【青空とおさかな雲】
次の時代に移り行くとき、
時として痛みや苦痛や、やり切れぬ思いを伴いながら
先人たちもその波に翻弄されてきた。
それは、自然災害によるものや
戦争のような人為的なことによるものなど
要因としてはさまざまだが、
いずれにしても
限界値に達してはじめて、否応なく
新しい扉を開けざるを得ない状況下に置かれることは
日常においても、人生のターニングポイントにおいても、
ままあるのものだ。
今回、東北地方を中心とした関東までを襲ったこの事態について、
新しい次の時代が始まった、ということを前回の
ブログに書いたが、
まだ正確な言葉で表現することはできないけれど
感覚でいうと、こんなカンジだろうか。
**************************
「ムラ社会」から親戚一族の単位が薄まり
高度成長を経て「核家族」と呼ばれる時代へ移り、
その後、「個」の時代へと時は進んできた。
「個」を尊重する風潮は、最初は閉鎖的で
自分勝手なマイナスイメージが強かったかんじだが、
ここ数年、しだいに「自分」はどういう存在か。
なんのために生きていくのか。ということに焦点をあてる
ようになってきたように思う。
それまでは、「集団」を大切にしてきた文化があり
それはそれで、日本のすばらしい伝統でもあるが
別の視点で観察していくと、
江戸時代から数百年と続いてきた「滅私奉公」的な
「己を封印して、周囲のために尽くしていく」という
側面があり、ともすると“自己犠牲”を払ってでも
集団がうまくいくように行動してきた危うさを
持っていたのではないだろうか?
「心から喜んで」というよりも
「顔で笑って心で泣いて」誰かを喜ばせ満足させようとしていた、
ということは往々にしてあったような気がする。
犠牲の上に成り立つ平和は真の幸せとはいえない。
一部の人が幸せになるために、誰かがガマンし泣いている、という
構図を少しでも解消していく必要があった。
そこで段階を経ながら、経済状況などともうまく組み合わさりながら
自然発生的に生じたのが「個」という単位だったのではないか。
「自分」を大切にし、向き合っていく作業は
まだ完成したわけではないが、
時の流れが速くなった昨今である。
突然、
次へのステージが動き出したのである。
それは、
「和=輪」の時代。
村から一族、家族、個人という最小単位にまで
コンパクトになったからこそ、
またふたたび単位を大きくしていくのだ。
しかも、この情報社会だからこそ
村の規模を軽々と超えていくほどの大きさ。
どこからどこまで、という境界も必要ないぐらいだし、
臨機応変な変則編成。
あるときは「団結」のフォーメーションを組んだ
マクロサイズのスクラム体制。
あるときは「個」のミクロサイズにそれぞれ自由に伸びていく。
「集団」を大事にしてきたからこそ、
「個」を重んじてきたからこそ、
これからは自由自在に、その両方をバランスを取りながら
共存し共栄していく時代に入っていくのではないか・・・
これはあくまでも、
ここ数日のニュース報道やら、人々との話のなかで
浮かび上がってきたイメージである。
もしかしたら、もちろんぜんぜん違う方向へと
動き出していくのかもしれないから
確信はないけれど、そんな“予感”がするのである。
**************************
今日は久々に英会話のレッスン日。
地震のときはどこにいたの?
これほど大きい地震はこれまでに経験してことある?
など、先生にいろいろ質問をされて
館山での一件を話し終えたあとで、
停電はどう?と聞かれた。
うちのほうは大丈夫だけれど
節電をしていることや
近所のスーパーなども早く閉店することなどを説明すると、
そのイギリス人の先生は
今は大変だけれど、
きっと日本人はこの停電が終わった後も
「こんなに電気は必要ないよね。」
「こんなに部屋の温度を上げなくても
もう一枚着れば寒くないね」ということを気づく
いい機会だと思うよ。
特に、パチンコ屋は明るすぎるね!
と話してくれた。
たしかにその通り。
いろいろな国行っても、日本ほど明るい国はない。
ホテルも、スーパーマーケットも、ショップももっと
夜のあかりは少なめだ。
一瞬、お休みの店舗かな?という錯覚になってしまうほど
どの国もそっけないほど少しの蛍光灯や間接照明なのである。
子どもの頃はそれでもまだ、親や祖母などに
ものを大切にすること。使わない電気は消すこと。と
言われて育っていたのに、いつのまにやら完全にマヒしてしまっていた。
潤沢な電力を湯水のごとく使うことに、
じょじょに慣れてしまっていた。
「消費は美徳だ」という高度経済成長期のフレーズや
「金満ニッポン」といわれていたバブル時代の言葉を超えて
先行き不透明の長引く不況となってしまった平成の今、
その消費をすごいことでも、悦に入ることでもなんでもなく、
ただ「フツー」の空気みたいなコトに変容してしまって、
それをもうだれも気づくことも、止めることができないほど
感覚を失ってしまっていたのだった。
**************************
たしかに、今まではお風呂に向かうときも
部屋に戻るときも、電気をつけながら歩いていたが
真っ暗でも見る気になればきちんと何がどこにあるのか
わかるもんだな、って思っていた。
気持ちを集中し、目を凝らしていけば見えるものを、
あかりに頼り、便利なものに依存することで
自分の五感をしっかりと働かせないままで
感覚をどんどんと鈍らせていた。
今後、私のように原点に立ち戻る人が
多いのではないかと思う。
そして、それはきっと東日本からじわりと広がり始め
今は対岸の火事のように、実感のない
テレビの向こうのできごとのように感じている人々にも
やがて波及していくような気がしている。
それほど、今回の動きは
尋常ではない「うねり」のような「流れ」のような
何か、を感じているのである。
次の時代に移り行くとき、
時として痛みや苦痛や、やり切れぬ思いを伴いながら
先人たちもその波に翻弄されてきた。
それは、自然災害によるものや
戦争のような人為的なことによるものなど
要因としてはさまざまだが、
いずれにしても
限界値に達してはじめて、否応なく
新しい扉を開けざるを得ない状況下に置かれることは
日常においても、人生のターニングポイントにおいても、
ままあるのものだ。
今回、東北地方を中心とした関東までを襲ったこの事態について、
新しい次の時代が始まった、ということを前回の
ブログに書いたが、
まだ正確な言葉で表現することはできないけれど
感覚でいうと、こんなカンジだろうか。
**************************
「ムラ社会」から親戚一族の単位が薄まり
高度成長を経て「核家族」と呼ばれる時代へ移り、
その後、「個」の時代へと時は進んできた。
「個」を尊重する風潮は、最初は閉鎖的で
自分勝手なマイナスイメージが強かったかんじだが、
ここ数年、しだいに「自分」はどういう存在か。
なんのために生きていくのか。ということに焦点をあてる
ようになってきたように思う。
それまでは、「集団」を大切にしてきた文化があり
それはそれで、日本のすばらしい伝統でもあるが
別の視点で観察していくと、
江戸時代から数百年と続いてきた「滅私奉公」的な
「己を封印して、周囲のために尽くしていく」という
側面があり、ともすると“自己犠牲”を払ってでも
集団がうまくいくように行動してきた危うさを
持っていたのではないだろうか?
