先日すでに駆け足でまとめてしまったので蒸し返しになりますが、どうでしょう『嵐がくれたもの』最終話(10月30日放送)は。
子供たちを道連れにしての無理心中を企てた菅原(鈴木省吾さん)を、節子(岩崎ひろみさん)が説得して改心させるまでは百万歩、億兆歩譲って前段からのつながりがつくとしても、ロングショット無人の風景での爆発(落雷?ともとれる)音、爆発があったにしてはお行儀よく地面にふたつ並んだブローチ、1ヶ月後にいきなり飛んだかと思うと節子が手刺繍したという虹の絵柄のハンカチ、なぜか宇田川家になじんで亜弓(山口愛さん)と姉妹になり戯れている順子(三浦透子さん)、百合子と亜弓の会話では完全に死んだことになっている節子が、髪型も身なりも事件前と同じような姿で怪我ひとつなくいきなり浜辺に現われて順子と抱擁、虹に向かってダッシュ…など、提示された場面やモチーフをひとつひとつ「どういうことなんだ?」と脳内検証していても始まらないようです。
ここまで来ると、脚本の不備や拙劣さ、複数ライター間の打ち合わせ不足などという次元の問題ではないと思う。製作主体の“そもそも、どんなドラマを作って放送したいのか”というイメージコンセプトの“ぶれ”と申し上げたい。
もっと厳しく“土台不全”と言っても言い過ぎではない。最終話、残り放送時間10分を切った辺りで人物が豹変したり改心したりして、1~2話前までの状況局面が180°転換、「ここまで10何週もイライラさせた問題はいったい何だったんだ、時間返せ金返せ」となる作品は東海テレビ制作のこの枠、ご愛嬌の域を越えてかなりあり、そうした“最終話での脱力爆苦笑”のカタルシスもまた一興ではあるのです。
しかし今作ばかりは、途中から放り投げたのではなく出発点からノープランだったと思しい。
愛憎もつれ合い増幅し合って人物の情動がピークに達し、波頭が崩れる瞬間に刃傷沙汰や銃撃、無理心中や誘拐立てこもり、監禁縛り上げといった“荒事(あらごと)”に立ち至ることも頻々なこの枠、菅原の土壇場での真意のよくわからんケツまくり誘拐脅迫(なのか?)と節子の、一応丁々発止な争い自体は想定の範囲内ですが、誇るべき伝統芸たる“情動マグマのぶっぱじけ”に徹する潔さがなく、徹せず緩くした隙間に無理やり“親子きょうだいのしみじみ、ほのぼの、ふんわか微笑ましさ”という“和事(わごと)”を押し込んで、そのまままとめようとしたからなんとも、握り寿司を頬張ったら中にわさびならぬうぐいす餡が入ってるが如き変テコリンな仕上がりになってしまったのです。
最終話本編終了後のCM明け提供ベースで主要登場人物がフレームに揃い「見てくださってありがとうございました!」とユニゾン、カメラ目線で手を振り愛想を振りまいて終わるのが似合いのドラマでは、少なくとも伊勢湾台風明けの第一部まではまったくなかった。
以前からそういう傾向は無きにしも非ずでしたが、月河贔屓のこの枠、ここ1年ほどの間に放送された作品、もっと穿って言えば同じ時間帯の真裏のTBS系が昼帯ドラマ制作から撤退した今春以降の作品はどうも“笑顔で終わる”ということにこだわり過ぎて、最終的に出来をそこなっているような気がして仕方がない。
妬みそねみにコンプレックス、寝取った寝取られた、親代々の恨みつらみなど、ドロドロぐちゃぐちゃ歪んだ負の感情のぶつかり合いを描くのが得意ならとことん貫いたほうが、はるかに気持ちのいいドラマができるのに。ドロドロもとことん貫き通せば、必ずすこーんと胸のすく、風通しのいい地平が望めるはずなのです。
考え過ぎかもしれませんが、TBS系2枠(13:00~“愛の劇場”・13:30~“ドラマ30”)についていた客を惹き寄せようとしての、浅薄付け焼刃な“ほのぼのしみじみ笑顔志向”ということはないでしょうか。
