★ 明石商業が春夏連続ベスト4の快挙である。
神戸新聞は、ネットの速報でこのように伝えた。
第101回全国高校野球選手権大会第12日は18日、兵庫県西宮市の甲子園球場で準々決勝が行われ、兵庫代表の明石商は八戸学院光星(青森)に7-6で競り勝ち、今春の選抜大会に続く4強入りを決めた。
兵庫勢の準決勝進出は2010年の報徳以来、9年ぶり。
公立校では優勝した1952年の県芦屋以来、67年ぶり。
明石商は6-6の八回、先頭溝尾の中前打を足場に四球とバントなどで2死三塁とし、相手投手の暴投で来田が決勝の本塁に生還した。
投げては杉戸、溝尾、中森の継投でしのいだ。
19日の休養日を挟み、明石商は大会第12日の20日、初の決勝進出を懸けて準決勝に臨む。
テレビでの観戦だったが、何か『勝ち方を知っている』というか、
『チームとしての試合運びが確立』している感じで、
ピンチになっても、チャンスになっても、選手たちのプレーぶりは、自信に溢れているし、ツキも呼んでいるような気がする。
サードとショートのエラーがピンチを招いたが、その後は落ち着いてあとを締めている。
★準決勝進出は、
兵庫県の公立高校では『優勝した芦屋高校』1952年以来、67年振りとある。
1951年ではなかったのかな?
と思ったのだが、芦屋は1951年、1952年と連続優勝なのである。
戦後昭和21年からの夏の大会優勝校を調べてみた。
この時期昭和22年から昭和26年の5年間は、
私自身の中学・高校での野球部生活の時期なのである。
昭和21年は軟投有本投手や珍しい左のキャッチャー橋本を擁して芦屋が甲子園初出場を果たしている。
昭和22年は神戸一中が優勝、当時は私は神戸一中野球部だった。
未だ補欠ベンチにも入れずスタンドからの応援だった。
昭和23年・24年と芦屋が連続優勝をしているが、
昭和24年は私は明石高校に転校していて、この年の明石は誰もが認める優勝候補の筆頭だったのだが、まさかと思った芦屋に敗れてしまったのである。
(私は未だ1年生だったが、この時の明石は、ホントに強かった。
慶応のエースで朝日スポーツ賞受賞、その後鐘化へ進んだ山本投手、日生に進み4番を打ち、全日本の不動の4番だった大津、関大で1年から不動の一番を打った西村、関学lから日生に進み、大津が阪神に入ってからは、日生の4番を打った国賀、関大に進み、その後関大や実業団の監督を務めた高木など、ホントに多士済々で、このころの日生は実業団日本一だった。
当時は正月に甲子園球場で兵庫県の高校のOB戦があったのだが、こんなメンバーが揃っていて、何年も優勝を重ねたのである。
そのままのメンバーで実業団の全日本に出ても、多分優勝できたような豪華メンバーだったのである。)
昭和25年は明石高校が同期の溝畑投手(卒業後神戸製鋼のエースを10年)がいて、甲子園出場を果たしている。
昭和26年は明石は準決勝で育英に敗れてしまったが、好投手溝畑圭一郎がいただけに連続出場を目指していたのだが、練習試合で勝っていた育英に敗退だったのである。
この年から芦屋は好投手植村(2年生)や本屋敷(1年生)を擁して強くなった。
翌年も連続優勝して、全国制覇を果たしているのである。
『野球はやはりピッチャーかな』と思っている。
★私と同期の溝畑圭一郎は明石高校の商業科で、明石商業はその商業科が3年後だったか、分離独立した学校なのである。
もう旧い話で、当時の野球部の球友たちもみんな逝ってしまって、元気にしてるのは『私と溝』ぐらいなのである。
お互い78歳の頃にこんなブログをアップしている。
78歳にして、未だこんな具合にちゃんと野球をしていて、4割を打っていたというので、新聞に載ったりした。
まさに野球のために産まれてきたような男で、県の予選では灘高校相手に完全試合もしているのだが、当時チームメートたち『完全試合』が何たるかが解っていなかったのである。 そんな時代の野球だった。
明石商業のお蔭で、このところ『野球のこと』を想いだして、ちょっと書いている。
準決勝は大阪履正社、よく打つし、強そうだが
明石商業の投手陣、頑張れ!
ひょっとしたら、ひょっとする。
『野球はピッチャー次第』なのである。