つい先日のこと、知人と話しているうちに伊丹十三のことが話題になった。
トウキョウソナタの監督、黒沢清の話から伊丹十三に飛んだのだったが、
それはあまりいい飛び方ではなかったことは確かだ。
大ファンであるわたしは伊丹プロ相手に訴訟を起こしていたかつての黒沢清を
こころよく思っていなかった。広い世の中、その反対のことを思った人も当然
のことながら大勢いただろう。
縁のない相手だというのに、そういうキモチが強く自分にあったことを思い出した。
ファン心理の典型的なものでしょうもない感情である。
そのせいか黒沢清が独立して有名になっていくのを横目に作品は観ずにきたのであった。
いや全然観ないなら知りようもないから、観たは観たが快く観なかったということで
最初から批判的にとらえていたように思う。先入観というヤツ。
だが不思議なことであると思う。
黒沢清の撮ったトウキョウソナタに伊丹十三の片鱗、幻影を感じたのである。
それまでは若い人が黒沢清を持ち上げるほどには感じるものはなくスルーしてきた。
裁判は結果はたしか最高裁で伊丹側の勝訴ではなかったろうか、喪失感が大きすぎて
詳細などどうでもよかったことを覚えている。
もうこの世にいない、次の作品に出会えない、声が聞けないということ。
広い世の中、同じ嘆きがたくさん聞こえていた。
死んだ子どもの代わりに表れる、置いていかれる、あるいは生まれてくる子どもを
取り替え子と言うが、師から弟子へ、兄から弟へ、引き継がれて取り替え子が
現れる。現れた子をこれはあの人の取り替え子じゃないか?と期待する思い。
その気持ちは切ない。
大江健三郎の「言いがたき嘆きもて」をなんとなく本棚の隅から手にとりページを
めくり、やはり「取り替え子」の章を選んだ。
ここにある取り替え子は大江健三郎の同名の作品とは別なものだが、大江氏の
心の深いところにある切なさが短い文章に綴られているのだ。
切なさが限りないと、それがそのひとなりの勇気にもなり、他者へと届き
力となって表れる。
取り替え子とは、不思議な物語だ。
生まれ変わりというのとは違って、人の思いを受け継いだものが別な形をもって
美が醜くなったりもしながら、けれど深部にある美を抱えて現れる。
美がそこに現れたと感じ取れる人のために、現れるのである。
感じ取れる人とは、深い嘆きを知っている人である。
そういう人にだけ見えるものがある。
誰にでもわかるようにかかれても、誰にでもわかるとは限らない。
他者の心を我がものとして感じ取れる才能が物語を見透し、引き寄せる。
おもいやり、この言葉があるが、これがなぜこんなにも軽々しくなってしまったのか。
章の最後の数行に大江氏への単純な愚問に対しての作家の返答がある。
幾度読んでもそれが胸を深く突き刺すので、またこれを書いた。
忘れないように。
トウキョウソナタの監督、黒沢清の話から伊丹十三に飛んだのだったが、
それはあまりいい飛び方ではなかったことは確かだ。
大ファンであるわたしは伊丹プロ相手に訴訟を起こしていたかつての黒沢清を
こころよく思っていなかった。広い世の中、その反対のことを思った人も当然
のことながら大勢いただろう。
縁のない相手だというのに、そういうキモチが強く自分にあったことを思い出した。
ファン心理の典型的なものでしょうもない感情である。
そのせいか黒沢清が独立して有名になっていくのを横目に作品は観ずにきたのであった。
いや全然観ないなら知りようもないから、観たは観たが快く観なかったということで
最初から批判的にとらえていたように思う。先入観というヤツ。
だが不思議なことであると思う。
黒沢清の撮ったトウキョウソナタに伊丹十三の片鱗、幻影を感じたのである。
それまでは若い人が黒沢清を持ち上げるほどには感じるものはなくスルーしてきた。
裁判は結果はたしか最高裁で伊丹側の勝訴ではなかったろうか、喪失感が大きすぎて
詳細などどうでもよかったことを覚えている。
もうこの世にいない、次の作品に出会えない、声が聞けないということ。
広い世の中、同じ嘆きがたくさん聞こえていた。
死んだ子どもの代わりに表れる、置いていかれる、あるいは生まれてくる子どもを
取り替え子と言うが、師から弟子へ、兄から弟へ、引き継がれて取り替え子が
現れる。現れた子をこれはあの人の取り替え子じゃないか?と期待する思い。
その気持ちは切ない。
大江健三郎の「言いがたき嘆きもて」をなんとなく本棚の隅から手にとりページを
めくり、やはり「取り替え子」の章を選んだ。
ここにある取り替え子は大江健三郎の同名の作品とは別なものだが、大江氏の
心の深いところにある切なさが短い文章に綴られているのだ。
切なさが限りないと、それがそのひとなりの勇気にもなり、他者へと届き
力となって表れる。
取り替え子とは、不思議な物語だ。
生まれ変わりというのとは違って、人の思いを受け継いだものが別な形をもって
美が醜くなったりもしながら、けれど深部にある美を抱えて現れる。
美がそこに現れたと感じ取れる人のために、現れるのである。
感じ取れる人とは、深い嘆きを知っている人である。
そういう人にだけ見えるものがある。
誰にでもわかるようにかかれても、誰にでもわかるとは限らない。
他者の心を我がものとして感じ取れる才能が物語を見透し、引き寄せる。
おもいやり、この言葉があるが、これがなぜこんなにも軽々しくなってしまったのか。
章の最後の数行に大江氏への単純な愚問に対しての作家の返答がある。
幾度読んでもそれが胸を深く突き刺すので、またこれを書いた。
忘れないように。