KAORU♪の「気ままなダイアリー」

KAORU♪が見つけたステキな風景、出会ったおもしろいできごと、おいしい料理などを“気が向いた時”にご紹介します。

★ 夏の日の「わらびもち」

2005年09月03日 | KAORUの好きなものギャラリー
                【わらびもち】

9月というと気分はすっかり秋だが、
近年の温暖化で、きっと今月いっぱいは
まだまだ真夏日を記録するのだろう。

夏の日、丸い形の「わらびもち」を
見かけると思い出すことがある。

物心ついてから小学校1~2年頃まで夏休みになると決まって
大阪城にほど近い、森ノ宮というところで過ごしていた。
同年代のいとこたちと、朝はラジオ体操、
昼間は水遊びをしたり、細い路地を探検したあとに
みんなでいっせいにお昼寝をする。そして夜は盆踊り。
そこは住宅街で、自然あふれる思い出はないが
昭和の香りの漂う家並みの中で、
典型的な子どもの夏休みを送っていた。

そして昼下がり、暑さでごろごろしていると、
チリン、チリンと繊細なベルの音とともに
屋台のわらびもち屋さんがやってくる。

4輪のリヤカーのような、屋根つきの屋台だったような
あいまいな記憶だが、「わらびもちくださ~い!」と
声をかけるとベルの音が止み、静かにリヤカーが停車する。

水の中で涼やかに泳ぐ、まあるい「わらびもち」を
網のお玉ですくって水を切る。
それから経木で作った船の形の器に、
色とりどりの「わらびもち」が、きれいに並んだあと
きなこをかけて爪楊枝と一緒に手渡してくれる。

そんな一連の作業が大好きで、じっとおじさんの手元を見つめていた。
そしてある日のこと、なにげなく深々と帽子をかぶる
おじさんの顔をのぞきこんで、一瞬息が止まりそうになった。

おじさんの顔は、右半分がただれて黒いアザで覆われていたのだ。

見てはいけないものを見てしまったようで
あわてて家の中に戻り、動揺する気持ちを押さえて
周囲の大人にそっと尋ねた。

すると「広島の原爆でね、ケガをしてしまったのよ」と
静かに教えてくれた。

カラフルな宝石のように並んでいた透明な色つき
「わらびもち」はあの屋台以来、見たことがない。
青海苔の入った緑色や黒ゴマ入りもあり、
赤い色は何で着色したのだろうか。記憶が不鮮明だ。

よく冷えた涼やかな夏のスィーツを、
どれから食べようかと幼心に迷いながら、
ひとくち口にほおりこむたび、すごくおいしいのに
同時におじさんの顔が脳裏に浮かび複雑な気分だった。

今思うとその当時、終戦からわずか25、6年という年月は
まだまだその爪跡を残していて、繁華街には軍服をきた人たちが
悲しげなアコーディオンを奏でていた記憶がある。
平和を実感するにはあまりにも日が浅く、
人々は癒えない傷を心の底に仕舞いこむように、
高度経済成長に夢を託していた時代なのかもしれない。

だって、今から25、6年前を考えてみれば
サザンがデビューした頃。
そう考えて時間を比較してみると思っているより
そう遠い昔ではない時にまだ日本は戦争をしていたのだ。

*****************************

「くず餅」が主流の東京でもここ最近、
関西の「わらびもち」はすっかりポピュラーになり、
甘味やさんだけでなく、近所のスーパーでも見かけるようになった。
東京流はきなこだけでなく、黒みつが添えられている。

そして、大阪に縁がある人に出会うと必ず
あの屋台の「わらびもち屋さん」のことを聞いている。
たとえばラーメン屋さんやおでん屋さんのように
大阪の文化として確立していたのだろうか?
それは大阪や関西全域?それとも一部の地域?
あるいは親玉のような人がいてチェーン展開の
ようなスタイルだったのだろうか?

誰に聞いても、そんな屋台は見たことがないという。
あのおじさん一代限りのオリジナルだったのだろうか?

定着した文化だったのか、はたまた世界のたったひとつの
「わらびもち屋さん」だったのか、
それともあれは遠い夏の幻だったのだろうか?
確認できる日がいつかやってくるまで
これからも大阪の人々に気長に聞いていきたいと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする