プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

城戸則文

2016-11-15 21:49:27 | 日記
1962年

「城戸ってどんな男だい」と聞かれて真っ先に浮かぶのは青い顔と金歯だ。この二つは深い関係がある。プロ入り三年目の三十四年、城戸は近鉄の黒田(勉)投手からアゴに死球をくらって口の中がグチャグチャになった。それまでは「コンクールに出たら一等になる」ような真っ白な歯だったそうだ。死球がケチのつきはじめで虫歯にとりつかれ、いまでは自分の歯は一本もなくなった。金歯はそのときのもの。元来胃がじょうぶでなかったのがこれで慢性になった。「目がさめるとスッぱい液が朝のあいさつをするんだ。青い顔がますます青くなりました」悪いことにウエスタン・リーグのホームラン王(33年)はボール恐怖症にもなった。「死球から顔が逃げるようになった。手が手長ザルのように長いから外角球でもバットを当てることはできるが、ヒットがでない」こう酷評された城戸が青い顔にほんのりくれないを浮かべて決勝の三塁打を説明した。「内角寄りの直球でした。シュートしたかな。きょうは球に向かっていった」城戸は常盤高出身、坂井は田川中央高から専大に進み、それから大毎。プロ入りしたコースは違うが、高校ではよく対戦したので気安さがあったという。「走者が出ると坂井はスピードがなくなった。それにしてもぼくにしては真シンの当たりだった」開幕以来四本目の安打。打点ははじめて。六本のバットと製菓会社の三塁打賞をもらって城戸は宿舎へ。その途中で「きょうは腰が逃げなかったでしょう」と思い出したように笑った。キャンプで中西監督は三塁城戸、一塁田辺を打撃競争させた。「負けた方のポジションをオレが守る」と中西監督はいった。城戸は「いまのところ完全にぼくの負けだ」と率直に認めている。十八日、中西監督が二十四日の大毎戦から三塁を守ると声明した。「あの声明が刺激になった?城戸はしばらくニヤニヤしていた。「とにかく試合に出たら体当たりでいく。まだ二十二歳ですからね。先は長いですよ」この話を中西監督にしたら「体当たりでいくって?いい刺激になったな。オレは別に出なくたっていいんだ。ほんとうはそれの方がいいんだ」とうれしそうな顔をした。
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鈴木武

2016-11-15 20:34:26 | 日記
1962年

帽子をとられ、頭をつつかれながら、ナインに引きずられるようにして帰ってきた鈴木(武)は「ああ、はずかしい、ああ、はずかしい」を連発、ロッカーの片すみにうずくまってしまった。ワッととりまく報道陣に近藤(和)が声をかけた。「これでいよいよ見合いの相手がきまるぞ。あしたはひとつハデに写真をのせてやってや。候補者がどんどん殺到して困るかな。とにかくきょうはいい日や」鈴木(武)は箱田とならんで大洋独身会の幹部だ。「ワシはなにをするのもめんどうくさい無精者でね。なかなか嫁さんのきてがあらへん」と日ごろからよく冗談をとばしている。「外角寄り、高目のまっすぐや。外角へのドロップがくると思ってねらっていたんだが・・。堀内も完全にへばってたな。もうドロップを投げる力がなかったんだろう。ああ、サヨナラ・ヒットちゅうもんはほんまに気持ちのいいもんや」スムーズに出たバットのかっこうをして見せて得意そう。-敬遠してくるような気配もあったが・・・。「そうね・・。ヘボ・バッターやからだいじょうぶだと思ったやろ。でもそう簡単にはいかんわい。こっちも長いことただメシを食ってないからな」三原監督は近藤(昭)とこの鈴木(武)は典型的な超二流選手だという。つまり「名前は一流でなくてもいざというときには何をやるかわからん。たよりになるバッターだ」というわけだ。三原監督はこの鈴木(武)を近鉄時代から高く買っていた。三十五年六月大洋へひっぱったのもそのためだ。「タケシは気分的にムラがあるが、いわゆる職人だ。環境に応じて使えば、これほど心強いバッターはいない。しかしちょっと目をはなすと、すぐ近鉄のぬるま湯気分にかえってしまう。だから折りを見てシリをたたいたり、チクチク刺激を与えたりしているんだ」鈴木(武)にとっては一昨年大毎との日本シリーズ二回戦で決勝打を放って以来の花やかな舞台だったことだろう。
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足立光宏

