボールが速いしナチュラルにスライドするストレートがいい。気の弱いのは欠点だが、ピンチに動揺しなくなったのはよかった。あと五試合くらいああいうピッチングをしてくれれば・・・」と、それでもホッとした表情。もし今シーズンツメの故障から再起できなければ、郷里愛知県桑名市の実家に荷物をまとめて帰る決心をしていただけに、鬼頭は「この日がくるのを何度夢にみただろう。とにかくこの初勝利ほどうれしいことはありません。こんどの目標は完投勝利。これからさっそく友人のおかあさんに初勝利を報告するんだ」とはねるように球場をあとにした。
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田辺修

2016-11-19 17:58:18 | 日記
1970年

「リキんじゃったよ。ひっかけてばかりいたな」と長島はなんども首をかしげてバスにのった。江夏(阪神)平松(大洋)のように球威のある投手にねじ伏せられたのなら、あきらめもつきやすい。だがいつか点がとれると期待しつつ、ズルズルとすべり落ちたような試合だった。それだけにくやしさもひとしおらしい。しかし試合前、先発田辺を予想した選手は、苦しそうな顔はしなかった。それまで十二打数六安打とカモにしていた黒江はこういった。「打てれば、どんなピッチング・フォームでも気にならないもんですよ、打てれば・・・」もっとも、ふるい立って打席にはいった黒江でさえ、ノーヒットで八回には代打と交代している。一日にはONが久しぶりのアベック・ホーマー。上向いた打棒をバックに今季最長ロードに出たやさきに、カチンと出ハナをくじかれたようなものだったろう。打の責任者荒川コーチも「ウーン」と考え込むようにいった。「カーブと落ちる球だったなあ。それほど振り回さずにミートしたはずなんだが、当たりがボヤーンという感じでね。後半はカーブにマトをしぼったのだけれど、バッターはストレートを意識していたようだ。やはりタイミングをはずされてしまったのかなあ」足をまっすぐ肩口まで上げ、投げる変型フォーム。ちょうど今春来日した大リーグSFジャイアンツのマリシャルに似たフォームから和製マリシャルという人もいる。長島もまっさきにこの変型を話題にしていた。「上げた足の下から顔が見えるようだ。あのギッコンバッタンした足はいやだよ」とフォームを気にして試合にのぞんだ結果も「あのフワフワッとした感じにやられちゃった。スピードがないのにタイミングがはずされちゃうんだ」

この日、巨人で唯一の複数安打を打った王の当たりも、本来の痛烈なあたりではない。王シフトの間を縫うようにして流し打ったのがヒットになり、思いきり引っぱったのは凡打になっている。巨人ナインでただひとり「タイミングがあった」という王でさえ引っぱりきれないところに、田辺の強さがのぞいているようだ。チャンスは二回二死二、三塁と六回の二死満塁。二回は打者が投手の高橋一でものにならず、六回はそれまで中堅後方に強い当たりをとばしていた森だった。ところが一塁真っ正面のゴロ。「フォークだよ。それまではよかったのに」といかにも残念そうな表情をしていた。いずれにせよ、チャンスになればピタリ止まる巨人打線は、直っていないことはたしかだ。九月十日の後楽園につづいて、巨人打線は田辺の変型フォームの前に、またもシャッポをぬいだ。「どうもウチはカーブが打てん」とぶぜんとした表情の川上監督。二ゲーム差に迫られたことよりも、こうも特定投手に押えられることに頭が痛いようだった。

木俣監督「はじめの1点ではものたりなかったが、木俣の2ラン・ホームランが六回に出て試合は決まった。田辺は八回、ONに打順が回ってくる前にランナーを出さなかったのがよかった」
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田辺修

