頑固爺の言いたい放題

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観光産業の危機

2019-05-22 10:27:51 | メモ帳

最近、湯河原から東京方面行のJR電車に乗ると、午後3時から4時ごろは座れないことがある。始発駅の熱海で座席が埋まり、次の駅の湯河原ではすでに120%ほどの乗車率になっているのだ。だから私はやむをえずグリーン車を利用することにしている。混む理由は、もちろん伊豆半島方面や熱海から帰る人が増えたから。観光産業の発展はご同慶だが、個人的には迷惑である。

そんなこともあって、“観光亡国論”(アレックス・カー著、中公新書、2019年3月刊)を読む気になった。内容は期待通り、「そうだ、そうだ、その通りだ」とか「そうか、そんなひどいことになっているのか」の連続である。なお、題名の“観光亡国論”からは、「観光が国を亡ぼす」というnegative な印象を受けるが、実際にはこの著作は「観光産業があまりにも急速に発展したために、随所に発展を妨げる要因が発生している。その阻害要因を除去するにはどうしたらいいか」という建設的提案であって、極めてpositiveな論考である。

特に共感した部分を二つ挙げる。

(1)   余分な看板が多いこと

私はアメリカに30年住んでいたこともあり、日本の観光地には看板が多すぎると感じる。幹線道路沿いに「〇〇ホテルはこの先5キロ」とか、「△△干物店は次の信号で左へ」などと大書した看板のことである。日本人は当たり前だと思っているだろうが、アメリカではこの種の看板が非常に少ない。

始めてアメリカに住んだ時は、アメリカ人は看板もないのにどうやって目的地を探すのか不思議に思っていたが、アドレスを地図と照合すればいいことがわかった。アメリカではどんなに短い道路でも必ず名前がついているし、番地が線として連続しているから、目的地探しが簡単なのである。これに対する日本の状況は説明するまでもないだろう。*

問題点は、看板が景観を損なうことである。看板がなくてもいいなら、それに越したことはない。そこへカーナビやスマホの普及という事情が発生した。番地で検索すれば、目的地へどう行けばいいのか分かるようになり、看板が不要になった。それでも看板が減らないのはなぜか。たぶん所管の行政部門が無関心なだけだろう。

と、思っていたところ、“観光亡国論”に「看板公害」として、次のような記述があった。

ためしに観光名所を訪ねてみましょう。近くに行くと、街角に「何々寺はこちら」、駐車場には「入口はこちら」、門には「重要文化財」、参道には「順路はこちら」、路地には「トイレはあちら」の看板が。中に入れば、その玄関に「土足厳禁」「禁煙」。(中略)

・・・通りを歩けば、店や商品の宣伝看板の洪水。聖域から俗域まで、都会から田舎まで、いたるところ看板だらけで、それが景観への大きな阻害要因になっているのです。

まさに“我が意を得たり”である。そう言われてみれば、ロードサイドの立て看板ばかりではなかった。外国人の目から見れば、観光スポットの「土足厳禁」などの注意書きはくどすぎるようだ。

(2)   オーバーツーリズム

10年ほど前のこと、京都で観光バスを利用して、金閣寺・清水寺などの定番スポットを巡ったことがある。たまたま紅葉シーズンだったので、そのバスは東福寺にも立ち寄った。ところが、その参道は人人人で溢れ、通勤電車並みだった。紅葉は見事でも、人が多すぎると興趣半減である。その有様が“観光亡国論”に写真入りで紹介されている。10年前でさえ、うんざりする人出だったが、今はとんでもないことになっているようだ。

       東福寺の紅葉(Youtubeから拝借)

東福寺に限らず、伏見稲井の千本鳥居や嵐山の竹林も、はては富士山の登山小屋も人の群れで埋まっているという。いわゆる“オーバーツーリズム”である。

日本を訪れる観光客の数は、2012年の600万人から年々右肩上がりで増えつづけ、2018年は3千万人を突破し、政府が掲げる4千万人の目標も現実味を帯びてきた。今でさえ、オーバーツーリズムなのに、4千万人になったらどうなるか。フランスを訪れる観光客は6千万人を超えるというから、日本に4千万人来ても不思議ではないが、そうなると有名観光スポットはどうなるか。考えるだけで空恐ろしくなる。

カー氏は国土交通省の顧問を務めているらしいから、顕在化した観光業界のボトルネックが逐一改善されると期待する。

                                                     終

*(注)日本の番地は、無作為に割り振った家屋番号であって、連続性がない。