想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

薔薇の実その2

2010-12-19 15:27:12 | Weblog
小さな植木鉢に薔薇、赤い実がとてもかわいい。
「お誕生日の贈り物があるよ、薔薇のボンサイだよ」
と遠く新潟から電話があって、帰京するのを楽しみに
していた。お誕生日にいないから先にあげるよと。
友人のI君は高崎、新潟と取材で出向いてどこかで
この植木鉢をみつけたらしい。ボンサイと言ってたけど
これは薔薇苗を鉢植えにして市場で売ってるアレでは
なかろうか。

I君はアメリカ人だからボンサイはアメージング!と思う
らしい。盆栽と鉢植えの区別は育てる人の意図であると
思うので、今後はうさこの責任であるな。盆栽には
しないと思うね、たぶん…、植え替えちゃうね、たぶん。

彼はこういう話をしてくれた。
「お寺ですけど、大丈夫ですか。お参りするところを
撮りたいんですが、だいじょうぶ? クリスチャンでしょ、
お参り、だいじょうぶ? 拝めますか?」
そう繰り返し彼に尋ねたのは日本人のディレクターで
対して「だいじょうぶ、神さまはひとつです、神さまは
ココ(胸をさして)にあります、拝めますよ」と言った
そうだ。



ふだんからよく宗教の話をする。宗教の話、つまり神さま
の話である。わたしは古神道を始めとして旧事にある神仏儒
を学んでいるけど、キリスト教の彼と対立などしない。
ふたりとも、自分が神さまでないことは確かで、ふたりとも
ヒトなのだから人同士として神さまの話をする。
つまり信仰とは何か、ということはよく話し合う。

お寺であろうが神社であろうが、礼をもって敬い参拝する
ことは難しいことではない、彼は同行のディレクター氏に
そう言いたかったらしい。
日本語で上手に会話をするが、根本的な心の話となると
伝えるのは日本人同士でもむずかしい、外国語ならなおさらだ。

白洲正子のエッセイに、イギリス人から「あなたにとって
神さまとは何ですか」と尋ねられ、我が胸を指差し「ココよ」
と答えたという話がある。それで互いにうなづきあったと
いうのだ。アレ、ココ、というような言葉で。
簡略な話にしてしまったが、言葉で言い尽くせぬことも
互いの了解があれば言葉を越えて理解しあうことができる
のではないかと思う。
逆に「了解」の意思疎通は心でしかできないといえるのでは
なかろうか。

I君のテレビ取材の旅は寺巡りだったのに、信仰の姿など
どこにも映し出さない観光案内だったと残念がった。
「外人はそんなの喜ばないのにわかってないね、日本のTV
ディレクターは何見てもワオーとか大げさに驚くのを求める
けど、ボクは歴史もわからないものを驚けない。
考えもしないで何がわかるの? 外人をバカにしてない?」

いやバカにはしてないよ、彼がおばかさんなんだよ、そう
答えると、それはわかってるんだけどさ、疲れたんだよ。
疲れる仕事もあるもんさ、お疲れお疲れと言って肩を抱いた。
彼は家族のいるアメリカへクリスマスのために帰国する。
そして主イエスのために祈り感謝する夜を過ごすことを
とても大事に思っているのだ。

大晦日除夜の鐘、百八つの鐘の音を聞いて穢れを祓い、
正月元旦は歳神さまを感謝の気持ちでお迎えして新年を祝う、
この日本人のやり方を彼が東京へ戻ってきたら教えようと思う。
ああ、おんなじなんだねと納得して安堵するだろうから。

神とともに生きる、そう考え思う人は弱いからと思われるかも
しれない。
そう、人は弱いのだ、そのことに気づいた人は他にやさしい。
そのやさしさは、親切やみせかけのやさしさとは違う。
ときに形を変え猛ることもある。
まごころというとてもいい日本語があるが、真のやさしさは
それではないかと思う。











コメント
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