2016-11-19 17:33:35 | 日記
1970年

一塁側ブルペンにいた大島コーチは気が気でなかったという。後半はブルペン投手のように背を向け、マウンドに向かって叫び続けた「落ちついて。低めへ投げろ」最後の打者バレンタインが見逃しの三振に倒れると、水原監督が真っ先にマウンドへかけのぼり、大島コーチがつづいた。今シーズン小川、伊藤久につぐ三人目の完投投手の誕生だ。大黒柱の小川を失い、非常事態がしかれている投手陣。それをあずかる大島コーチはうれしさのあまり「よく投げてくれた。スピードもあったしコントロールもよかった。連投で心配だったがほんとうによくがん張ってくれた」とロッカーの中をうろうろ歩き回っていた。「まぐれまぐれ。インコース寄りのシュートがよく決まったし、コントロールがよかった」田辺の方がむしろ落ちついていた。四十一年八月十七日の対東京(現ロッテ)十八回戦以来の完投勝利。「この前の完投勝ちはいつだったかすっかり忘れてしまった」と思い出せないのも仕方のないことだろう。この夜の先発は、「ローテーションからいくと、星野仙の番」(大島コーチ)だったが、二十二日に星野仙が左足に打球をぶつけ痛みがとれないため急に前夜リリーフに出た田辺に再びリリーフの役がまわった。それが五回まで三人ずつ、きれいに片づける完全試合ペース。「うすうす知っていました。だけどぼくの体力と実力ではできるとは思わなかったので、コースにていねいに投げました」大記録の楽しみも、六回先頭の後藤に中前へたたかれてのがし、そのうえ1点をとられて追いつかれたときは「ガクッとしてからだ中の力がぬけた」そうだ。それだけに七回の勝ち越し点は「これでまたいけるという気がしてきました」と顔をくずした。昨年近鉄を自由契約になり、中日に拾われるように入団。キャンプ中から「スピードはチーム一だ。なんとか一本立ちさせたい」と田辺の成長を夢見てきた水原監督の願いも、どうやらかなえられそうな気配になってきた。この三月には長男浩一君が誕生。毎日グラウンドでは、子供の話になるとからだを乗り出す親バカぶり。だが「赤ん坊が夜泣いてうるさくてねむれない」と名古屋で試合のあるときは、中村区向島の合宿に寝とまりして、コンディションの調整にはげむ気の使いようだった。「近鉄にいるときは、毎日毎日がもうなれっこになって、どうでもよいという投げやりな気があった。でも中日に移ってからは、ルーキーだというフレッシュな気持ちでやっているのがよいんでしょう。試合で投げることだけがうれしい」とひねた新人は目を縮めた。「さあ、あすからは大事な遠征。今夜はゆっくり休んでくれ」大島コーチはタカラものを扱うように、帰り支度をする田辺の肩をかかえていた。
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徳武定之

2016-11-17 23:36:26 | 日記
1962年

「カネさん(金田のこと)に借りをひとつだけ返した」と徳武はうれしそうにいった。金田が投げるゲームにかぎって徳武は不思議にヘマをする。「この前の中日戦(十二日・後楽園)も一死一、三塁でぼくが打って併殺打なんですよ。あれがなければ金田さんが勝ってた。それにきょうも同点にされるエラーはするし、三回また一死一、三塁でゲッツーでしょう。これでひとつは借りを返したが、まだ二つ残ってます」金田が徳武を本当の弟のようにかわいがっているのは有名な話だ。徳武の早大での後輩安藤(元)(東映)も「歩き方や言葉つきまで金田さんのマネばかりしている。ワシ、ワシといったりして」といわれるくらいだ。しかし報道陣にかこまれるとワシとはいわなかった。金田がいった。「ほんまにあいつはオレのときに妙なことをしよる。若いのに委縮しちゃいかんわ。ワシのように下り坂の選手とは違うんやからな。しかしかわいいヤツやで」八回の逆転二塁打を打ったバットは町田のものだったそうだ。「町田さんがぼくのバットを使って折ってしまったんです。それできょうは逆に町田さんのバットを借りて・・・。別に折ろうという気持ちじゃなかったが・・・アッハッハッ。カーブです。中村はあのとき0-3からカーブばかり投げてきた。スピードがなかったんじゃないか。監督さんに打つ前バットを短く持てといわれたのもよかった。それにしても巨人は迫力がないですね。四番がああじゃね。長島さんはバットが振れてないですよ。最後に一本打ったがヤマかけたみたいだった」ロッカーへ帰ってきた徳武に町田がこわい顔をして近寄ってきた。「人のバットを使っていい子になって・・・」もちろんこれは冗談だ。徳武は答えた。「だからさっき新聞社の人に町田さんのバットで打ちましたとちゃんといっておきました」町田はニヤッと笑ってフロへ出かけた。
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長田幸雄

