高麗家住宅
高麗(こま)家住宅は代々「高麗神社」の宮司を務めてきた高麗氏の旧宅で、家伝によると1596年に建設された。
1971年、国から重要文化財に指定され、解体調査再建事業が行われ、現在の姿は創建当初の姿に復元されたものである。
今では高麗神社の方が殷賑を極めているが、それまでは、隣の聖天院の方が格が上だったらしい。
石高も僅か5石(神社の説明では2石)しか徳川幕府から認められなかった。
住宅は当初は庫裏、後は手習い塾、明治以降は集会所や獅子舞の練習所など社務所として使われたが、昭和の境内整備により、空家となっていた。
高麗家住宅の上屋は茅葺入母屋造り平入り。
内部は古四間取り(不規則に4室が仕切られる構造)。
大黒柱が無く、細い柱で梁を支えている。
材料は桁柱が杉、梁は欅または松。
桁や梁は鉈仕上げ、柱は槍鉋仕上げとなっている。
数年前は、畳敷きは奥座敷だけだったが、今日見ると、全室畳、それも縁付畳敷きになっているのは、現宮司家の畳替えで古い畳を活用しているのか。
全体に地味でくすんだ印象で、例えば小川町の重要文化財「吉田家住宅」の豪壮さや、長瀞町の重要文化財「新井家住宅」の華やかさは無い。
時代が古い上に、創建当時の神社の経済力の所為だろう。
高麗氏は高麗神社の祭神、高句麗からの渡来民の首領、高麗王若光の子孫で、現宮司は若光から数えて60代目となる。
途中、23代から56代までは修験道を修め、不動明王を祀る寺院になり、いわゆる「拝みや」をやっていたが、明治の神仏分離令により創建時の神社に戻った。
北西から
奥座敷と表座敷
へっつい
枝垂れ桜の陰に
「高麗郷文化フェスティバル」の平日に行ったので、展示品しか見られず、境内は閑散。売店がいくつかあったが開店休業状態。
社会福祉施設「かわせみ」がクッキーや素朴な手工芸品を販売中。
安いものだから、沢山買って、励ましましょう。
神社の展示品は大したものは無いが、いかにも近隣の人々の協力開催している趣があり、こういう努力は応援したいですね。
高麗神社の境内は清潔ではあるが、大した建造物や庭園はない。
ご利益は「立身出世」。まだの人は、それ行けどんどん。
韓流名士たちの寄進した樹木や、出世した人の更なる出世祈願寄進樹を確かめて歩くのも面白い。
旧本堂跡庭園
車を高麗神社の駐車場に置いたまま、隣の「聖天院」へ行って驚いた。
最近足が遠のいていたが、暫く振りに見る境内は、また一段と濃くなった。
本堂前の百段階段の上には石造阿吽仁王像が立ちはだかり、以前の本堂の跡の広場は石組みを追加し、現在建築中の庫裏は本堂に負けないド迫力である。
副住職としばらく雑談。
仁王像は中国製。日本市場に適応して進化が著しい由。
理系の副住職の工夫があちこちにある。
聖天院は芸大卒の現住職の美的感覚が抜群。新しい本堂ほか、新しい庭園が素晴らしい。庭師の親方は住職の言いなりで、最早悟りの境地。住職はいつも懊悩のさ中。
本堂と阿弥陀堂の扁額は住職筆。全く違う字体ながら見事なものである。市内各所にある末寺の扁額も結構なもの。
あ形像
高台の本堂
うん形像
新築中の巨大な庫裏
高麗神社を参拝する際は、隣に聖天院がある事をお忘れ無く。
あのぅ、どちらも奈良・京都とは較べないで下さいね。
最近有名?な高麗神社が元々は修験者だったなんて、驚きですね。
この話は、どこで聞いたのでしょうか?
自分もこういう話、好きなので聞いてみたいです!
いらっしゃいませ。
大分昔に読んだ本。題名は忘れましたが著者は女性だったはず。
その本にはハッキリ「拝み屋」と書いてあり、ビックリしたものです。
この記事前に書いた、高麗神社主催の「高麗文化祭」で開催された所蔵資料展では、「修験道」に関係していたことが分かりました。神社の維持には必要だったのでしょう。
今では高麗神社が有名ですが、戦前(’45年)以前は、国道299号線沿いの「滝不動」の方が、正月の参拝客を多く集めていたそうです。
なお、「拝み屋」は越生の黒山三滝の奥で、数年前に行った時にやっておりました。
覗いたら叱られましたけれど......。
日高・吾野・毛呂山・越生の山中には修験道の名残が随分あります。
たしかに、拝み屋というのは驚きです。
お不動さんが本来の本尊だったというのにも驚きました。
聖天院にあるお不動さんは元は高麗神社にあったものかも知れませんね。