2016-11-15 20:13:37 | 日記
1962年

キョトンとした顔で足立はマウンドをおりてきた。ナインが足立めがけて走り出すと細い目をいっぱいあけて逃げ腰になった。ベンチの前でもみくちゃにされた足立は、そのときはじめて太田から新記録のことを聞かされたそうだ。ふとった阪急岡野代表もころがるようにして走ってきた。足立のまわりでフラッシュがひかった。「全然知らなかったんですよ。ほんとうに・・・。シャットアウトのお祝いかと思っていました。新記録ですか」報道陣にとりかこまれた足立は、イスにすわりこむとウーンとうなった。球場の係り員が「社長がお呼びですから」と呼びにきた。ピョコンと立ち上がって直立不動の姿勢をとると、二階のロッカーへあわてて走った。小林社長の前でも直立不動だ。「どうも、どうも」監督、代表、社長の前で足立は米つきバッタのようにペコン、ペコンと頭をさげてばかりいる。威勢のいいのはピッチング・コーチの荒巻だ。「監督さんは石井(茂)の方がいいのじゃないかといっていたが、ぼくは足立を推薦した。きのうの練習で球が走っていたからね。もちろんことしはじめての先発だよ」荒巻がおこったような声で足立を呼びつけた。「あわてるな。これは大事なもんやからな。ちゃんとサインをしてしまっておくんや」記念のウイニング・ボールでオデコをコツンと荒巻コーチにたたかれて足立はやっと落ちついた。「きょうはコントロールがよかったですね。完封はおととし(三十五年)の東映戦以来です。外角によくきまりました。六、七回ごろにへばりました。完投なんで久しぶりでしょう。スタミナが心配ですね、早く代えてくれないかと、そればかり考えながら投げました」フロにいくことを切りだせないでいつまでも報道陣の相手をしている。三人きょうだいの長男で性格もおとなしい。気の強い松並が「右打者にはカーブ、左にはシュートを勝負球にした。のびがあったし、ひとつも棒球はなかった」と補ってやる。コップ一杯のビールで顔が真っ赤になる。しかしきょうだけは大阪福島の自宅で飲めないビールを父親忠太郎さんを相手に少しずつゆっくり飲むそうだ。まだ独身。
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久保田治

2016-11-15 20:00:09 | 日記
1962年

アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのようにぐっしょりだ。久保田はチームでも一、二を争う汗っかきである。「オールスター戦中練習らしい練習はしなかったので、いつもの倍は汗をかきました」プロ入り八年生なのに言葉づかいはすごくていねい。試合前のことだが大毎の若生、上条らが「こんちわ」と久保田にあいさつすると「アッ、これは、こんにちわ。暑いですね」と腰を低くかがめた。久保田の方が先輩である。話し合いはこんなふうにバカていねいなだけでなく、話すスジもちゃんと通っている。「外野を走っているときはこの暑さでしょう。どうなることかと思いましたが、マウンドで投げたらこれはいけると思いました。球威がありました」-完投できると最初から自信があった?「二回投げて自信がわきました。おそらく投球数は八十前後だと思います。ぼくの場合、一イニング十球のペースでは完投できません。外角へはずし内角シュートで勝負したのですが球威があったのでねばられずにすみました。一回八球、二回は九球でした。いままでも完投したときは必ず八十前後のはずです」言葉どおり投球数は七十八。ある記者が聞いた。「今夜は安打二本打たれたが・・・」みなまでいわせず「いいえ三本です」と訂正した。すべてこの調子である。オールスターに選ばれながら久保田は平和台でも広島でも投げなかった。博多に着いたとき水原監督に「おまえは投げさせんぞ」と引導をわたされたそうだ。「広島にはおやじもきていたので投げたかったですね。ペナント・レースの方がそりゃ大切なんでしょうけど・・」その広島で土橋が打たれ、この夜第二試合もみじめだった。「これからがぼくのシーズンです」という久保田をオールスターであえて使わなかったのは水原監督の深い読みがあったとみていていいようだ。久保田は冷蔵庫で冷やしたコンブのエキスを毎日欠かさず飲んでいる。「コンブの小切りを水につけるだけですが、塩が適当にとけておいしいです」これが夏の活躍を維持する秘けつだそうだ。
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山本八郎

