愛らしい子役スターがひよこの着ぐるみを着て歌いながら
やってくる、あのチキンラーメンのCMソングがぐるぐると
頭のなかで回りつづけ鳴り続けている。
この歌は麻薬的である。
耳について離れないのになかなか覚えられなくて、なおさら
気になってとうとう歌詞がわかった、うれしい。
チッキンラーメン、コッチ来て、買ってってよーってってってーよ。
ですよね、たしか‥自信ないけど、たぶんこうだろう。
それからは自分で声に出して歌っている。
歌うとよろこぶお方がそばにいるので、なおさらうちでは
ブームである。シッポパンパンしてヘラヘラしてつきあって
くれるのである。いい相棒だわ。
(桜のはなびら散る庭で、クンクンしてますが‥桜をではない‥)
チキンラーメンは好きかと聞かれたら、ウンと答える。
答えるけれど、訊ねられてチキンラーメンを思い浮かべはするが
頭にこびりついているわけじゃなくて、引き出しのわりに奥まった
場所にある。それがわたしのチキンラーメン順位である。
この歌を聞いてもラーメン食べようかな、とは思わない程度の好き
度合いである。
好きと一口に言ってもその幅と奥行きがある。
好きの世界は間口が広いのではないか、そんなことを思いつつ
チッキンラーメンこっちきーて、と歌い続けるのであるが、
うちでは、ウルサイよ、ウザコと言う者がいないので止まらない。
そこで思いついたので忘れんうちに書いておこう。
人は嫌いなものはくっきりはっきりとしていて、それは頭の中で
確固たる場所を占めて、「嫌」の字ワッペンなんか貼って堂々と
ガンダム立ちしているのではないか。
好き?と聞かれて、う~ん、どっちでもないけど嫌いじゃないし~
なんて答えたりするあいまいさは「嫌い」にはない。
口に出すかどうかではなく、出さないで意識的に隠すことも含んで
「嫌い」は人の感情の中ではわかりやすく突出したものになのでは
なかろうか。なぜ嫌いかの裏付けもちゃんとあったりして。
なんとなくな「嫌い」なんてものはなく、かくかくしかじかで嫌い
というのが必ずあって、それが筋がとおるかどうかなんてことは
どうでもよく嫌いは嫌い、本能的直情の類い。
悲しいかな、この逆であればいいのにね、と思ったのである。
好きがくっきりと解ったほうが人はしあわせな気がします。
嫌いなものをあげつらい、並べ立て、それが胸のうちでハバを
効かせている状態ってどうよ?カナシイではないか。
嫌いは言い換えると許せないモノってことでもある。
寛容になれない相手である、モノでも人でもその存在が。
元来人は自分勝手ないきものだから、ひとたび選別したものを
なかなか自分で疑ってかからない。
でもですよ、疑ってみてもいいかもしれないことってありますよね。
2011.3.11以降は疑いの渦ですからね、もうひっくりかえりでんぐり
かえりですからね。
いいと思い込んでいたことも、嫌っていたことも、もう一度
なんでなの?あんた、なんで好いとると? なんで好かんの?
