1月9日(日)に、立て替えのための仮住まいに引っ越してきた後、運んできた段ボー
ルを少しずつ明けてみたら、すっかり忘れていた、こんなものが出てきました。
1950年代から1960年代の頃、週末の土・日曜を利用して、あちこちの山登りに出
かけていたときに使っていた、登山用品の一部です。
上の写真の左上は、組み合わせのコップです。
その右は、日本海軍の飯ごう。若い人は見たことがないでしょう。
父親が第二次世界大戦中使ったものを、分けてもらったもので、ザックに米とともに
入れて山行に行き、テント泊の時などに、この飯ごうでご飯をつくったのでした。
上ふたを開けると中ぶたがあり、ご飯が出来たらそれぞれに盛って、2人でご飯を食
べることが出来ます。だいぶ使ったと見えて、中はお焦げで、外は燃やした薪で、黒く
なっています。
これは、味噌汁や鍋物などを造ったコッフェル。
中身は、このようになっています。
鍋や皿、湯沸かしとその置き台が組み合わさっているのです。
左下の2つは、水を入れたポリタンク。
左の小さい方が1リットルと記されているので、右は2リットルでしょうか。2つに水を
入れると、これだけで3㎏になります。
最初の写真の右下も、日本海軍の水筒。これも父親譲りで、ポリタンクを持つ前は、
水を入れるものは、この水筒しかなかったように思います。
ほかに出てきたのが、この4本爪の簡単なアイゼン。いつ買ったか思い出せません
が、1971年夏に、白馬岳大雪渓を上がったときには使ったものです。
これらの用品を入れて背負ったいたのが、このザックでした。
買い換えて、余り使っていなかったのか、割合きれいです。
同じ段ボールの中に、こんなものも入っていました。
1960年代の冬、毎年のように数年参加した、交通公社のスキー学校のゼッケン。
国鉄信越線で関山や妙高、志賀高原、米坂線の天元台スキー場などで開催された、
スキー学校に通いました。
1回で数日間、しんしんと雪の降る日も、一生懸命滑ったことが思い出されます。
ルを少しずつ明けてみたら、すっかり忘れていた、こんなものが出てきました。
1950年代から1960年代の頃、週末の土・日曜を利用して、あちこちの山登りに出
かけていたときに使っていた、登山用品の一部です。
上の写真の左上は、組み合わせのコップです。
その右は、日本海軍の飯ごう。若い人は見たことがないでしょう。
父親が第二次世界大戦中使ったものを、分けてもらったもので、ザックに米とともに
入れて山行に行き、テント泊の時などに、この飯ごうでご飯をつくったのでした。
上ふたを開けると中ぶたがあり、ご飯が出来たらそれぞれに盛って、2人でご飯を食
べることが出来ます。だいぶ使ったと見えて、中はお焦げで、外は燃やした薪で、黒く
なっています。
これは、味噌汁や鍋物などを造ったコッフェル。
中身は、このようになっています。
鍋や皿、湯沸かしとその置き台が組み合わさっているのです。
左下の2つは、水を入れたポリタンク。
左の小さい方が1リットルと記されているので、右は2リットルでしょうか。2つに水を
入れると、これだけで3㎏になります。
最初の写真の右下も、日本海軍の水筒。これも父親譲りで、ポリタンクを持つ前は、
水を入れるものは、この水筒しかなかったように思います。
ほかに出てきたのが、この4本爪の簡単なアイゼン。いつ買ったか思い出せません
が、1971年夏に、白馬岳大雪渓を上がったときには使ったものです。
これらの用品を入れて背負ったいたのが、このザックでした。
買い換えて、余り使っていなかったのか、割合きれいです。
同じ段ボールの中に、こんなものも入っていました。
1960年代の冬、毎年のように数年参加した、交通公社のスキー学校のゼッケン。
国鉄信越線で関山や妙高、志賀高原、米坂線の天元台スキー場などで開催された、
スキー学校に通いました。
1回で数日間、しんしんと雪の降る日も、一生懸命滑ったことが思い出されます。