今朝のNHKテレビ「生活ほっとモーニング」2007.11.21
和解 ~家族と病院が向き合った150日~
実に興味深い内容だった。
東京女子医大病院ではこのところ手術などの治療を巡って裁判など、
病院と患者のトラブルがいくつも起きて、
特定機能病院の指定が一時取り消されたりしていたが、
心臓手術で、子どもが死亡したり重度の障害を負ったりした8組の家族が、
集団で病院側と和解したそうだ。
番組で扱っていたのは2歳のまな娘を失ったご夫婦のケースで、
心臓の手術は成功と告げられたのに、翌朝心不全で亡くなったというケースです。
医療ミスがあったのではと思い、カルテを調べるうちに、
手術前に聞いていたのとはちがう、見知らぬ医師が執刀していたことが発覚、
「医療ミスではないか」という疑いが確信に変わっていったというものです。
両親は民事裁判にせず、当事者同士で話し合う制度ADRに臨みます。
話し合いの中で双方の認識のズレが浮かび上がります。
一つには、カルテにあった執刀医が自分たちが一度も話したこともない、
その手術をするのは初めての医師で、
自分たちに説明したその医師の指導的立場の医師は、
補佐役になっていたということだ。
病院側の説明では、そういうことはよくあることで、
どんな外科医でも初めて執刀することはあるわけだし、
普通、初めて執刀する医師を紹介すれば、患者は不安を持つのは当たり前なので、
患者に告げないでそうすると言っていた。病院の人だけでなく、
医療評論的立場の方も、そういっていた。
う~~~ん…!これは、そういわれれば確かにそのような気がするが、
手術はチームでやるわけだし、一緒にやる医師は全員紹介すべきだという気がする。
もし、不安にさせるのはよくないと思うなら、
リーダー医(というのかわからないが)が、
自分の指導の下でこのメンバーで手術を行いますと紹介したらいいと思う。
“見知らぬ医師”では、やはり問題だと思った。
また、心不全を起こす兆候を見落としたのでは?など、真剣に医療側の討論もあり、
その場に両親が同席できたことは、とても素晴らしいことだと思った。
「亡くなってしまったのだから、やはり失敗だった」という言葉も心に残った。
そして最後に執刀医が、自分が至らなかったことを両親に詫びていたことは
この和解が成り立った大きな要素だったと思う。
当事者同士が話し合える場となるADRは、素晴らしい制度だと思った。
医療側も「真摯に患者を救おうとして努力した、でも救うことができなかった。残念だ!」
ということを患者側に伝えられれば、多くの場合は分かり合えるのだと思う。
ミスだってあるかもしれない、人間だもの。
あそこで気がついていれば…、本当に残念だ。すまない。と謝れれば、
お互いの気持ちは、通い合える。
だって、患者だって自分にはとてもできないことを医師に頼んでしてもらうのだから…
しかし、ADRにも、まだ問題点はある。
朝だったので、書き留める暇がなかったが、
トラブルが起きた時、全部にADRを行うことはできない。どの範囲までするのか?