2016-11-14 10:28:39 | 日記
1963年

オープン戦で山本(八)は全然当ってなかった。気性の強い山本(八)は「理由はわからんのや安打はドラッグ・バントやへんな当たりばかりやった。しかしちょっとも心配していなかった。本番になればなんとかなると思う」試合前のベンチではまるで他人ごとのようにいった。関根や小玉がバットを振っているのに山本(八)はイスにふんぞりかえっていた。試合がはじまるとナインは目をみはった。当っていなかった山本(八)が二本も本塁打を打ったからだ。「開幕試合はいつもこんな調子や。いままで七回のうち二回一発を打っているんや。しかし二本も打ったのは初めてやな」二本目の本塁打はとんでもない高いボールの球。草野球でよくみかけるみごと?な大根切りだった。だが打球はライナーでバック・スクリーンにとび込んだ。気力で打ったというよりほかはない。打たれたスタンカが「あんな球を・・・。アイツはクレージー(気違い)だ」とぼやいていた。八回にはど真ん中の球を遊ゴロ。「ボールでないとあかん、ストライクは打たれへん」と大声で笑っていたが、こんな山本(八)にナインはびっくりしていた。「ねらったわけではないが、負けていたので思い切り振ってやったんや。スタンカはスピードがなかった。あのコースの球やったらもっとのびてバットが押されるんやなが。三十万円の電気製品?そんなものほしくないね」大阪球場のバック・スクリーンに打ち込めば棒電気メーカーから三十万円相当の製品をもらえる。賞品のことよりも好調なすべり出しに気をよくして頭がいっぱいらしい。別当監督は「気力で打った。これからもずっと五番を打たせる」と上きげんだ。いままでの山本(八)のファイトはゆがんだ形で出ていた。昨年までいた東映ではファイトが先走りして同僚をポカリとなぐったり、いろんな問題を起していた。ことし近鉄にトレードがきまったとき、別当監督は「そのファイトを試合だけに出せばいい」と忠告していたが、このアドバイスをしっかり守っている。「ハッちゃん」これが近鉄での愛称だ。「近鉄は実に気持ちのいいチームだ。のびのびやれる。この調子だと目標の三割も打てそうだ」と1、2号をたたき出したバットをひょいとかついでベンチを出ていった。山本(八)の足どりは軽かった。
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船田和英

2016-11-13 21:11:25 | 日記
1963年

船田の五回に打った左中間スタンドにはいる豪快な2ランが善戦の大洋をダウンさせた。六回の2打点をたたき出す左翼線テキサス二塁打。この日の船田はニックネームどおり無敵のライフルマンだった。「ホームランは会心です。フェンスに当たるかなと思ったが手ごたえは十分あった。真ん中ベルト辺のストレート。秋山さんは後楽園でも一本打っているし、自信はありました。スピードがなかったですよ」大洋の系列会社であった北洋水産から巨人入りした船田は川崎で大洋ファンから目のかたきにされている。船田が打席に立つと「裏ぎり者、大洋へ帰れ」というヤジがとんだ。「かえってファイトがわきますよ。大洋には裏切りかもしれないが、あんなことをいわれるとこちらもカッとしますよ。たしかに高校のときから大洋にはさそわれました。しかしぼくはまだプロでやれる自信がなくてことわったんです。それじゃ北洋水産にでもはいっておれといわれていったんですがね。大洋はその後強くさそってくれなかったし・・。安心しすぎていたんでしょう」気の強いことをいう。船田は大洋戦には皮肉にもよく打ち、現在十四打数九安打6打点。バッティングはファースト・ストライクを思い切ってひっぱたく。ホームランも二塁打もすべて第一ストライクだ。「悪い結果を心配してはいけないと監督さんや荒川さんにいつもいわれています。キャンプのとき、紅白試合でまるで打てず、消極的なバッティングになって、荒川さんに女のようなバッティングをするなとどれだけおこられたかわかりません。阪神戦のときは張り切りすぎてボールにばかり手を出して、さんざんだったですが・・・。きのう(二十六日)指名されなかったけれど多摩川で打ったんです。ジャスト・ミートしだしたのはそのためでしょう。ホームラン以外は三打席つまっていたんですが・・」船田は一回の打席で三塁ラインをそれる強烈なゴロを打ち、川上監督にぶっつけた。川上監督は当ったところをさすりもせずに平気な顔をした。「監督さんは痛かったに違いないのになんでもないというゼスチャアをしてくれたでしょう。文句も全然いわれなかった。グッときますよ。監督さんのためにやらなきゃあという気になります」その気で次打席で打ったのが逆転ホームランというわけだ。インタビューがすむとある週刊誌のグラビア・ページの撮影が待っていた。選手のいなくなったグラウンドで反射板を顔に当てられ船田はテレながらバットを振りだした。一人のファンがベンチの上からいった。「船田、あしたも写真とってもらえよ」船田は小学生のように「ハイ」とこたえた。
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F・アグリー

