2021年11月17日(水)〈後半・泉涌寺へ〉
午前中の東福寺の拝観と昼食を終えて東福寺駅近くまで戻り、東大路通りを駅とは反対
の東北に向かう。
京都第一赤十字病院前を通過し、泉涌寺道(せんにゅうじみち)交差点で東大路通りと
分かれ、住宅の増えた通りを緩やかに上がりながら東進する。
その突き当たりに、泉涌寺の総門が見えてきた。
すぐ手前左手は、泉涌寺の塔頭(たっちゅう)のひとつで京都七福神第一番・福禄寿を
祭る即成院(そくじょういん)である。
門前の立札を見ると、なかなか興味深そうな寺だが、拝観の時間は無さそうなので省き、
泉涌寺の寺域に入った。
常緑広葉樹に覆われた参道を進むと、右手に泉涌寺塔頭のひとつ法音院の山門が。
創建は鎌倉末期の嘉暦元(1326)年だが応仁の乱で焼失し、寛文5(1665)年
に再建されたとか。書院は伏見桃山城の遺構の一部のようだ。
洛陽三十三観音霊場第二十五番札所で、泉涌寺七福神の寿老人を祭るという。
ここも、門前から正面をのぞくのみとした。
さらに進むと。左手には戒光寺(かいこうじ)がある。
やはり泉涌寺の塔頭のひとつで、安貞2(1228)年に八条大宮に創建され、後堀河
天皇の勅願所になったよう。現在地に再興されたのは正保2(1645)年とか。
重要文化財の本尊釈迦如来像は運慶・湛慶父子の合作による極彩色の木彫の大仏で、鎌
倉時代の代表作であり台座を含めて約10mあるという。
その先、左手を下ったところには、泉涌寺の塔頭で純別格本山の新善光寺の山門や大屋
根の本堂が望まれる。
寛元元(1243)年の創立で、本尊は信州善光寺と同仏同体に鋳造された鎌倉時代の
作だという。
さらに樹林に覆われた参道を進む。西国三十三観音第十五番札所の今熊野観音寺の門前
や、後堀河天皇陵、孝明天皇陵などへの入口のすぐ先が、目的地、泉涌寺の大門である。
泉涌寺は、真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関わりが深いので「御寺(みてら)」と
して親しまれているという。
平安時代に弘法大師により営まれた草案が起こりで、建保6(1218)年に宋(中国)
から帰朝した月輪大師の寄進で大伽藍が整えられ、その際、境内に泉が湧き出たことにち
なみ泉涌寺と改められたとか。
仁治3(1242)年の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、寺内に
御陵が営まれており、皇室の香華院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきたという。
14時27分頃に大門をくぐり、そばの受付で仏殿と舎利殿の伽藍拝観券(500円)
を求めた。
仏殿と舎利殿拝観の前に、大門を入ってすぐ左手の楊貴妃(ようきひ)観音堂を参拝す
ることにした。
お堂はそう大きくはないが、横のモミジがよい彩りを見せている。
大門からは少し下リ坂となっていて、右手に浴室↓があり、その先正面が仏殿である。
重要文化財の仏殿は、寛文8(1668)年に4代将軍徳川家綱の再建。本尊は鎌倉時
代の代表的な仏師・運慶作の「三世三尊仏」で、左手の阿弥陀如来は現在、中央の釈迦如
来は過去、右の弥勒如来は未来の守護神として、三世にわたる人類の平安と幸福を祈念し
ているという。
堂内は拝観したが撮影禁止なので、もらった4つ折りリーフレットから三尊仏を。
次に背後の舎利殿に回ったが堂内の拝観はできず、正面から拝礼するのみだった。
舎利殿は、お釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納める貴重な霊殿。ここに納められてい
るのは印度、兜率天(とそつてん)、中国に伝わった不可思議な仏舎利で、釈迦の歯にあ
たり、説法をされる口にあることから特に尊い舎利といわれているようだ。
ちなみに、「兜率天」とは仏教の世界観における天界の一つのことだという。
この後、舎利殿の北側、山すそにある御座所とその庭園を拝観することにした(拝観料
300円)。
皇族や天皇の勅使が寺を訪れたときに開かれる勅使門↑の前を進み、左手の門をくぐる。