2016-11-17 22:15:31 | 日記
1962年

「なにからなにまで知らない土地にきて、子供のころから親友がいた」三月来日したときグルンがいった。その理由がふるっている。長田の顔がポパイに似ているからだ。外人トリオにいつも「ポパイ、ポパイ」とまるでおもちゃのようにあつかわれている。長田はそれで満足している。「あの連中は、やはりちょっとしたことで外国へきているんだということを意識するからね。そうなればチームの顔だもの。別に悪いことじゃなし、みんながよくなればいいでしょう」その長田がこの前の名古屋遠征のとき、グルンに丸坊主にされてしまった。床屋の経験があるというグルンの言葉を信じて頭を刈ってもらったのだが、なんと腕はシロウトとかわらないほどのもの。気がついたときはものすごいトラ刈り。すぐ床屋へとび込んで丸刈りにしてしまったわけだ。「でもなんかいいことがありそうな気がしてね。たまにかわったことをすればかわったことが起こるかもしれないと思ったんです」帽子の上から坊主頭をなでまわしてテレる。「打ったのはカーブ、真ん中へはいってきた。打つ前に宮崎コーチから初球にいい球がくるぜ、といわれたのでねらってたんですよ。でも久しぶりだな。殊勲打なんていつだったか・・・。巨人戦で左翼へ二塁打した以外にあまり記憶がありませんよ。それも何日の何回戦だったか忘れちゃったんだからたいしたことはないでしょう」大洋一ののんきものでとおっている長田も、この夜だけは必死だったそうだ。「阪神が連敗しているからね。勝ちゃ、トップだとみんな殺気だっていましたよ。ぼくだってからだが堅くなりどおしだった」だが、からだは女の子みたい。ぐにゃぐにゃしたからだで腰を振って歩くのも長田の特徴だ。最後にロッカー・ルームへはいった長田は待ちかまえているグルンに腰をピシャリとやられた。「ナイス・バッティング、ナイス・ヘア」フロへはいるときが一番いやだという長田は名古屋で買ったストロー・ハットを当分どこへでもかぶっていくそうだ。
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桑田武

2016-11-17 21:09:41 | 日記
1962年

七回浜中に代走をたのんでダッグアウト裏の控え室で入念に小林トレーナーのマッサージをうける桑田は明るい表情だ。まず四打数二安打、打点二の説明からはじまる。「五回のも七回のもみんな高目だったですね。でも予定数をオーバーしちゃった。打つ方はなんとか知っているけどまだ守るのがね。いまのところ五回ぐらいで終わりですよ。足が思うようにいかないし、ランナーになっても走れない」そっと右足をなでる。三原監督が持っているのは守の桑田ではなく打の桑田だ。五回の左翼線の当たりも痛烈なら七回の中越二塁打もダイレクトでフェンスに当ったもの。もう少しでホームランというすごい当たりだった。「広島戦のときを入れるとこれで二本二塁打そソンしちゃったな。でもまだまだ目はなれていない。まっすぐだから打てたんだ」とひかえ目だ。桑田にはふしぎなジンクスがある。三十四年入団して以来、毎年ケガがたえない。それも足ばかりだ。故障したあとは、ほとんどの選手がなかなか調子をあげられないものだが、桑田はまったく逆。故障回復後十試合の桑田の打率は三十五年九月の四割六分九厘を最高に、全部四割近いアベレージだ。ことしもまだ四試合だが十一打数四安打、三割六分四厘と好調な出足だ。このふしぎの理由を桑田はこういう。「僕は腕力が強い。だからどうしても力がはいってフォームがくずれてしまうんだ。ところが足が気になるとふんばりがきかなくなる。自然に腰で打つようになる。これがいいんじゃないかと思うんですがね。まあいつもそういう気持ちで軽く打つようにすればいいんだけど・・・」八回大洋は1点を追加する。そのたびに桑田は身をのり出して「ああ、またはいった。きょうだけは勝ってくれよな。はじめての打点をあげたんだから。坊主(武将ちゃん)のいいおみやげができた」と喜ぶ。「巨人戦までになんとか使えるようにしたい」といっていた三原監督を満足させるほどの桑田の復調ぶりだった。セ・リーグの混戦をぬけ出すために得点力増加をはかる三原監督はこの桑田の復帰で近藤(和)桑田、マック、森というぶきみな新打線を考えている。
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ジェームス・マクナマス