2016-11-13 20:50:04 | 日記
1963年

おせじにも守備がうまいとはいえないアグリーを二塁にすえた理由を三原監督はこういう。「三塁、遊撃なら桑田、鈴木(武)と比較してみてマイナスだ。ほんとうは一塁に使いたいのだが、一塁には島田(幸)マックそれに近藤(和)がいる。近藤(昭)がちょっと調子を落としているのでね・・・」連敗つづきの三原監督が考えに考えたすえの二塁起用。攻撃要員だけに五回逆転の満塁ホーマーを打つと三原監督はすぐベンチへひっ込めた。「ぼく、三回ぐらいね。あそこで打たなければベンチだもの」三回ぐらいというのは打席のこと。予定数の最後になってやっとみごとな一発が出た。「まん中のボール。ぼく、とられると思った。当りがよくなかったよ」と自分でも驚いている。打たれた鈴木は一塁側ロッカー・ルームで涙を流していた。「シュートがボールにばかりなって。アグリーは外角さえつけば流せないからだいじょうぶだと思いながらも、四球がこわくて投げられなかったんです。内角を思いきってついたつもりが、なん中へはいっちゃった」1-2とカウントはよかった。コースも絶好球だ。「しょうじきにいって、アグリーの二塁は冒険です。だけどアグリーの打撃を生かすためにはこれ以外に道はないんです」久しぶりに作戦の当った三原監督は、当分はこのまま二塁で一番を打たせ、そしてその勝負強さをフルに生かすハラだ。アグリーは「ほんとうは外野の方がいいんだよ。二塁ははじめてなのでどうもね。でも打てばいいんですね」打つだけというアグリーはたどたどしい日本語だが、力強くいい切った。
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高倉照幸

2016-11-13 20:49:15 | 日記
1963年

もう3号ホーマー。うち二本は第一打席のものだ。「オープン戦でも四本打ったが、みんな第一打席だったよ」切り込み隊長のニックネームどおり活躍を続ける高倉は、あっさりいう。一月十九日慢性のチクノウ症を手術、続いて十年目のボーナス交渉と忙しく、キャンプは出おくれていたのに・・・。「新人じゃあるまいし、自分の調子をどのくらいの時間をかければあげられるか、わかっていたよ」やはりそっけない返事だ。「第一打席のホームランは外角寄り、低目のスライダーだろうな。打つ気はなかったんだがバットが出てしまった。あれ、球が逃げていくと思ったとき、無意識に手首でこねていた。よく風にのったね。ハハハ・・・」黒い顔、シシッ鼻、短い髪のせいか二十八歳とはとても見えない。「こんなにいいすべり出しは、プロにはいってからはじめてだ。十八打数九安打だって?フーン、そんなに打っているかな。毎年四、五月に打とうと心がけながら打てなかったのが、おもしろいようにヒットが出るんだから楽しいよ。ついてもいるね。調子のいい理由?なあ、チクノウ症が完全になおって、鼻がよくとおるようになったからかな。オレは気分屋なんだ」どんなにチームのふんい気が落ち目になっているときでも、高倉だけは打つと、中西監督が今シーズンのオーダーをきめるときにまずトップに確定させたのに気分屋などとウソをついている。熊本商を卒業したとき、高倉はエンジニアを夢みて大学で工科を専攻しようと考えたそうだ。「それがどう変わったのか野球選手になっちゃった。でもなんでもいいや。みんなから喜ばれるような人間になりたかった。まだまだぼくはハデさはない。それでもフトシさん(中西監督)や野村なんかのようにドッとわくところがないんだ。だけど、そんな人間はそれなりに生きていく道があると思うんだ。トップを打って出塁して、クリーンアップの爆発を持つ。それでいいじゃないか。ほんとうに野球の好きな人だったら認めてくれると思うね」地に足のついた話だ。十年目のボーナス一千万円、年棒にして百万円参加報酬があがったといわれている。野球選手の給料は高すぎるといわれる選手が多いが高倉の値打ちを会社は認めている。「いくら金を出しても惜しいとは思わない選手だね。ほんとうのプロ野球人だ」西鉄・川崎重役は、いつもいっている。
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宮原務本

