
今の会社で仕事を始めたきっかけは東日本大震災です。
当時県庁のweb システム関連の仕事をしていて、当日は14時30分ぐらいに職員の方と電話で話をしてました。
「あれ?何か揺れてますよね」と話した瞬間、ドカンという大きな音と揺れ、同時に机の横の大きなキャビネットの引き出しがガーンと飛び出して、思わず床に伏せました。
最初の揺れがちょっぴりおさまり、立ち上がろうとしたときにもう一回大きな揺れが来て、「これってもしかして死んじゃう?」、って本気で思いましたよ。
携帯(ガラケー)で自宅に電話をかけてもつながらない。職員以外は全員帰宅(退去)ということで関内駅まで出て、とりあえず駅前の公衆電話で自宅に電話をかけ、自宅と両親が無事と言うことは確認。街中の信号は止まっていて、飲食店は閉じられ、ホテルも満室。当日はとても北風が強くて寒くてね。行き場がないので、とにかく風と寒さを防げるところと、地下鉄関内駅に入って、ホームのベンチに座ってました。当然電車も走っておらず、バッテリーを気にしながら妹(当時は西宮在住)とメールで安否連絡、妹から自宅に電話連絡してもらいました。
駅のアナウンスでは、桜木町のなんとかいうホールとか石川町のなんとか高校が避難場所になったと言うことだったけれども、名前を言われてもわからないし時刻は夜の6時過ぎ、寒い夜道を歩く力もなく、バックの中にあったキャラメル舐めながら、夜10時位までそこにいたかなぁ。私の他にも2,30人がそこにいたんだと思います。ブルーラインの職員の方が、「いつまた大きな揺れがきて、ホームが潰れるかもしれないからここは危険です。ホームから出てください」と何度か言いに来たけど(当時はそういうしかなかったんだと思う)、その都度「この寒空の夜道を歩く方がよっぽど危険だと思う。自己責任でここにいるので、潰されても仕方がない。このまま居させてください」と結構強く言った気がする。
で、夜10時を過ぎてから関内ホールが避難場所になったとアナウンスがあり、ようやく移動。関内ホールで毛布と飲み水とビスケットみたいなものを受け取り、ホールの柔らかいシートに座り、心からほっとしたもんです。
ただその間もステージの大型スクリーンにはNHKのニュース映像で、津波に飲まれた街や、ぷかぷか浮かぶ車、火災に見舞われている街の映像が流れていてね。信じられない光景でしたよ。隣にいた男の子たちが「これって、映画じゃないよな…」と呟いていましたっけ。。
寝たり起きたりしながら、夜明けを迎え、午前6時ごろだったか、動き始めたブルーラインに乗って家に帰ったんだけどね。
14年経っても、"あの時自分が経験したこと"はこんな具合にとってもよく覚えてます。あの後しばらく、なんだかいつも足元が揺れているような気がして、揺れに神経質になっていた自分がいましたよ。携帯も緊急地震速報が入る機種に変更したんじゃなかったかなぁ。
それまでは出張であっちこっち行く仕事だったんだけど、あの震災を境に家族の事なども考え、あんまり遠くに行かない仕事、極端なことを言えば、多摩川を渡って都内に出なくても良い仕事を考えるようになったんだよね(まぁ当時やってた仕事に、そろそろ潮時かも、なんて気持ちもあったんだけど)。
あれから14年か。でもあの震災がなかったら、多分今の仕事をしている自分はなかったことは間違いない。
東日本大震災も、去年の能登の震災も(もちろんそれ以前の震災も)それを現地で体験された方の恐怖や喪失感の大きさがどれほどのものか(ものだったか)、私には想像もできないけど、もう震災はゴメンだ。
今日の14時46分、当時のことを思い出しながら、私も手を合わせたいと思う。
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