執刀医など当事者を強制的に出席させることはできない。転勤などでいない場合もある等。
まだ後3つくらい問題点があったけど、忘れました。
また思い出したら書きます。
長くなりましたが、人間関係は何といってもコミュニケーション。
話し合うことで心が通じ合えるのだとつくづく感じました。
裁判になれば、当事者同士で話し合う場など絶対にありません。
罪人として問われるのですから、医師に謝る気など起きるはずもありません。
医療トラブルはこうした話し合いによる解決が一番いいと思います。
和解 ~家族と病院が向き合った150日~
実に興味深い内容だった。
東京女子医大病院ではこのところ手術などの治療を巡って裁判など、
病院と患者のトラブルがいくつも起きて、
特定機能病院の指定が一時取り消されたりしていたが、
心臓手術で、子どもが死亡したり重度の障害を負ったりした8組の家族が、
集団で病院側と和解したそうだ。
番組で扱っていたのは2歳のまな娘を失ったご夫婦のケースで、
心臓の手術は成功と告げられたのに、翌朝心不全で亡くなったというケースです。
医療ミスがあったのではと思い、カルテを調べるうちに、
手術前に聞いていたのとはちがう、見知らぬ医師が執刀していたことが発覚、
「医療ミスではないか」という疑いが確信に変わっていったというものです。
両親は民事裁判にせず、当事者同士で話し合う制度ADRに臨みます。
話し合いの中で双方の認識のズレが浮かび上がります。
一つには、カルテにあった執刀医が自分たちが一度も話したこともない、
その手術をするのは初めての医師で、
自分たちに説明したその医師の指導的立場の医師は、
補佐役になっていたということだ。
病院側の説明では、そういうことはよくあることで、
どんな外科医でも初めて執刀することはあるわけだし、
普通、初めて執刀する医師を紹介すれば、患者は不安を持つのは当たり前なので、
患者に告げないでそうすると言っていた。病院の人だけでなく、
医療評論的立場の方も、そういっていた。
う~~~ん…!これは、そういわれれば確かにそのような気がするが、
手術はチームでやるわけだし、一緒にやる医師は全員紹介すべきだという気がする。
もし、不安にさせるのはよくないと思うなら、
リーダー医(というのかわからないが)が、
自分の指導の下でこのメンバーで手術を行いますと紹介したらいいと思う。
“見知らぬ医師”では、やはり問題だと思った。
また、心不全を起こす兆候を見落としたのでは?など、真剣に医療側の討論もあり、
その場に両親が同席できたことは、とても素晴らしいことだと思った。
「亡くなってしまったのだから、やはり失敗だった」という言葉も心に残った。
そして最後に執刀医が、自分が至らなかったことを両親に詫びていたことは
この和解が成り立った大きな要素だったと思う。
当事者同士が話し合える場となるADRは、素晴らしい制度だと思った。
医療側も「真摯に患者を救おうとして努力した、でも救うことができなかった。残念だ!」
ということを患者側に伝えられれば、多くの場合は分かり合えるのだと思う。
ミスだってあるかもしれない、人間だもの。
あそこで気がついていれば…、本当に残念だ。すまない。と謝れれば、
お互いの気持ちは、通い合える。
だって、患者だって自分にはとてもできないことを医師に頼んでしてもらうのだから…
しかし、ADRにも、まだ問題点はある。
朝だったので、書き留める暇がなかったが、
トラブルが起きた時、全部にADRを行うことはできない。どの範囲までするのか?
執刀医など当事者を強制的に出席させることはできない。転勤などでいない場合もある等。
まだ後3つくらい問題点があったけど、忘れました。
また思い出したら書きます。
長くなりましたが、人間関係は何といってもコミュニケーション。
話し合うことで心が通じ合えるのだとつくづく感じました。
裁判になれば、当事者同士で話し合う場など絶対にありません。
罪人として問われるのですから、医師に謝る気など起きるはずもありません。
医療トラブルはこうした話し合いによる解決が一番いいと思います。
確かに私の手術の時も主治医の先生でなくもう一人の若い先生でしたといっても手術経験は、あったようですが、
主治医が執刀しないことを知ったのは、手術前の最終診察の時、予定等が出てくる画面を見て発見し主治医に聞いたら 私(主治医)も一緒に手術に助手で入るといっていたように思います。
まー、その時は、後輩の育成とでも思ったのかな、あまり気にも留めなかった。気にする人は、気にするし、伏せている事の方が多いのかも知れませんね。
そして、退院後、外来はまたちがう医師だったりして…
私はたまたま、いつも一貫して同じ先生に診てもらうことができましたが、
それは、運のいいことのようでした。
ただ違う場合も連係をしっかりとって、執刀医は自分の執刀した患者には
できるだけ気を掛けてもらいたいですね!