志忠屋繁盛記・7
『再会……そして』
志忠屋は実在する、わたしの悪友滝川浩一君の店ですが、彼を含め、出てくる人物などは架空のものです。
マスターのタキさんが大あくびをした。店は、地下鉄谷町線一号出口から徒歩三十秒。ロケーションとしては悪くないのだが、天神橋筋を一筋はいるだけで、人の流れがまるで違う。景気の悪さも手伝って、ディナータイムは客の入りが悪い。
タキさんが、あくびのためにトトロのような口を開いて大量の空気を吸ったので、Kチーフはあやうく窒息しかけた。
「ぼーずかな、今夜は」
「…………」
「なんとか言えよ」
酸欠から立ち直った、Kチーフが携帯酸素ボンベで生き返って、やっと返事した。
「あくびとか、クシャミするときは、あらかじめ言うてくださいね」
タキさんは、次ぎに放屁した。
「……あの、そういうときも」
Kチーフは、換気扇を強にした。
「屁ぇは言わへんかったやんけ」
「マスターは何やってもトトロ並やさかい」
「ワハハ……もっかい、あくびするぞ」
Kチーフが携帯酸素ボンベを構える。タキさんが大口開けて、空気を吸い込む……それに釣られたように店のドアが開いた。
「こんばんわ……」
「お、はるか。いま帰りか」
「うん、夕方には帰れるはずだったんですけど。収録のびちゃって……Kさん。それ、なあに?」
「あ、こうやって遊んでるんです。あんまりヒマやよって」
「よかった……タキさんたちには悪いけど、落ち着いて話ができそう」
「だれかと、待ちきってんのんか?」
ホカホカのおしぼりとお冷やのグラスを出しながら、タキさんが聞いた。
「帰りの新幹線で、由香に電話したんです。あの子とも三ヵ月会ってないから」
「ああ、黒門市場の魚屋の子やなあ。いま、なにしとんのん?」
「B大学。えーと文学部」
「あんまり文学いう感じの子やないけどなあ」
「ああ、気持ちいい……」
はるかは、ホカホカのおしぼりを広げ、顔を押さえた。
「オッサンみたいなことすんなよ。一応女優さんやねんさかい」
「オッサンてのは、こんなですよ……」
はるかは、おしぼりをたたんで、顔やら首を拭き始めた。
「おいおい、ほんまにオッサンになるなよ。坂東はるかは、一応清純派やねんから」
「タキさんは、なんでも一応が付くのね」
「ワハハ、ワシの目えから見たら、まだまだ駆け出しやからな……チーフなにしてんのん?」
Kチーフは、はるかが使ったおしぼりを丁寧にたたんで、ビニール袋に入れている。
「はるかちゃんが使うたおしぼり、ビンテージもんやさかい」
「あ、やめてくださいよ。そんなの」
「そやな、そういうフェチには高う売れるかもなあ」
「もう、タキさんまで!」
「ワハハ、こないやって遊んでなら、あかんくらいおヒマ」
「あ、ぼく本気で……」
「もうKさん!」
アイドル女優も、この志忠屋に来れば、いいオモチャである。そうやって盛り上がっていると、いつの間に入ってきたのか、由香が入り口に立っていた。
「ほんま、うち三回も『こんばんわ』言うたんですよ」
由香がむくれた……ふりをした。
「ハハ、あんまり楽しそうやから、いつ気ぃつくか思て」
「ハハ、ほんと、一瞬雪女じゃないかと思った」
「ほんまや、えらい雪降ってきよった……」
タキさんが、ブラインドを少しずらして、ため息をついた。
「とりあえず、はるかコースで。ホットジンジャエールできます?」
「あいよ、風邪ひき予防にもなるさかいなあ」
由香は、はるかが高校時代に東京から転校してきて以来の付き合いだ。はるかがスカウトされて東京で女優業を始めてからは、あまり会うことができなかったが、こうして会うと、女子高生時代に戻って互いにホグし合うことができる。
「で、吉川先輩とは、うまくいってんの?」
吉川とは、高校時代の先輩で、最初ははるかに気を寄せていたが、歯車がかみ合わず、結果的には由香といい仲になり、サックスの勉強のためにアメリカに渡っている。
「うん、今は大阪に帰ってきてくれて、毎日ラブラブ!」
「おお、ヌケヌケと言ってくれるじゃん」
そうやって、二人は危うくボウズになりかけた、その夜の唯一の客になり、楽しい一時を過ごした。
やがて、由香のスマホが鳴りだした。
「あ、ちょっと電話みたい……はい、由香です」
そう言いながら、由香はブルゾンを器用に着ながら、外に出た。
「客は自分らだけやから、気ぃつかわんでもええのにな」
「きっと、彼氏からとちゃいますか。照れくさいよってに」
「そうね、由香ってそういうとこあるから。ああ、ウラヤマだなあ」
「なに言うてけつかる。はるかが振ったオトコやないか」
「あ、ひどいなあ。それは違いますよ」
と、しばらく由香抜きで盛り上がり、二十分ほどが過ぎた……。
「ちょっと寒いやろ、はるか、見にいってやり」
「はい……ちょっと、由香……」
瞬間、はるかの声が途絶えた。
「はるか、どないかしたんか?」
タキさんが店の外に出てきた。そこには、呆然と佇むはるかが居るだけだった。
「由香がいない……足跡もない……」
積もり始めた雪の道路には、足跡もなかった。
「わたし、上のほう見てきますわ」
Kチーフがビルの階段を、由香の名前を呼ばわりながら上がっていった。
「由香あ!」
はるかも、思わず叫んで、表通りまで出た。交番の秋元巡査まで出てきた。
「どうかされ……あ、あなた、女優の坂東はるかさん!」
「あ、友だちが!」
はるかが、半ば咎めるように言った。
「失礼しました……あ、この二十分ほどでしたら、自分はこの前の道を見ておりましたが、そちらの方からは誰も出てきてはおりません」
「ひょっとしたら、店に……」
秋元巡査も付いてきてくれて、四人で店に入って驚いた。由香が座っていた前のテーブルには、由香が取り分けた料理が、ジンジャエールも、おしぼりさえ袋に入ったまま手つかずで残っていた。
「ちょっと由香に電話……」
はるかはスマホを出し、由香に電話をかけた……なかなか出ない。あきらめかけたころ……。
「もしもし……あ、はい、はるかです。由香は……そんな……だって。はい、今から行きます」
「どないした、はるか」
「あとで電話します!」
はるかは、それだけ言うと、表通りでタクシーを掴まえ、そのまま行ってしまった。
それから一時間ほどして、はるかから志忠屋に電話があった。
――はるかです……由香は一週間前から急性肺炎で入院していて……いま危篤状態……。
はるかの声は、それから嗚咽になった。
「はるか、大丈夫か!?」
――今夜は……付いていてやります。あ……はいすぐに! タキさん、またあとで。
そこで、はるかの電話は切れた。タキさんは、ゆっくりとテーブルに目をやった。
「あ……」
そこに、由香の姿がうっすら現れて、すっと消えてしまった。
そのあと、由香がどうなったか……それは、またいずれ……。
『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』
青雲書房より発売中。大橋むつおの最新小説!
