笑うかどには福きたる

日常生活で見たこと、聞いたこと、感じたことを牧歌的にのんびりと書いています。

「日本のおもてなし」について 超個人的な考察

2015年06月06日 18時12分17秒 | 日々雑記
自宅に人を招く、という場面を考えた時、我が家の場合、

相手が好きそうなお茶菓子を揃え、
お部屋、洗面所のお掃除、
場合によっては玄関に花を活け、
当日履いてもらうスリッパをチェック、
相手によっては手土産を用意し、
使う食器を用意し、
お化粧もして(^_^;)
その他、もろもろ準備や心配りや、あれこれ。。。

と、それなりに相手に対しての「おもてなし」を考えるわけです。
「おもてなし」なんていう言い方をしないまでも、それは「相手に対しての礼儀」みたいな感覚だと思うのです。
相手に居心地の悪い想いをさせないように、という「こころ配り、配慮」とでも申しましょうか。

誰にもそれなりの「そういう感覚」ってあると思うんですよ。その時自分にできる精一杯なことで相手に心地よく過ごしてもらいたいってこと。

でもね、そういう「おもてなし」や「こころ配り」は「その気持ちをきちんと理解できる(受け止められる)相手である」ことも前提だと思うわけですよ。

そもそも自宅に「どんな人でも迎える」なんてことは(あまり)ないわけで、仮に「よこうそ我が家へ」的に誰でもウィルカムであっても、それは知り合いの範囲がやや広くなった程度のものであり、やはり大前提は「自分と社会生活上の規範(価値その他)が大きくずれていない」ということであって、

「おもてなしの価値」を共有できるからこそ、互いに納得の「おもてなしコミュニケーション」が成立するのだ、と、私は思うのです。

つまり、「おもてなし」にはそれ自体に有形無形の価値があり、
決して、誰彼構わずに安売りできるものではない、ということ。
だから、「日本人にはおもてなしの心がある」とか「日本は世界一のおもてなしの国である」とか、自分が関わらない「おもてなし」を簡単に言う人を見ると、正直、

はぁ?

という感じなのです。

身近な、ごく日常的なこころ配りや気配りから始まり、家族や地域が数百年積み上げてきたそれらの結果が今の「おもてなし文化」であるならば、それは今後も丁寧に「育んでいくべきもの(ある意味守るべきもの)」であるべきだし、まして「日本ではどこででもおもてなしが受けられま~す!」なんて能天気に消費されるものではないのではないでしょうか。

心が狭いですかねぇ、私。。。(^_^;)どーせ

経済活動の一環として、「日本のおもてなし」とやらを売りたいのなら、そのおもてなしには「値札」を付けるべきでしょう。それはもはや「おもてなし」と呼ばれるものではなくなりますが。

だって「おもてなし」とは、そもそもが「しなくてもいいけれど、そうされると喜ばれる」こと。プライスレスなんだから。接客にだって笑顔があった方がいいでしょう。これも立派な「おもてなし」ですよね。

お国は「観光立国」とやらに今後予算をじゃかすか付けて「おもてなしの国ジャパン」にしたいようだけれど、お国が旗を振れば振るほど日本の「おもてなしの心」が安売りされ、すり減っていくように感じるのは私だけでしょうか。

「おもてなし」って、相手を思いやる「ちょびっとサプライズ」で、もれなく付いてくるものじゃないんです。。。

あぁ、今日はなんとなくネガティブモード。(反省)

※写真は記事とは関係ありません。メキシカンレストランのランチプレート♪
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