「心から喜んで」というよりも
「顔で笑って心で泣いて」誰かを喜ばせ満足させようとしていた、
ということは往々にしてあったような気がする。
犠牲の上に成り立つ平和は真の幸せとはいえない。
一部の人が幸せになるために、誰かがガマンし泣いている、という
構図を少しでも解消していく必要があった。
そこで段階を経ながら、経済状況などともうまく組み合わさりながら
自然発生的に生じたのが「個」という単位だったのではないか。
「自分」を大切にし、向き合っていく作業は
まだ完成したわけではないが、
時の流れが速くなった昨今である。
突然、
次へのステージが動き出したのである。
それは、
「和=輪」の時代。
村から一族、家族、個人という最小単位にまで
コンパクトになったからこそ、
またふたたび単位を大きくしていくのだ。
しかも、この情報社会だからこそ
村の規模を軽々と超えていくほどの大きさ。
どこからどこまで、という境界も必要ないぐらいだし、
臨機応変な変則編成。
あるときは「団結」のフォーメーションを組んだ
マクロサイズのスクラム体制。
あるときは「個」のミクロサイズにそれぞれ自由に伸びていく。
「集団」を大事にしてきたからこそ、
「個」を重んじてきたからこそ、
これからは自由自在に、その両方をバランスを取りながら
共存し共栄していく時代に入っていくのではないか・・・
これはあくまでも、
ここ数日のニュース報道やら、人々との話のなかで
浮かび上がってきたイメージである。
もしかしたら、もちろんぜんぜん違う方向へと
動き出していくのかもしれないから
確信はないけれど、そんな“予感”がするのである。
**************************
今日は久々に英会話のレッスン日。
地震のときはどこにいたの?
これほど大きい地震はこれまでに経験してことある?
など、先生にいろいろ質問をされて
館山での一件を話し終えたあとで、
停電はどう?と聞かれた。
うちのほうは大丈夫だけれど
節電をしていることや
近所のスーパーなども早く閉店することなどを説明すると、
そのイギリス人の先生は
今は大変だけれど、
きっと日本人はこの停電が終わった後も
「こんなに電気は必要ないよね。」
「こんなに部屋の温度を上げなくても
もう一枚着れば寒くないね」ということを気づく
いい機会だと思うよ。
特に、パチンコ屋は明るすぎるね!
と話してくれた。
たしかにその通り。
いろいろな国行っても、日本ほど明るい国はない。
ホテルも、スーパーマーケットも、ショップももっと
夜のあかりは少なめだ。
一瞬、お休みの店舗かな?という錯覚になってしまうほど
どの国もそっけないほど少しの蛍光灯や間接照明なのである。
子どもの頃はそれでもまだ、親や祖母などに
ものを大切にすること。使わない電気は消すこと。と
言われて育っていたのに、いつのまにやら完全にマヒしてしまっていた。
潤沢な電力を湯水のごとく使うことに、
じょじょに慣れてしまっていた。
「消費は美徳だ」という高度経済成長期のフレーズや
「金満ニッポン」といわれていたバブル時代の言葉を超えて
先行き不透明の長引く不況となってしまった平成の今、
その消費をすごいことでも、悦に入ることでもなんでもなく、
ただ「フツー」の空気みたいなコトに変容してしまって、
それをもうだれも気づくことも、止めることができないほど
感覚を失ってしまっていたのだった。
**************************
たしかに、今まではお風呂に向かうときも
部屋に戻るときも、電気をつけながら歩いていたが
真っ暗でも見る気になればきちんと何がどこにあるのか
わかるもんだな、って思っていた。
気持ちを集中し、目を凝らしていけば見えるものを、
あかりに頼り、便利なものに依存することで
自分の五感をしっかりと働かせないままで
感覚をどんどんと鈍らせていた。
今後、私のように原点に立ち戻る人が
多いのではないかと思う。
そして、それはきっと東日本からじわりと広がり始め
今は対岸の火事のように、実感のない
テレビの向こうのできごとのように感じている人々にも
やがて波及していくような気がしている。
それほど、今回の動きは
尋常ではない「うねり」のような「流れ」のような
何か、を感じているのである。