右手に見える檜皮葺き(ひわだぶき)の建物は勅使門の奥の「御車(みくるま)寄せ」
で、屋根の破風には菊のご紋の飾り板が付いている。
御座所の玄関を入ると、菊の花などが飾られていた。
御座所は、皇族が東南にある御陵や、霊名殿などへの参拝の際の御休息の場所。建物は
京都御所にあった皇后の御里(おさと)御殿が下賜されて、明治17(1884)年に移
築・再建されたとか。
建物内は6つの部屋に分かれていて、南側の庭園に面して「侍従の間」「勅使の間」
「玉座の間」が、北側に「女官の間」「門跡の間」「皇族の間」になっている。
玉座の間は一段高くなっていて、特徴ある違い棚があり、6つの部屋は撮影禁止だった
が、庭園と一部のふすま絵などは撮影可能だったので、それらの一部を紹介する。
庭園のあちこちに植え込まれたモミジが、ちょうど見頃だった。
この雪見灯籠は仙洞御所から移されたようで、桂離宮のものとともに雪見灯籠の双璧と
称されているという。
御座所内部と庭園の拝観を終えて門を出た。南側の砂利敷の広場の一角には、よしず張
りの小屋が建てられ、京都菊花会による菊花展を開催中だったので、一巡して観覧した。
右手の多くは樹木仕立ての作品だが、色彩豊富で見応えがある。
仏殿横から緩やかに上がって大門に戻り、15時27分頃に大門を出た。
往路の境内を西北へと戻って総門を抜け、東大路通りの泉涌寺前バス停から間もなく来
たバスに乗り、京都駅前バス停に16時10分頃着いた。
京都駅北口の地下街で小休止後、2階のコインロッカーに預けた荷物を引き取り、地下
鉄烏丸線に乗り四条駅で下車する。
今夜の宿は近くのビジネスホテルで、何度か利用しているおなじみの宿。17時25分
頃到着した。
2時間近く部屋で休憩後、夕食に出かけることにした。四条烏丸交差点際のビル地階に
ある「博多もつ鍋やまや」に入り、白もつ鍋と生ビールを注文して夕食とした。
20時10分過ぎ、ビジネスホテルに戻る。
(天気 晴、歩数 17,200)
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午前中の東福寺の拝観と昼食を終えて東福寺駅近くまで戻り、東大路通りを駅とは反対
の東北に向かう。
京都第一赤十字病院前を通過し、泉涌寺道(せんにゅうじみち)交差点で東大路通りと
分かれ、住宅の増えた通りを緩やかに上がりながら東進する。
その突き当たりに、泉涌寺の総門が見えてきた。
すぐ手前左手は、泉涌寺の塔頭(たっちゅう)のひとつで京都七福神第一番・福禄寿を
祭る即成院(そくじょういん)である。
門前の立札を見ると、なかなか興味深そうな寺だが、拝観の時間は無さそうなので省き、
泉涌寺の寺域に入った。
常緑広葉樹に覆われた参道を進むと、右手に泉涌寺塔頭のひとつ法音院の山門が。
創建は鎌倉末期の嘉暦元(1326)年だが応仁の乱で焼失し、寛文5(1665)年
に再建されたとか。書院は伏見桃山城の遺構の一部のようだ。
洛陽三十三観音霊場第二十五番札所で、泉涌寺七福神の寿老人を祭るという。
ここも、門前から正面をのぞくのみとした。
さらに進むと。左手には戒光寺(かいこうじ)がある。
やはり泉涌寺の塔頭のひとつで、安貞2(1228)年に八条大宮に創建され、後堀河
天皇の勅願所になったよう。現在地に再興されたのは正保2(1645)年とか。
重要文化財の本尊釈迦如来像は運慶・湛慶父子の合作による極彩色の木彫の大仏で、鎌
倉時代の代表作であり台座を含めて約10mあるという。
その先、左手を下ったところには、泉涌寺の塔頭で純別格本山の新善光寺の山門や大屋
根の本堂が望まれる。
寛元元(1243)年の創立で、本尊は信州善光寺と同仏同体に鋳造された鎌倉時代の
作だという。
さらに樹林に覆われた参道を進む。西国三十三観音第十五番札所の今熊野観音寺の門前
や、後堀河天皇陵、孝明天皇陵などへの入口のすぐ先が、目的地、泉涌寺の大門である。
泉涌寺は、真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関わりが深いので「御寺(みてら)」と
して親しまれているという。