2016-11-13 19:03:14 | 日記
1963年

右手にバット・ケース、左手にボール・バッグ。およそヒーローらしくないスタイルで宮原はベンチを出た。「ぼくボール係なんですよ。三年たったのにまたボール。重いんですよ」あわれっぽい声が出た。キャンプ中は尾崎と新人にボール係をゆずったのにシーズンにはいるとまたボール係。ピッチャーには持たせられないんですって。おはちがぼくにまわってきたんだ」ナインの中で最年少の宮原がまたバックをかつぐことになった。「三年目なのに・・・」と口をとがらし、バッグを引きずりあげる。取りかこむ報道陣も、バットとバッグをぶら下げた宮原に近寄れない。首をのばして「打った球のコースは?」と聞く報道陣にやっとバッグをおろし「カーブだったと思うのですが!」とたよりない返事だ。「なにしろ今シーズン四度代打に出て四回とも投ゴロなんですよ。ヒットははじめて」と急に顔を赤らめた。「代打は予想していました。島田さんはもう出たあとでしょう。こんどはぼく」かたわらを通り抜ける土橋が「サンキュー。バッティングのコツ教えてやろう」と冗談をいうとまた顔を赤らめ、帽子をぬいでゾウキンのようにしばりつけてテレる。まだ高校生気分が抜けないようだ。昨シーズン前半に痛めた右足の故障が尾を引いてことしのキャンプを棒に振っているが「まだほんとうの当たりではありません。左中間にとんだしょう。ミートした瞬間腰が落ちてしまって変な方にとんでしまった」としきりに頭をかく。ほんとうの当たりというのは一塁ベース・キャンバスを抜くライナーだそうだ。入団一年目の三十六年のペナント・レースではこの当りで島田につぐ第二の代打要員の地位をがっちりつかんでいる。「やはりキャンプに出なかったのが響いています。公式戦になると練習できないでしょう」バッティング練習はいつもあとまわしだ。バックをかつぎバスへ走りながら「でもいいんです。東京にいるときは昼間イースタンでやれますからね」といった。イースタン・リーグにいけば四番バッターなのである。去年は全然パッとしなかったから、その分まで取り返さなければ・・・」バスのタラップにぶらさがって小声でこういった。参加報酬をもう三万円あげてもらってイギリス製の背広をつくりたいのだそうだ。
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伊藤勲