2016-11-17 20:21:37 | 日記
1962年

ユニホームの両腕をまくりあげ、両手を下げながらチョコチョコとベースをまわるマック。そのマックの前を走りながら桑田は昨年十月のハワイ遠征を思い出したという。「両手をプラプラ振りながらまるでお穣さんスタイルのような走り方、にくかったね。しかも必ず第一打席できまったように3ラン。得意満面なマックを何回も見たことか。はじめはチクショウと歯ぎしりしたが、そのうちになれっこになってしまった」ムードはハワイのときに似ていたというが、コンディションはかなり違っていた。三日の中日戦の試合前川崎球場のグリルでとった特別料理があたったそうだ。「ここ二日間なんにも食べてないんだ。なんか食べようとしてもすぐハキケがする。やっと試合前カツサンドを二、三切れ食べただけ」ロビーでホッとしたような顔をしてたばこをくゆらせているマックのかわりに通訳の橋本が説明した。「チェンジアップね。変化したね。シュートかな。ビッグ・ゲームの巨人戦に打てて大洋に大きなプラスができたと思うね。これからもこんなのを出したい・・・」たんたんとしゃべっていたマックの顔から笑いがこぼれたのは「後楽園の初ホーマー」という言葉が出たときだ。「オー、イエス、イエス。トテモウレシイネ」たどたどしい日本語が出るときはごきげんのとき。日本の最も代表的な球場である後楽園のスタンドへ早く打ち込みたいといっていたマックが首位をかけた巨人戦に出したのだからムリもないが・・・。-これで16試合連続安打だが、意識してる?「うん、七年間の野球で15試合が最高だからもっとのばしたいね、できれば20試合か・・・30試合・・・」この3ランはマック自身の連続安打の記録を更新した一発でもあったわけだ。午後十時快い口ブエをひびかせながらトヨペット・クラウンは静かに後楽園からすべり出した。多摩川の新居では長男のブライアンちゃん(一つ)が左手で子供のバットを振りながらバットの帰りを待っている。サウスポーブライアンちゃんと野球遊びをするのがマックの一番の楽しみだそうだ。
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森永勝治

2016-11-17 19:55:49 | 日記
1962年

天知俊一氏が十回の安打よりも三回伊藤から打ったタイムリーの方を高く評価していた。「左投手に弱かったのによく打った」打たれた伊藤はいっていた。「森永とは大学、ノンプロを通してずいぶん顔を合わせている。(森永は専大ー熊谷組、伊藤は中大ー日本生命)彼は極端に左に弱かった。カーブを投げれば腰を引いちゃってどうしようもなかった」森永は左に弱い欠点をまじめな性格で克服した。川本スコアラーは「左投手に弱いというが、それは二、三年前までの話で、去年はウチの左打者の中では左投手に対する打率が一番よかった。練習でも左投手をひっぱり出して打っている。足腰を鍛えるため、よく走ることでも一、二を争う」という。福永トレーナーの話によると遠征地に着いた日、森永は絶対に宿舎を出ない。早目に食事をしマッサージを受けて寝る。プロ入り以来まる四年、判で押したようにそうしているそうだ。ひとつの習慣を四年間も守り続ける粘り強いファイト。三回の安打について森永はこういった。「広島で伊藤に二度チャンスに三振させられた。お返しというわけではないが、こんどは打たなければと思って持っていた。まっすぐだった」赤ら顔でちょっと出っ歯。「十回にはきめどころですからね」ポツリ、ポツリはずかしそうにいう。そこで考え込んで「ただね、ぼくは毎年春には調子がいいんだが、五、六月になると故障したりして落ちるんで、それをなんとかしようと思って・・・」といっていた。左投手征服のつぎの自信がここにある。というとまじめ一点ばりのようだが、三連戦の最後の夜には門限ギリギリまで帰らないそうだからユーモアを知らないわけではないらしい。
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井上忠行