お申込は、最寄書店・アマゾン・楽天などへ。現在ネット書店は在庫切れ、下記の出版社に直接ご連絡いただくのが、一番早いようです。ネット通販ではプレミア価格の中古しか出回っていません。青雲に直接ご注文頂ければ下記の定価でお求めいただけます。
青雲書房直接お申し込みは、定価本体1200円+税=1260円。送料無料。
送金は着荷後、同封の〒振替え用紙をご利用ください。
お申込の際は住所・お名前・電話番号をお忘れなく。
青雲書房。 mail:seiun39@k5.dion.ne.jp ℡:03-6677-4351
この物語は、顧問の退職により、大所帯の大規模伝統演劇部が、小規模演劇部として再生していくまでの半年を、ライトノベルの形式で書いたものです。演劇部のマネジメントの基本はなにかと言うことを中心に、書いてあります。姉妹作の『はるか 真田山学院高校演劇部物語』と合わせて読んでいただければ、高校演劇の基礎練習など技術的な問題から、マネジメントの様々な状況における在り方がわかります。むろん学園青春のラノベとして、演劇部に関心のない方でもおもしろく読めるようになっています。
『再会……そして』
志忠屋は実在する、わたしの悪友滝川浩一君の店ですが、彼を含め、出てくる人物などは架空のものです。
マスターのタキさんが大あくびをした。店は、地下鉄谷町線一号出口から徒歩三十秒。ロケーションとしては悪くないのだが、天神橋筋を一筋はいるだけで、人の流れがまるで違う。景気の悪さも手伝って、ディナータイムは客の入りが悪い。
タキさんが、あくびのためにトトロのような口を開いて大量の空気を吸ったので、Kチーフはあやうく窒息しかけた。
「ぼーずかな、今夜は」
「…………」
「なんとか言えよ」
酸欠から立ち直った、Kチーフが携帯酸素ボンベで生き返って、やっと返事した。
「あくびとか、クシャミするときは、あらかじめ言うてくださいね」
タキさんは、次ぎに放屁した。
「……あの、そういうときも」
Kチーフは、換気扇を強にした。
「屁ぇは言わへんかったやんけ」
「マスターは何やってもトトロ並やさかい」
「ワハハ……もっかい、あくびするぞ」
Kチーフが携帯酸素ボンベを構える。タキさんが大口開けて、空気を吸い込む……それに釣られたように店のドアが開いた。
「こんばんわ……」
「お、はるか。いま帰りか」
「うん、夕方には帰れるはずだったんですけど。収録のびちゃって……Kさん。それ、なあに?」
「あ、こうやって遊んでるんです。あんまりヒマやよって」
「よかった……タキさんたちには悪いけど、落ち着いて話ができそう」
「だれかと、待ちきってんのんか?」
ホカホカのおしぼりとお冷やのグラスを出しながら、タキさんが聞いた。
「帰りの新幹線で、由香に電話したんです。あの子とも三ヵ月会ってないから」
「ああ、黒門市場の魚屋の子やなあ。いま、なにしとんのん?」
「B大学。えーと文学部」
「あんまり文学いう感じの子やないけどなあ」
「ああ、気持ちいい……」
はるかは、ホカホカのおしぼりを広げ、顔を押さえた。
「オッサンみたいなことすんなよ。一応女優さんやねんさかい」
「オッサンてのは、こんなですよ……」
はるかは、おしぼりをたたんで、顔やら首を拭き始めた。
「おいおい、ほんまにオッサンになるなよ。坂東はるかは、一応清純派やねんから」
「タキさんは、なんでも一応が付くのね」
「ワハハ、ワシの目えから見たら、まだまだ駆け出しやからな……チーフなにしてんのん?」
Kチーフは、はるかが使ったおしぼりを丁寧にたたんで、ビニール袋に入れている。
「はるかちゃんが使うたおしぼり、ビンテージもんやさかい」
「あ、やめてくださいよ。そんなの」
「そやな、そういうフェチには高う売れるかもなあ」
「もう、タキさんまで!」
「ワハハ、こないやって遊んでなら、あかんくらいおヒマ」
「あ、ぼく本気で……」
「もうKさん!」
アイドル女優も、この志忠屋に来れば、いいオモチャである。そうやって盛り上がっていると、いつの間に入ってきたのか、由香が入り口に立っていた。
「ほんま、うち三回も『こんばんわ』言うたんですよ」
由香がむくれた……ふりをした。
「ハハ、あんまり楽しそうやから、いつ気ぃつくか思て」
「ハハ、ほんと、一瞬雪女じゃないかと思った」
「ほんまや、えらい雪降ってきよった……」