2016-11-13 17:55:43 | 日記
1963年

八回大洋の攻撃がはじまる前、三原監督と岩本コーチが2点差を追う代打陣の順番をきめた。残っていたのは黒木、伊藤にマック。伊藤は「九回裏の攻撃がピッチャーのところまでまわり、そのとき中日の投手が左の西尾のままなら代打」といわれた。伊藤は「ぼくのところまでまわるかな」と思いながら、すぐロッカーの大鏡の前で素振りを始めた。その出番は1点差になった九回二死一、三塁。このとき岩本コーチは「三振かホームランのどちらかだ」と思ったそうだ。「二、三年までの若手の中で伊藤はリキと心臓は一番、左にはめっぽう強い。それにきょうはレフトへ風が吹いているし、シンにさえ当たればはいる。でなければ振りまわしての三振だ」この予想はいい方に当った。プロ入り初ホーマーの逆転3ラン。伊藤はダイヤモンドを一周しながら一瞬首をひねった。「はいるなんて自分でもびっくりしました。真ん中あたりのスライダーのような球だったと思います」説明はあいまい。プロ入り三年目で初めてヒーローになったのだから、冷静になれないのもムリはない。ホームランする前、二球目に外角への落ちる球をから振りしている。「あれだけは注意しろといわれたんですが、手を出してしまいました。でもかえって落ちつきました。あとは最後まで球にくいついていくことしか考えなかったです。一軍での打席?ことしはこれで八打席目で、そのうち代打が四回です。ヒットは代打のとき一本、三遊間に打ったことがあるだけです」青ざめた顔色をしながらこれまでの経歴をしゃべった。松原(二年生、飯能高出)と並んで三原監督から「将来の大型捕手」と折り紙をつけられ、キャンプのときに「ことしはずっと一軍で鍛えていく」と目をかけられていた選手だ。「ムッツリしているが、なかなかカケごとも強く、東北人らしく最後まであきらめないねばりがある。やわらか味のある筋肉質のからだはこれからまだまだ大きくなるだろう」これは合宿でよく伊藤のめんどうをみている小林トレーナーの診断。1㍍78、75㌔というりっぱな体格。母校は仙台の名門東北高だ。
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早瀬方禧

2016-11-13 17:30:26 | 日記
1963年

雨さえ降らなければ、毎朝十時になると西宮球場の重いとびらを押しあけてグラウンドにとび出す若い選手、それが早瀬だ。一人で根気よくグラウンドを一周、また一周。全力疾走とふつうのランニングを交互にたっぷり一時間。グッショリ汗をかくと球場のすぐそばにある合宿へ帰っていく。ランニングにうち込んでいるのは、西本監督からこう注意されたからだ。「君は太りそうなからだつきだ。現在のからだ(1㍍71、75㌔)ならまあまあだが、太ったら腰の回転がきかなくなって、バッティングが鈍くなる。守っても動作がスムーズにいかないよ」出身地名古屋の名物はきしめん(東京でいうひもかわうどん)これが大の好物。中京大時代には朝食からきしめんをどんぶりで三、四杯ペロリとたいらげたそうだ。しかしいまはめん類はいっさい食べない。米飯もなるだけ少なくし、肉と生野菜を主食にしている。「でんぷんは太るでいかんわ」名古屋弁でいった。西本監督がほれ込んでいるのは、高知のキャンプで見せたシュアなバッティングもそうだが、なによりもいわれたことをあくまでやり通そうとする性格だ。オープン戦ではさっそく五番を打たせてためしてみたが、西本監督の採点は合格点。ウエスタンでは中堅を守って常時三番。三試合で十三打数三安打、1打点をあげて順調な成績だ。「ずば抜けた素質があるわけじゃないし、ふつうの練習をやっていては、レギュラーにはなれないと思います。ぼくは研修期間中走れるだけ走ろうと思っているんです」こんな早瀬を、梶本(兄)はかわいくてしようがないようだ。「まだ顔もよく知らないうちから、オレの部屋にはいってきて各球団の投手についていろいろ聞くんだ。合宿の中でも」合宿の早瀬の部屋の窓から球場のノイトが見える。「早くあの光の中で思い切ってプレーをしたいものですね」公式戦が五十試合を追えるのがほんとうに待ち遠しそうだ。二十二歳、中京商・中京大出身、右投右打。今春入団。
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鈴木悳夫