2016-11-15 23:39:25 | 日記
1962年

「いつもおとなしくて話題のないのが井上(忠)」というのがナインの井上評だ。「先発メンバーに出たのはきょうの試合が三試合か四試合目くらいになるんじゃないですか」というほど目立たない。そんな井上がスタート・メンバーに出たのは城戸がカゼぎみだったからだ。中西監督も試合前「城戸が出られないのは痛いな」と困った表情をしていた。おとなしいおとなしいといわれながら、昨年の十二月結婚式をあげた。夫人はファッション・モデルだった。「まだ子供をつくる余裕なんかありません。もっともっと野球がうまくなってからこしらえます」てれたような笑いをうかべながら井上はボソボソしゃべった。「まっすぐでしたよ、三回の二塁打も七回のヒットも。ディサ?別にどうってこともなかった。でも二本ともあまりいい当たりではなかったですね。それに、七回のヒットは八田さんがジャンプしてちょうどおりたところへとんでいったような感じでした。いい当たりでなかった証拠です」プロ入り六年目、技術面でも考え方も入団当時から、まるでかわったところがないという。西代表がいっていた。「井上はひっぱることばかりを考えずに、外角球を右翼に流すように注意してもいっこうにやらない。相かわらずひっぱってばかりいる。私も一度いったことがあるんだがね」井上のいま考えてることは「からだが早く開きすぎる点。振り遅れは要するにポイントですね。これがうまくつかめるようになれば・・・」という。ひとつのことを一本気に思いつめるのが井上のいいところかもしれない。「趣味もなにもないのですよ。野球のないときは家でただゴロゴロしているだけです」朝から晩までバッティングを、からだが開くことだけを考えて暮している。打てなかった右翼に打った七回、試合をきめた右前安打もそんな性格が出たものだ。
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江藤慎一

2016-11-15 22:56:10 | 日記
1962年

マスクをぬいだ江藤はすごい顔をしていた。目がギョロリと光ってふきげんだ。くいつきそうな顔でいった。「1-3からあんな中途はんぱなバッティングをしてはいかん」三回の満塁で投ゴロを打ったのがきげんの悪い原因。バットをケースにしまいながら「なっとらん」をなんども連発した。1-3になったとき「内角球か外角球かどちらかにヤマをかけよう」と計算して五球目を待ったという。その計算はボールが池田の右腕からはなれたときにふと「くさいボールでも打っていこう」というふうにかわったそうだ。ブツブツはつづいた。「一球見のがしてもあとにまだ一球残っているのに・・・。バカバカしい、なっとらんな。あんなときにふと気がかわるなんてオレもまだ若い。あんなこっちゃいかん。四番なんだからね」きげんが直ったのはホームランの話になってから。「会心の当たりだった。ちょっと低かったがシンカーみたいな球で、回転が少なかった。よくとんだろう。オールスター戦で久保から打ったのもよかったが、今夜のはそれ以上だ」これで長島、王とならんでホームラン・ダービーのトップ。だがそんなことにはまるで耳をかさない。ひとのことを気にするとあせりが出るから・・・という。「自分のペースで打っていく」とたんたんとしている。計算はひと月五本だ。江藤と同じように捕手で四番を打っている南海の野村も同じ計算を立てている。「野村さんにやれることが・・」とファイトをむき出しにしていった。「八月にはホーム・グラウンドのゲームが多い。だから体力的にもかせげる。今月はあすのダブルヘッダーでもう一本打っておけばいい」
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長谷川繁雄

