大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校演劇・勘三郎さんのM・K・T

2012-12-06 10:09:33 | エッセー
勘三郎さんのM・K・T

 平成24年12月5日に亡くなった、中村屋、十八代目勘三郎さんが常々言われていたのが、このMKTの三文字です。

 Mは守る。つまり古い日本の歌舞伎の伝統を守るということです。歌舞伎には疎いわたしですが、勘三郎さんが出た、様々な作品の中にそれが見てとれました。明晰な台詞、演技の切れの良さなどは伝統芸能を守ってきたからこそできることでしょう。先日『のぼうの城』が上演されました。主演は野村萬斎さんでしたが、吹きすさぶ雨風の中で朗々と台詞が聞き取れたのは、野村萬斎さんだけでした。狂言と歌舞伎で畑は違いますが、伝統芸能という点では共通でした。
 ニューヨーク公演のとき、劇場の構造から花道が造れませんでした。勘三郎さんは、自ら舞台に立ち、観客席から舞台を見て、オーケストラピットに、綴れ降りの花道を思いつき、急遽作りました。現実と折り合わせ、伝統を守ろうという姿勢が印象的でした。

 Kは壊すです。Mと矛盾するようですが、伝統を守り、よく知った上で、新しい工夫を交えて壊していきました。伝統的演目の中で、下駄でタップダンスをやってのけ、若い観客にも分かり易くしてくれました。その他、時事ネタや、流行のものを大胆に取り入れ、良い意味で壊していかれ、時に、先輩の歌舞伎界の方や、御ひいき筋から「何やってんだ!」と言われたこともあったようですが、勘三郎さんは、「どうもすいません」と言いながら、壊し続けてきました。

 Tは創るでした、平成中村座を立ち上げ、地元で江戸時代の歌舞伎小屋を再現した……だけでなく、日本中、いや、世界中を飛び回り、新作歌舞伎や、工夫をこらした、伝統歌舞伎を世に広めました。歌舞伎になんとマイケルジャクソンのスリラーの演出を持ち込み、かんきゃくの度肝を抜きました。
 また、こんなことがありました。息子の勘九郎さんが、ある公演の最中に高熱を発し、その日の公演が流れそうになりました。で、勘三郎さんは、それまでの上演ビデオを観て、粗々の筋と台詞を覚えて「よーし、おいらが代わりに演ってやらあ!」と意気込みました。それを聞きつけた勘九郎さんは、熱をおして楽屋にもどり、「もう、大丈夫、ぼくが演りますから!」「そうかい、無理しなくったって……」勘三郎さんは、とても惜しい目つきで、舞台に向かう勘九郎さんを見ていたそうです。

高校演劇のM・K・T
 翻って高校演劇はどうでしょう。大阪に例をとります。守る……は、一見やっておられるようですが、旧態依然と言った方が当てはまると思います。この秋に実感しましたが、高校演劇は、そのコンクール会場や、その時程さえネットで検索しても出てこず、わたしの他にも混乱された方がいらっしゃいました。加盟校に最少必要限度の情報しか与えず、常任委員会で全てが決まってしまうという伝統は守られています。
 コンクール本選会場の選定も、加盟校の意見も聞くこともなく、某ホールに決めてしまわれました。ある顧問の先生など、ごく最近までご存じなく、コーチから言われて初めて知ったような有り様です。
 高校演劇は、過去十万は超える(丼勘定ですが)創作劇が創られましたが、その99・9%は再演されることなく使い捨てにされます。芝居というのは観客に観られ、その反応で手が加えられ、絶えず姿を変えていくものなのです。わたしがみても「アイデアはいいけど、惜しいなあ」という作品が、年に一二本はあります。ブログでも、惜しいと何度か書きましたが、再演はされません。守るべきものが逆立ちしています。