2016-11-13 17:14:06 | 日記
1963年

研修のとけた東映・鈴木悳夫内野手が十六日の対大毎戦(東京)に先発一塁手として十二球団のルーキーの先頭を切って公式戦にデビューした。二回裏、八番一塁鈴木とアナウンスされると、三塁側からこの日最高の拍手と歓声がデビューを祝福した。しかし初打席は小野にひねられて三球三振。「ノックの前に先発と知らされた。そのときは別になんとも思わなかったが、やはり第一打席はあがっていたのかもしれない。三球目はボールのスライダーだったのに振ってしまった。でもはたでみるほどあがってはいませんでしたよ」鈴木はしきりにあがらなかったことを強調。早大のとき一年生でリーグ戦に初登場したときの方がよほど堅くなったそうだ。第二打席では2-3までねばって四球。そしてまた拍手をあびて代走ラドラと交代した。「小野さんはカーブの多い投手だと注意されていたんですが、やはりスピードがあるので・・・。六大学やイースタン・リーグとは全体的にスピードが違う」と報道陣との応対も六大学時代に経験し、研修期間の間もインタビューで鍛えられている?だけに手なれたもの。このへんがいままでのルーキーとはちょっと感じが違う。しかし守っている間もベンチにいるときも一球ごとに声をかけ、また内野をまわったボールをていねいに土橋に手渡していたのはいかにもルーキーらしい。「イースタンでずいぶんやってきただけにあらたまった感激は別にありません」とちっともテレたようすもない。鈴木のかたわらで水原監督が「鈴木はなかなかいい度胸をしているな」と話しているのを聞くとようやく頭をかいてテレた。またいっしょにベンチ入りしたライバル三沢は、この日下痢のため出場のチャンスがなかった。この二人は昼間は多摩川のイースタン・リーグに出場、夜は一軍といそがしい日が当分つづきそうだ。イースタン・リーグでの成績は24試合74打数21安打、打率二割八分四厘。
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北川芳男

2016-11-13 17:01:48 | 日記
1963年

「きょうなどシャットアウトしないといけなかったね。一回に4点をとってくれたんだから。ここ四、五年ない経験だよ。あまりよくなかった。スピード不足だったよ。後半は出てきたがね。北川のように勝っても負けても気持ちよく話す投手はいない。ピッチングもテンポが早いが、話しも実によどみがない。「阪神というチームはいくら負けていても初球から打ってくるんだ。だからせり合っているとやりやすいとはいえないが、こっちがリードしているとあんな楽なチームはないね」阪神の選手が聞くとアタマへきそうなことを平気でいう。そのうえ藤本監督がこれまでよくいった「北川は国鉄にいたからこそウチに割り合い好投できたんだ。巨人で投げると意気込みが違うから、いつもほどウチに通用するわけがない」という見方にも堂々と反論しはじめた。「チームは変わっても阪神の攻め方は変わりっこないよ。同じさ。ただ九回に藤本にだけはうまくやられたな。外角のスライダーだぜ。長島君がよくやるように上からかぶせて、手首でレフトのスタンドへもっていかれた。あれがアメリカ帰りのリスト・スイングというものかね」取材記者を大笑いさせることもちゃんと心得ている。十四日の阪神戦に一度出ただけでその後登板なし。北川にとって巨人にはいってはじめての勝利だ。「やっと勝利投手倶楽部と完投投手倶楽部の両方にはいれたよ。ウチの投手は出ると勝ちでしょう。ぼくだけがとり残されているようでやはりあんまりいい気持ちはしなかった。この1勝で落ちつくね。しかしホームランされたのは巨人の投手陣でははじめてなんだ。これはあんまり感心しない」横にいた王が「へー、ホームランされたのははじめてなの?しかしきょうならいいじゃないの。ああ、打たれたかという程度ですむよ。勝敗には関係ないから」と妙ななぐさめ方をした。「きょうのスピードならまたあすの新聞に北川はスピード不足をコーナーワークで補ったと出るね。あの文句をいるのはあきちゃったよ。かわった書き方をしてくれんかね。バックがあれほど打ってくれるなら、まだおれでも十年くらいもちそうなのに・・・」と北川ははや手まわしにあすの新聞の予想までしていた。
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宮川孝雄