2016-11-15 22:22:27 | 日記
1962年

試合前の長谷川は寺田の話がもちっきりのダッグアウトを見ながらふきげんだった。「テラ(寺田)は二ホーマー、オレはかすんでしまいそうやな」だがバッティング練習でトップを打った長谷川の打球はガンガン右翼席へとび込んでいた。四回先制のホーマーを放った長谷川は試合前のふきげんはどこかへ吹きとばしたような表情だ。「まっすぐやったと思うな。スイッとバットが出よった。手ごたえはあんまりなかったけど、手首にはツンときたな」四打数ノーヒットの寺田がその前をムッツリとして通った。「バック・スイングを小さくしてスタートしたのがやっと自分のものになってきた。去年までは大きく振りまわしていたけど、いまは気にしなくて小さく、そしてシャープになってきている」石本コーチも「南海時代のもろさはなくなった。五年間ものび悩んでいたものがいまさらうまくなるかとよくいわれたが、私の思いどおりに育っている」と安心したような口ぶりだ。だがこの本塁打にも秘密があった。南海時代杉浦のボールを一番よく打ったのが長谷川だ。森滝はフォームもほとんど杉浦と同じ。それでいてスピードは杉浦より少しない。「リーグはかわってもどんなところでプラスになるかわからんもんだな」とニヤニヤ。ただ北川にはとまどったようだった。「あんなクロスして投げるのは若生(大毎)ぐらいやからな。それも横手と上手との違いがある。八回三振したのは全然見えなかったよ。オープン戦ではほとんどパ・リーグ相手やったからよかったが、これからの相手投手を研究するだけでも精いっぱいや。セ・リーグの投手はパ・リーグより落ちるというけど、そんなことはないよ」中日にはいったとき南海・鶴岡監督が「あれがクリーンアップを打つなんてね・・・」といっていた。奮起をうながすための言葉だったのだろうが、とにかく長谷川は三番定着に必死だ。最近の口ぐせは「他人がどんなこといおうと勝手にいわしておくさ。オレはもう中日の長谷川やで」最後にはおこったような口ぶりでバスに乗り込んだ。
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桑田武

2016-11-15 22:02:05 | 日記
1962年

「ぼくはとってきょうは地元でのはじめての試合だし、なんとかひとつ恩返ししたいな」満員のスタンドをみながら桑田はいった。恩返しといったのは左足首をスピーディーに直してもらった関東労災病院の医師、看護婦さんがネット裏にみにきていたからだ。恩返しの一発は三回裏左翼中段へ打ち込んだみごとな逆転2ランだった。「こんどこそはいったと思ったな。真ん中よりやや内角より、シュートのかけそこないじゃないかな。ヒザもとをだいぶ攻められたが、こわくはなかった」こんどこそに力を入れたのは、これまで二本も中堅後方のフェンスにぶつける準ホームラン?を放っているからだろう。「桑田さん、初ホーマーの感想を・・・」つぎからつぎへマイクがのびて、桑田はなかなかロッカーへ帰れない。みかねたように平山マネがそばへきた。「あと十分で第二試合がはじまるんですよ。こんど打てなかったらどうします」心配のあまり声がちょっとふるえている。それでも桑田は最後までていねいに答えていた。「勝ってよかったな」はじめて三番でスタート、しかも九回まで三塁を守りとおしただけに、言葉ははずんでいる。「打つ方はだんだん調子があがってきたから、これからは細かい守備の動きを練習しなくちゃ・・・。バント攻めの対策?あまりムリしないで打つ方でカバーしますよ」七回二死一、二塁で飯尾のベースよりのゴロをさばいたが「まだベースへかけ込む瞬間的な力が出なかった」という。「桑田は(フトシ)西鉄・中西監督)と同じようにケガしやすい体質だが、そのケガをのり越えるたびにひとまわりずつスケールが大きくなってきた。ここ一、二年のうちに迫力では長島を完全に抜くだろう」と三原監督。この日、最後まで守らせたのは「もし同点になった場合、延長戦でもう一発出してもらおうと思ってね」ちょうど一年前の五月十三日、やはり川崎球場のナイター開きの対国鉄戦で北川から先制5号を打っている。
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