平安時代に弘法大師により営まれた草案が起こりで、建保6(1218)年に宋(中国)
から帰朝した月輪大師の寄進で大伽藍が整えられ、その際、境内に泉が湧き出たことにち
なみ泉涌寺と改められたとか。
仁治3(1242)年の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、寺内に
御陵が営まれており、皇室の香華院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきたという。
14時27分頃に大門をくぐり、そばの受付で仏殿と舎利殿の伽藍拝観券(500円)
を求めた。
仏殿と舎利殿拝観の前に、大門を入ってすぐ左手の楊貴妃(ようきひ)観音堂を参拝す
ることにした。
お堂はそう大きくはないが、横のモミジがよい彩りを見せている。
大門からは少し下リ坂となっていて、右手に浴室↓があり、その先正面が仏殿である。
重要文化財の仏殿は、寛文8(1668)年に4代将軍徳川家綱の再建。本尊は鎌倉時
代の代表的な仏師・運慶作の「三世三尊仏」で、左手の阿弥陀如来は現在、中央の釈迦如
来は過去、右の弥勒如来は未来の守護神として、三世にわたる人類の平安と幸福を祈念し
ているという。
堂内は拝観したが撮影禁止なので、もらった4つ折りリーフレットから三尊仏を。
次に背後の舎利殿に回ったが堂内の拝観はできず、正面から拝礼するのみだった。
舎利殿は、お釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納める貴重な霊殿。ここに納められてい
るのは印度、兜率天(とそつてん)、中国に伝わった不可思議な仏舎利で、釈迦の歯にあ
たり、説法をされる口にあることから特に尊い舎利といわれているようだ。
ちなみに、「兜率天」とは仏教の世界観における天界の一つのことだという。
この後、舎利殿の北側、山すそにある御座所とその庭園を拝観することにした(拝観料
300円)。
皇族や天皇の勅使が寺を訪れたときに開かれる勅使門↑の前を進み、左手の門をくぐる。
右手に見える檜皮葺き(ひわだぶき)の建物は勅使門の奥の「御車(みくるま)寄せ」
で、屋根の破風には菊のご紋の飾り板が付いている。
御座所の玄関を入ると、菊の花などが飾られていた。
御座所は、皇族が東南にある御陵や、霊名殿などへの参拝の際の御休息の場所。建物は
京都御所にあった皇后の御里(おさと)御殿が下賜されて、明治17(1884)年に移
築・再建されたとか。
建物内は6つの部屋に分かれていて、南側の庭園に面して「侍従の間」「勅使の間」
「玉座の間」が、北側に「女官の間」「門跡の間」「皇族の間」になっている。
玉座の間は一段高くなっていて、特徴ある違い棚があり、6つの部屋は撮影禁止だった
が、庭園と一部のふすま絵などは撮影可能だったので、それらの一部を紹介する。
庭園のあちこちに植え込まれたモミジが、ちょうど見頃だった。
この雪見灯籠は仙洞御所から移されたようで、桂離宮のものとともに雪見灯籠の双璧と
称されているという。
御座所内部と庭園の拝観を終えて門を出た。南側の砂利敷の広場の一角には、よしず張
りの小屋が建てられ、京都菊花会による菊花展を開催中だったので、一巡して観覧した。
右手の多くは樹木仕立ての作品だが、色彩豊富で見応えがある。
仏殿横から緩やかに上がって大門に戻り、15時27分頃に大門を出た。
往路の境内を西北へと戻って総門を抜け、東大路通りの泉涌寺前バス停から間もなく来
たバスに乗り、京都駅前バス停に16時10分頃着いた。
京都駅北口の地下街で小休止後、2階のコインロッカーに預けた荷物を引き取り、地下
鉄烏丸線に乗り四条駅で下車する。
今夜の宿は近くのビジネスホテルで、何度か利用しているおなじみの宿。17時25分
頃到着した。
2時間近く部屋で休憩後、夕食に出かけることにした。四条烏丸交差点際のビル地階に
ある「博多もつ鍋やまや」に入り、白もつ鍋と生ビールを注文して夕食とした。
20時10分過ぎ、ビジネスホテルに戻る。
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