 壊す。過去を顧みないことで、無意識に壊しています。勘三郎さんのように、守るべきモノを守った上での壊しではなく。生産性のない、ただの破壊です。一点に絞ります。前述した守ると被りますが、とにかく、高校演劇関係者は、自分たちの過去の創作劇を含め、本を読みません。芝居をみません。「創作劇が多いのは大阪の誇りである」大まじめに、この意見を耳にしたときは暗然としました。「高校演劇に適した本がありません」 全国の高校演劇の上演状況を見れば、そんな台詞は出てきません。神奈川などでは半数近くが既成脚本です。無意識ではありましょうが、「他の都道府県は、高校演劇に相応しくない本を上演している」と言ったことと同義になります。知ってこその壊しです。直近、唯一の例外、2012年度の本選で、OBF高校が『しんしゃく源氏物語』を上手く壊していました。平安時代の衣装を現代風にして、高校生にとって無理のない表現ができるように工夫していました。この点は、いま少し評価されてもよかったのではと思います。ただ、演技、演出で、もう一歩のところが多く、話題にもならなかったのでしょうが、審査員の方々が、この壊し方をもう少し評価してくださっても良かったのではと思います。

 創る。ここにはとても、まともには言及できません。守るべきモノを知り、その上で壊すべきモノを知って、初めて創れます。
 創作。なんと生産的で、前向きで、蠱惑的な言葉でしょう。政治家が言う「美しい日本を創りましょう」に通底するものを感じます。わたしには、かつての民主党のマニュフェストのようにしか感じません。
 顧問の若手の先生や生徒諸君に創作の技術を持ってもらおうと、いろいろ講習を企画され、2013年の三学期には、外部講師を呼んで、講習会が開かれます。切歯扼腕とはこのことです。守る(過去の作品を知る)ことなく、創作はありえません。とりあえず他人様の戯曲の百本も読んでから、講習という言葉が出てくるべきでしょう。別のブログで何度も書きましたが、藤本義一さんは(先日亡くなった、大阪の作家……これも知らなければ話になりませんが)戯曲の創作を頼まれたとき「ぼく、芝居はよう分かれへんさかい、ちょっと待って」 そう言って、とりあえず百本の古今の名作を読み、ようやく創作にかかりました。個人的には、劇作は独習しかないように思います。わたしが本書きのハシクレで居られるのは、先輩方のご薫陶によるものですが、書き方を教わったことはありません。「もっと本を読めよ」「いつまでもパロディー書いてちゃだめだよ」の二つだけでした。一度「読んでます」と生意気を言ったことがあります。「何読んでんの?」「はい、チェ-ホフの『桜の園』なんか」「で、何回読んだの?」「二三回……」「ハハハ」と鼻で笑われました。「読むってのは、散歩道にしちゃうこと。二三回歩いた道は、散歩道とは言わない」
 凹みました。この先輩はイプセン狂いなさっておられ、六十を過ぎて横浜にくるノルウェーの船員たちから生きたノルウェー語を学習、イプセンの戯曲を、戦後初めて訳しなおされました。
 ことほど左様に、劇作とは独習しかないのですが、講習会はやらないよりもましでしょう。
 しかし、ここに大きな疑問が湧きます。大阪の高校演劇の指導的立場(むろん劇作面でも)におられる先生方が、なぜ自分で書かないのでしょう。まだ、六十前です。筆を折るのは早すぎます。
 ぜひ、ご自分達でお書きになってください。

 高校生の舞台づくりに、新しい芽が出始めています。芝居の音楽化と、コント化です。2012年度の本選で、成蹊高校にミュージカル化の芽がみえました。精華高校にコント化の兆しをかんじました。予選落ちしましたが、夕陽丘高校のコントの技量は大したものでした。
 生徒たちは、無意識のうちにも、どうやったら観てもらえる芝居ができるだろうかと模索し始めています。これを上手く指導して、劇的表現までもっていってやることが大事だと思います。単に劇的構造を持っていないと、一蹴せずに。


 残念なことに、中村勘三郎を知らない演劇部員の子たちが大勢います。顧問の先生でさえ、「名前は聞いたことあるねんけど……」という程度の方がいらっしゃいます。
 野球部の子で、プロ野球を(テレビを通してでも)観たことがないというものはいません。監督で王さんや長島さんを知らない人はいません。
 この「知らない」ことが、まかり通っているのが、高校演劇だと感じています。you tubeでけっこうです。一度勘三郎さんに触れるところからはじめませんか。
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