と自分に聞いてみたほうがいいかもしれないと思うのですね。
平行線の言い合いをしている国会事故調の映像など見ていると
バカらしくもありながら、人間の性を見るようで、実にカナシイ。
いるんですよねーバカがいっぱい。それも永田町や霞ヶ関に大勢。
自分を疑わない人々が自分以外の人が働いて納めた税金でご飯を
食べたり車乗ったり家を買ったり子どもガッコへ行かせたり‥して
エンジョイし続けたいばかりに、原発で廃炉でも再稼働でも儲けよ
と思ってる人たちが動かしてるんですね、この国は。
国そのものを疑っていい時かと思います。
もちろん好きになりたいために、です。
日本はいい国だと思うために、です。
今を嫌うことは、もう疑わずとも簡単にできることですし。
古伝には仁を説いて「好き、嫌い」の小さき私を無くせとありますが。
そのためにも己のうちの好き、つまり愛しいものをくっきりと
させてみたいと思うのでありますね、なにが大事か大切かと
自分を疑ってみると、あれれれとなるかもしれません。
‥チッキンラーメン、コッチキ~テ~カッテッテヨ~
やってくる、あのチキンラーメンのCMソングがぐるぐると
頭のなかで回りつづけ鳴り続けている。
この歌は麻薬的である。
耳について離れないのになかなか覚えられなくて、なおさら
気になってとうとう歌詞がわかった、うれしい。
チッキンラーメン、コッチ来て、買ってってよーってってってーよ。
ですよね、たしか‥自信ないけど、たぶんこうだろう。
それからは自分で声に出して歌っている。
歌うとよろこぶお方がそばにいるので、なおさらうちでは
ブームである。シッポパンパンしてヘラヘラしてつきあって
くれるのである。いい相棒だわ。
(桜のはなびら散る庭で、クンクンしてますが‥桜をではない‥)
チキンラーメンは好きかと聞かれたら、ウンと答える。
答えるけれど、訊ねられてチキンラーメンを思い浮かべはするが
頭にこびりついているわけじゃなくて、引き出しのわりに奥まった
場所にある。それがわたしのチキンラーメン順位である。
この歌を聞いてもラーメン食べようかな、とは思わない程度の好き
度合いである。
好きと一口に言ってもその幅と奥行きがある。
好きの世界は間口が広いのではないか、そんなことを思いつつ
チッキンラーメンこっちきーて、と歌い続けるのであるが、
うちでは、ウルサイよ、ウザコと言う者がいないので止まらない。
そこで思いついたので忘れんうちに書いておこう。
人は嫌いなものはくっきりはっきりとしていて、それは頭の中で
確固たる場所を占めて、「嫌」の字ワッペンなんか貼って堂々と
ガンダム立ちしているのではないか。
好き?と聞かれて、う~ん、どっちでもないけど嫌いじゃないし~
なんて答えたりするあいまいさは「嫌い」にはない。
口に出すかどうかではなく、出さないで意識的に隠すことも含んで
「嫌い」は人の感情の中ではわかりやすく突出したものになのでは
なかろうか。なぜ嫌いかの裏付けもちゃんとあったりして。
なんとなくな「嫌い」なんてものはなく、かくかくしかじかで嫌い
というのが必ずあって、それが筋がとおるかどうかなんてことは
どうでもよく嫌いは嫌い、本能的直情の類い。
悲しいかな、この逆であればいいのにね、と思ったのである。
好きがくっきりと解ったほうが人はしあわせな気がします。
嫌いなものをあげつらい、並べ立て、それが胸のうちでハバを
効かせている状態ってどうよ?カナシイではないか。
嫌いは言い換えると許せないモノってことでもある。
寛容になれない相手である、モノでも人でもその存在が。
元来人は自分勝手ないきものだから、ひとたび選別したものを
なかなか自分で疑ってかからない。
でもですよ、疑ってみてもいいかもしれないことってありますよね。
2011.3.11以降は疑いの渦ですからね、もうひっくりかえりでんぐり
かえりですからね。
いいと思い込んでいたことも、嫌っていたことも、もう一度
なんでなの?あんた、なんで好いとると? なんで好かんの?
と自分に聞いてみたほうがいいかもしれないと思うのですね。
平行線の言い合いをしている国会事故調の映像など見ていると
バカらしくもありながら、人間の性を見るようで、実にカナシイ。
いるんですよねーバカがいっぱい。それも永田町や霞ヶ関に大勢。
自分を疑わない人々が自分以外の人が働いて納めた税金でご飯を
食べたり車乗ったり家を買ったり子どもガッコへ行かせたり‥して
エンジョイし続けたいばかりに、原発で廃炉でも再稼働でも儲けよ
と思ってる人たちが動かしてるんですね、この国は。
国そのものを疑っていい時かと思います。
もちろん好きになりたいために、です。
日本はいい国だと思うために、です。
今を嫌うことは、もう疑わずとも簡単にできることですし。
古伝には仁を説いて「好き、嫌い」の小さき私を無くせとありますが。
そのためにも己のうちの好き、つまり愛しいものをくっきりと
させてみたいと思うのでありますね、なにが大事か大切かと
自分を疑ってみると、あれれれとなるかもしれません。
‥チッキンラーメン、コッチキ~テ~カッテッテヨ~