★ 8月15日は終戦記念日である。
74年前、 私は朝鮮京城(今のソウル)にいて中学1年生、城東中学校の校庭で直立不動の姿勢で、天皇陛下の玉音放送を聞いたのである。
よく聞こえなくて、何を言われているのか解らなかったが、
何となく『戦争が終わった』と言うことだけは解ったような気がしたのを覚えている。
当時の朝鮮は日本だったし、戦時中も空襲も食糧難も一切なくて普通の豊かな生活を送っていたが、内地(日本のことをそう呼んでいた)は空襲で大変だったことはよく解っていたのである。
その玉音放送の詔の内容を実は初めて見るのである。
確かによく聞こえなかったのだが、若し聞こえていてもなかなか理解するにはムツカシイ文章である。
朕(チン)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(カンガ)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ココ)ニ忠良ナル爾(ナンジ)臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑々(ソモソモ)帝国臣民ノ康寧(コウネイ)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(トモ)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(ケンケン)措カサル所曩(サキ)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ユエン)モ亦(マタ)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固(モト)ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已(スデ)ニ四歳(シサイ)ヲ閲(ケミ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(オノオノ)最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(シカノミナラズ)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(シキリ)ニ無辜(ムコ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真(シン)ニ測ルヘカラサルニ至ル而(シカ)モ尚交戦ヲ継続セムカ終(ツイ)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ヒイ)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(カク)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(セキシ)ヲ保(ホ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ悲命ニ斃(タオ)レタル者及其ノ遺族ニ想(オモイ)ヲ致セハ五内(ゴナイ)為ニ裂ク且(カツ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(コウム)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(シンネン)スル所ナリ惟(オモ)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(シンイ)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情(ジョウ)ノ激スル所濫(ミダリ)ニ事端(ジタン)ヲ滋(シゲ)クシ或ハ同胞排擠(ハイサイ)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道(ダイドウ)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確(カタ)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(カタ)クシ誓(チカッ)テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
現代語訳は次の通りだという。
私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらによる共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。
しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。
私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。
まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。
天皇陛下の玉音放送の内容を、終戦後74年目にして初めて知るのも、不思議なことだが、昭和20年8月15日からの数年間は私の人生にとっても激変の時代だったのである。
世の中がどんなに変わったのか?
体験したことを簡単に並べてみる。
● 玉音放送を聞いてすぐ、家に帰ろうとしたのだが、京城の市電は歓喜した朝鮮の人たちに占拠され、日本人は乗れなくて、家まで歩いて帰ったのである。
● 日本に引き揚げたのは12月10日なのだが、それまでは特に何もなく平穏無事だった。
家は米軍将校が買ってくれたのだが、現金は1000円以上は持ち帰られなかったので、どうしようもなかったのである。
我が家は売ったりしたが、他の方たちはどうされたのだろう?
● たった1000円か?と思われるかも知れぬが、当時の一般の方の給料が月80円ぐらいだったから、そんなに無茶苦茶な金額でもないのだが、引き揚げて見ると朝鮮では1斗100円だったお米が1升100円と闇米は10倍もしたのである。
● 12月10日はソウルから釜山までは貨物列車で、釜山から博多までは日本の船でそこから明石に引き揚げたのである。 北朝鮮でなくてよかったと言えるだろう。
● 明石の上ノ丸の本家は爆撃で消滅していて、伯父一家は伊川谷に疎開していてそこに一緒に住むことになったのだが、明石に着いた時のことは全く覚えていないのは不思議である。
● 戦後の日本の食糧難は半端なものではなかった。 コメなどは殆ど口に出来ず、上ノ丸の焼け跡に芋やトウモロコシを植えていたりした。
● 私は翌昭和21年4月から神戸一中に入学したのだが、伯父が上ノ丸に家を建てるまでの半年間は伊川谷から明石駅まで歩き、灘から通称『地獄坂』という急坂を登って通っていた。 今思えばよく通えたものである。
2時間以上は掛かっていたと思う。
● 旧制中学だったが翌22年度から新制中学が出来て後輩は入ってこなくて、ずっと最下級生だった。 3年生からは県一女との男女共学となった。
● 中学2年生の頃に、天皇陛下の神戸行幸があったのだが、お泊りになるホテルがなくて神戸一中の校舎の教室を改造して泊まられたのである。 私のクラスは『天覧授業』を受けたりした。
●中学3年生の頃に、小さな家を建てたのだが、その資金は母が隠して持ち帰ったダイヤの指輪を売った金だったという。 高校時代はその家から通学していた。
● 高校入学の時に学区制が始まり、明石高校に転校した。
中学から野球部に籍を置いたが、当時の神戸一中は春の選抜大会に明石と共に選ばれたりした野球でも名門校だった。
高校2年生の昭和25年の夏、明石高は県大会で優勝し甲子園出場を果たした。
● 阪神の吉田義男さんが、昭和25年、京都の山城高校から甲子園に出場していた。
金田正一投手や阪神の吉田監督がが同期、野村監督・長嶋が2年下という年代なのである。
★そんな私の戦後なのだが、『戦後というのは昭和25年ぐらいまで』かなと思う。
当時は地方に遠征などに行くと、お土産にお米を貰ったりしたし、夏の合宿では『米が食える』と喜んでいた。
そんな時代に生きたので、小学生の時も、中学生の時も『修学旅行』などはなかったし、明石高校の時に初めて修学旅行があったのだが、その期間は野球部で山陰地方の遠征があったりして、私は『修学旅行』は未経験なのである。
子どもの頃の生活とはまさに一変した終戦後の生活ではあったが、
父母は大変だったとは思うのだが、
私自身は『全く新しい経験』を結構楽しんで生きていたなと思っている。
そんなことで『新しい事柄・新しい環境』に出会っても、自然に対応できるようになったのかなと思っている。
終戦の日、74年も前になった。
よく生きたものである。