2ヶ月3ヶ月追尾を要する、視聴に根性体力の要る帯でもあり、最後はハッピーエンドで終わってほしいと願う視聴者が多いのは、個別の作品の公式BBSなど見ていても明らかですが、時にはためにためたすさまじい感情の昂ぶりが衝突しそれこそ大爆発して、残骸生傷をさらけ出したままの焦土にエンディングクレジットが流れ、しかし焼け跡の上に不思議にさわやかな風が吹き新芽が萌え出すかのような、そういう最終回のドラマが少し前にはこの枠にありました。
05年『危険な関係』『緋の十字架』、02年『新・愛の嵐』などは、悲しく重く胸痛むけれども、悲しみの彼方の救済と安らぎを仰ぎ見て何日もの間余韻に浸れるような、物語中盤の恒例の中だるみや人物描写のぼやけ、あるいは幾許のキャスティングミス、少なからぬ演出の不首尾等を取り返してお釣りの来る味わいある結末でした。「悲しすぎる」「なぜ死なせたの」「幸せになる主人公カップルが見たかったのに」との声も多数でしたが、とってつけたように“全員笑顔でバイバイ”にしなかったから、放送終了後何年も経過しても思い出深いドラマになったとはっきり言い切れます。
『嵐がくれたもの』も、いたずらに悲しいお涙お別れデスエンドにしてほしかったとは言いません。母性愛がテーマと謳うなら、徹頭徹尾母性愛で盛り上がり母性愛でもつれ、母性愛でぶつかり砕け散るドラマにすべきだった。
たとえば“被災孤児の順子を実子同様に育てた節子だったが、宇田川家令嬢亜弓が自分のお腹をいためた子と知って、何も知らず甘える順子を疎ましく邪魔に思え自らのエゴに悩む”なんてダークな心理をもっと掘り下げてもよかった。
“あんなに必死に探したのに再会できなかった実娘が、見ず知らずのリッチな美人若奥様をお母さまと呼んでなついているのを見ると、どうしようもなく燃え上がる嫉妬と、娘を奪い返したい欲望”“手の届かない良家令嬢になっているけれど、最愛の亡き夫とも、実母の自分とも、あんなところあんな性癖が似ている”“それにひきかえ実子でない順子は、いくらなついてくれても気がつけば自分にひとつも似ていない”“…でもこんなことを思う自分は鬼畜か夜叉か、あぁいけないわ”等、節子の状況や立場や性格を考えれば、もっともっと情動の綾なす物語に織りあげることはできたのに。
母の葛藤を垣間見、亜弓との交流から真相を探り当てた順子が「お母さんは実の子の亜弓ちゃんのほうがやはり可愛いのね、私はいなくなってあげるから亜弓ちゃんと幸せになって」と無茶な行動に出てもよかったでしょう。
「血のつながりがない分も埋め合わせようとして愛して来た亜弓だけれど、実の母の節子さんの愛には、所詮目の見えない、女として母として欠陥品の私では負けるのかしら」と悩み精神のバランスを崩しかける百合子、「私のお母様はお母様一人だけよ、お母様を苦しめる節子さんなんかいなくなってしまえばいい」とこれまた無茶する亜弓、そんな中「なぜ警察表彰をすっぽかして行方をくらましたんだ」と名古屋の丹波署長が節子を訪ね当て、「警察がなぜ今頃?」と疑心暗鬼になった宗助が新たな工作を考え出すなど、母性愛という最も気高い人の心の有り様が、ぶつかり合い摩擦し合って負に転じ、闇を生み出す物語は如何ようにも拡げ、深められたはず。
いまさら個々の筋立ての浅さ薄さ、不整合を言っても始まらない。要は「どんなドラマを作りたいのか」、サビのきいた握り寿司にしたいのかうぐいす饅頭にしたいのか、はたまた抹茶入りカスタードシュークリームにしたいのか、そこだけはゆめゆめぐらつかせないでほしいということです。握り寿司が百円台のバイキング寿司なのか天然特上トロ時価のそれなのかは小さな問題。この枠はドラマの枠として存続しているのだから、ドラマを作って見せてほしい。笑顔に満ち笑顔で締めくくるドラマはそれはそれで魅力的だけれど、笑顔でまとめたことそれ単体を、客は喜ぶわけではないのです。
この時間帯にドラマが作られ放送されていることに意味はあるのか、あるとしたらどんな意味なのか、ないとしたらいつから、何が理由でなくなってしまったのか、そんなことまで考えさせる、取りようによっては伊勢湾台風以上に問題提起性の高い最終話となりました。