雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

 カワサキの変遷 西明石地区の変遷

2019-08-01 06:15:04 | 発想$感想

★カワサキの二輪事業は川崎重工業の明石工場がそのベースである。
 
 明石の西、所謂『西明石』にあるのだが、

 私が入社したころ(昭和32年)の川﨑航空機工業はこんな感じだったのである。

 昭和31年のこんな珍しい航空写真を、Facebook でたまたま繋がっている
 宇野健一さん がほかの写真と共に、わざわざ送って下さったのである。

 これは貴重な写真だと思う。
 多分、こんな写真は会社にもないのではと思うし、
 私自身こんな時代の写真を見るのは初めてことなのである。

  

 
 
 昭和31年ごろとあるから私が入社した当時の写真である。

 財産課に配属されたので、入社早々課長に連れられて会社の土地を見に回ったことがあるのだが、西の方(この写真では上の方)は実際のところ行ってみてもよく解らなかったぐらい広かったのである。
40万坪以上あったと言われていたから、現在の3倍ぐらいの広さだったのである。
 
 戦時中の工場は全て爆撃で完全に破壊されていて、通称3研と呼ばれていた総合事務所(写真の下から二つ目)とずっと上にあるエンジンの運転場が戦前の建物としては、残ったくらいなのである。


ほかの建物は、昭和27年の会社再開以降に新しく建てられたものである。
一番下が 歯車工場(四角い建物)で、総合事務所の向う側が、当時東洋で唯一の米軍のジェットエンジンのオーバーホール工場、その向こうの屋根にマークの入っている建物はヘリコプターの格納庫である。

 当時は、会社の経営自体が非常に厳しくて、爆撃でやられた工場の鉄骨や、戦前の旧い機械を売ってたり、それではとても足りなくて、40万坪の土地を売り食いして、繋いでいたのである。

その後昭和35年に、新しく単車事業をスタートさせたのだが、
この時点では未だその計画すらなかった時代なのである。


 これがほぼ現在の写真だと思うので、60年も経つと世の中は変わるものである。
  

  

★まずは、カワサキの当時の明石工場の話から入ったのだが、
宇野健一さんが言ってこられた本筋は、
 当時の西明石のまちや、西明石駅の話なのである。

今は西明石駅は新幹線も止まる立派な駅なのだが、私が入社したころの昭和32年当時は未だ明石駅から西明石駅は分線になっていた支線の終点で、姫路に行くには一度明石に戻って、もう一度山陽本線に乗り換えないと行けなかったのである。

西明石駅の歴史を調べてみたら
 
● 1930年(昭和5年)「明石操車場」として開設、1944年(昭和19年) 4月1日 「西明石駅」となるのだが、当時は川崎航空機社員専用として駅舎があったのみ 
 
 戦後1946年(昭和21年)4月に一般旅客用の駅として開業 

● 1961年(昭和36年)6月 - 橋上駅舎の使用を開始 

 1972年(昭和47年)3月 - 山陽新幹線の新幹線の駅として西明石駅が開業



★ 以上のように、西明石駅は、当初は川崎航空機の社員専用駅としてスタートし、戦後は一般にも公開されるのだが、

宇野健一さんは当時から、西明石に住んでおられて、この西明石の町や西明石駅の変遷を近くでご覧になってこられて、いろんな想い出もお持ちなのである。

 私はそんなに詳しくは覚えていないのだが、入社当時は明石から西明石まで電車で通っていたし、この一番下の写真の橋は、確か今も残っている陸橋で、この橋を渡り切ったところに明石工場の西門の入口があったのである。

多分昭和36年頃だと思うが、私もこの橋を渡って通勤した記憶もあるような気がするのである。




 
 
 写真に添えて、宇野健一さんは、こんな文章を添えて頂いている。  

 
私は今から65年前の1954年、三木町から引っ越してきました。 
まだ西明石は田舎で、駅の南側が中心で望海中学をはさんで川崎航空機と国鉄官舎がおおきなところ、我々の西明石町は当時、花園町で住所は和坂(かにがさか)と言われていました。 中学生でしたが神戸の生田中学に入学、省線電車で通学していました。高校は明石高校に入り、自転車通学に変わりました。 
そのころの西明石駅はまだ、川崎のために出来た引っ込み線で、西明石が終点、山陽本線の電化以降、そして新幹線の駅ができるとなって大きく様変わりがしました。
 神戸大学に入ってからは教養課程が姫路分校であり、明石駅まで普通電車に乗って、姫路方面の汽車に乗り換えるという時代が続きました。
懐かしい思い出です。 
そのころは、川崎は航空機でジェットエンジンのテストとかなんといって、一日中モノすごい騒音で悩まされました。

 確かに、ここに書かれている通りで、当時のジェットエンジンの運転はすさまじかったのである。 
それが許されていた昔の出来事なのである。

 文中にある和坂は、確かにその通りで、『かにがさか』と呼んでいた。
今の明石工場の正規の住所は 明石市川崎町1-1 なのだが、昔は『和坂1-1』だったような気がする。
 
 その読み方も今はその字の通り『わさか』と言われているらしいが、昔の明石の人も私自身も 和坂を『かにがさか』 と読んでいたのである。

 
Googleで調べたら、こんな風に出てくるのである。
  


 宇野さん、いろいろとありがとうございました。
 
こんな貴重な写真は、間違いなく川崎重工業の現役諸君も、初めてだと思います。西明石駅が川崎航空機の社員の専用駅だったことなども、
それが明石駅からの分線だったことなども、ご存知なかったのでは。







コメント (2)
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