タキさんが、ブラインドを少しずらして、ため息をついた。
「とりあえず、はるかコースで。ホットジンジャエールできます?」
「あいよ、風邪ひき予防にもなるさかいなあ」
由香は、はるかが高校時代に東京から転校してきて以来の付き合いだ。はるかがスカウトされて東京で女優業を始めてからは、あまり会うことができなかったが、こうして会うと、女子高生時代に戻って互いにホグし合うことができる。
「で、吉川先輩とは、うまくいってんの?」
吉川とは、高校時代の先輩で、最初ははるかに気を寄せていたが、歯車がかみ合わず、結果的には由香といい仲になり、サックスの勉強のためにアメリカに渡っている。
「うん、今は大阪に帰ってきてくれて、毎日ラブラブ!」
「おお、ヌケヌケと言ってくれるじゃん」
そうやって、二人は危うくボウズになりかけた、その夜の唯一の客になり、楽しい一時を過ごした。
やがて、由香のスマホが鳴りだした。
「あ、ちょっと電話みたい……はい、由香です」
そう言いながら、由香はブルゾンを器用に着ながら、外に出た。
「客は自分らだけやから、気ぃつかわんでもええのにな」
「きっと、彼氏からとちゃいますか。照れくさいよってに」
「そうね、由香ってそういうとこあるから。ああ、ウラヤマだなあ」
「なに言うてけつかる。はるかが振ったオトコやないか」
「あ、ひどいなあ。それは違いますよ」
と、しばらく由香抜きで盛り上がり、二十分ほどが過ぎた……。
「ちょっと寒いやろ、はるか、見にいってやり」
「はい……ちょっと、由香……」
瞬間、はるかの声が途絶えた。
「はるか、どないかしたんか?」
タキさんが店の外に出てきた。そこには、呆然と佇むはるかが居るだけだった。
「由香がいない……足跡もない……」
積もり始めた雪の道路には、足跡もなかった。
「わたし、上のほう見てきますわ」
Kチーフがビルの階段を、由香の名前を呼ばわりながら上がっていった。
「由香あ!」
はるかも、思わず叫んで、表通りまで出た。交番の秋元巡査まで出てきた。
「どうかされ……あ、あなた、女優の坂東はるかさん!」
「あ、友だちが!」
はるかが、半ば咎めるように言った。
「失礼しました……あ、この二十分ほどでしたら、自分はこの前の道を見ておりましたが、そちらの方からは誰も出てきてはおりません」
「ひょっとしたら、店に……」
秋元巡査も付いてきてくれて、四人で店に入って驚いた。由香が座っていた前のテーブルには、由香が取り分けた料理が、ジンジャエールも、おしぼりさえ袋に入ったまま手つかずで残っていた。
「ちょっと由香に電話……」
はるかはスマホを出し、由香に電話をかけた……なかなか出ない。あきらめかけたころ……。
「もしもし……あ、はい、はるかです。由香は……そんな……だって。はい、今から行きます」
「どないした、はるか」
「あとで電話します!」
はるかは、それだけ言うと、表通りでタクシーを掴まえ、そのまま行ってしまった。
それから一時間ほどして、はるかから志忠屋に電話があった。
――はるかです……由香は一週間前から急性肺炎で入院していて……いま危篤状態……。
はるかの声は、それから嗚咽になった。
「はるか、大丈夫か!?」
――今夜は……付いていてやります。あ……はいすぐに! タキさん、またあとで。
そこで、はるかの電話は切れた。タキさんは、ゆっくりとテーブルに目をやった。
「あ……」
そこに、由香の姿がうっすら現れて、すっと消えてしまった。
そのあと、由香がどうなったか……それは、またいずれ……。
『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』
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この物語は、顧問の退職により、大所帯の大規模伝統演劇部が、小規模演劇部として再生していくまでの半年を、ライトノベルの形式で書いたものです。演劇部のマネジメントの基本はなにかと言うことを中心に、書いてあります。姉妹作の『はるか 真田山学院高校演劇部物語』と合わせて読んでいただければ、高校演劇の基礎練習など技術的な問題から、マネジメントの様々な状況における在り方がわかります。むろん学園青春のラノベとして、演劇部に関心のない方でもおもしろく読めるようになっています。