2016-11-13 13:18:20 | 日記
1963年

「真ん中高目のストレートです。だれでも打てる球でした。フラフラッととんでいったようですが、バットのシンには当たっていました。ああいうのを感じよく打てたというのでしょうね」宮川はノンビリした表情でインタビューにこたえた。声も小さいし調子も高くない。ホームランを打った直後の喜びようとは人がかわったようだった。三塁ベースをまわろうとして白石監督におしりをたたかれたとき調子をとって最敬礼のような格好をして走り抜け、そのまま本塁からベンチまで歓迎のナインにクルーカットの頭をたたかれどおしだった。顔中笑いにして宮川は荒っぽい祝福をしあわせそうに受けていた。「オヤジ(白石監督のこと)からミヤ九回の裏のときにいくぞといわれていた。巨人戦は好きなんです。ファイトはわくし、やろうといく気になります。代打専門は当っているうちは楽しいですね。一試合に一度出てポンと打てばそれでいいんだから・・・」レギュラーになるのと代打専門とどちらがいいかと聞かれて、はっきりこたえないところをみると代打オンリーにも生きがいを感じているらしい。昨年の唯一のホームランも城之内から奪った代打ホーマー。プロ入り以来打ったホームランが二本とも代打のときだったという代打男だ。「ジャッキー、ナイス・ホームラン」平山コーチが握手してきた。ジャッキーというのは足が速いことから米大リーグの俊足強打者ジャッキー・ロビンソンに似ていると平山コーチがつけたニックネーム。これで宮川の打率は十三打数五安打、打率三割四分五厘という高打率になった。アダ名のとおり足も速いし、バッティングはしぶといし絶好のトップ・バッターになれる。しかし一年に一度は大ケガをして休むのが玉にキズ。「ファイトがありすぎてボールに向かっていって、すぐわき腹などに当って休むけんのう」と白石監督は痛しかゆしの表情だ。白石監督は「とにかくことしはケガがないのでいいな。もっともこの前の阪神戦では首筋を寝違えて休みましたがね」宮川も自分の欠点はよく知っている。報道陣から解放されて一番最後にロッカーへ帰ったらホームラン賞の生ビールサッポロ・ジャイアンツの大ビン二本が待っていた。「祝杯?いやあ、まだシーズンがはじまったばかりなのにこればかりではのめません。ノンプロ(門鉄)に六年もいたから考え方も現実的になりましたよ。一本だけは持って帰ろうかな。オヤジにのんでもらう」といって大事そうにかかえた。「それがいいね。こんどはジャイアンツをのんでしまえ」と竹内マネがセンスのあることをいってけしかけた。
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前田益穂

2016-11-13 12:58:30 | 日記
1963年

中日のダッグアウトはごったがえしていた。インタビューぎらいの杉浦監督も腕組みをしてアゴをぐいと突き出し、質問を受けて立っている。そんななかで前田だけはバットとグローブを片手にもって逃げじたく。「いいでしょう、一本打ったくらいで・・・」腕を引っぱられ、肩をおさえられた前田はしかたないという表情で向き直った。「まあね。高目のカーブでした。内角へきたから思い切って打ったというだけです」初球をねらったの?ヤマをかけたの?という質問にもそっけない。言葉に勢いがなく、からだもだるそうだった。だがこのからだのだるさが前田にとってはよかったという。「どうもからだの調子のいいときはダメなんだな。上体に力がはいりすぎてしまう。だから夏場になってバテ出すといい当たりが出るんですよ。きょう?ええちょっと・・・」はじめて笑って、やっと言葉にも調子が出てきた。「左にはだいたい強いんですよ。伊藤からもよく打っている。それに二人ストレートで歩いたあとだから、必ず投げ込んでくると思ってたよ」はじめははぐらかしていたのに、こんどは自分からしゃべり出す。足木マネジャーの「早くバスに乗って・・・」という言葉も無視した。「いままではバットを立てて構えていたんだけど、ボールから目がはなれるので、ちょっとねかすようにしてみたんだ。それがいいのか悪いのかわからんけど・・・」第2号ホームラン。だが四月十五日の国鉄戦につづいて二本目の決勝ホーマーだ。杉浦監督は勝負強さにおいては、この前田を一番に推している。しかし自分でもまだものたりないという。「もっとコンスタントに打たなくちゃ。いいときに大きいのが一発出ているだけだものね」前田がバスに乗り込むと、雨が激しく降っていた。それをみながら「ああよかった。中止にならなくて・・。これは巨人さんの涙雨かな」
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