2016年1月31日(日)
前日の天気も回復して気温も10℃前後になりそうなので、月末ながら今年2回目の七
福神めぐりに出かけた。
自宅を8時過ぎに出て所沢と横浜で乗り換えて、10時10分に相鉄本線の瀬谷(せや)
駅に下車する。駅構内には、大きな七福神めぐりの絵が掲示されていた。
相鉄線に乗ったのは何年ぶりだろうか…。首都圏の私鉄の中で私にはご縁の薄い鉄道で、
ここ20年くらいは乗ったような記憶が無い。
駅にあった相鉄の「駅からさんぽ 横浜瀬谷八福神めぐり」のパンフレトをもらう。
18頁あり、八福神巡りマップのほか、寺の紹介、特典付飲食店案内、御朱印を押すスタ
ンプ帳、相鉄沿線のお勧めどころなどが掲載されている。
10時18分に北口を出た。突き当たりの通りを右折して、瀬谷小の東側にある八福神
の最初、ダルマ大師の長天寺へ。
創建は、室町時代の応永元年(1394)、八福神のダルマ大師は、釈尊以来28代目
のインドの高僧とか。中国に渡来し武帝に謁見後、少林寺の壁に面して9年、禅宗の開祖
といわれ、七転八起のダルマで親しまれている。
どっしりとした本堂の前に、ダルマ大師が鎮座し、本堂内右手と小さいお堂にも祭られ
ていた。
境内には、クリスマスローズが咲く。
明治22年(1889)、近隣の3村が合併して瀬谷村となった時には、初めての村役
場が当寺の客殿に置かれ、大正5年(1916)まで使用されたという。
瀬谷小の北に回り、相沢四丁目から五丁目へと住宅街を抜ける。本郷四丁目で真っ直ぐ
に北に延びる「海軍道路」と呼ぶ県道18号へ。右側歩道沿いには桜並木が続いている。
瀬谷西高の先で西北への旧道に入る。西側にある平地林近くから、北に延びる直線の農
道へ。
小さい流れを横断して上がると一面の畑が広がり、ナノハナが咲いていた。
上瀬谷小の南を西進して、竹村町の住宅地を西に抜ける。狭いが車の多い県道401号
を南に少しで、大天の妙光寺があった。
白雉3年(652)の開基という古寺。弘安5年(1282)9月には日蓮聖人が一泊
し、聖人の教化を受けて改宗したとか。
本堂はコンクリート造り。大黒天堂に並ぶ鐘楼に吊された鐘は、正中2年(1325)
の鋳造で県の重要文化財。
山門近くのクチナシが、たくさん実をつけていた。
県道を南に少し、Y字路に小さい北向地蔵堂があり、赤布をまとった5体のお地蔵さん
が窮屈そうに並んでいた。
そこで県道に分かれて右手に下ると、すぐ先が恵比寿神の善昌寺である。
善昌寺は鎌倉の光明寺の末寺で、室町時代の天文2年(1533)の開山、本尊・阿弥
陀如来は、江戸時代から雨乞いの阿弥陀さんとして信仰を集めているという。
恵比寿神を祭るお堂は山門を入った右手にあり、背後はわずかながら竹林になっている。
山門の手前左手、墓地に立つタブノキの巨木が目に付き、横浜市の名木古木に選定され
ていた。
境内の枝をたくさん延ばしたイチョウも、市の名木古木である。本堂前には、大
きく枝を広げたシダレザクラがある。
「かまくら古道」と呼ぶ、緩いカーブの続く旧道を南下する。両側には古い屋敷やケヤ
キなどの高木が多く、古道らしい雰囲気にあふれている。
広い屋敷の前に「瀬谷銀行跡」の説明板があった。瀬谷銀行は明治40年(1907)
に創業、30年にわたり地域金融事業の中心になり、実業界・政界に大きな影響を与える
とともに、地域の発展に寄与したとのこと。
ここは、その頭取だった小島家の屋敷で、小島家は江戸中期から中瀬谷村村役を務め、
さらに明治から昭和初期まで村行政に功績を残したという。
その先にもケヤキの古木の多い民家が目に付き、古い唐箕(とうみ)を大きな納屋の壁
面に吊した家もある。
次の本郷一丁目に入った辺りに神明社があり、拝殿の右手にイチョウ高木が立っていた。
その下に、西南戦争から太平洋戦争までの戦死者の名を刻んだ忠魂碑があり、礎石は、
天平13年(741)に建立された相模国分寺の講堂の礎石だという。
さらに600mほどで、日枝社が祭られていた。
社殿右手に、市指定天然記念物で樹高35m、胸高周囲5.4m、推定樹齢300年以
上というケヤキがあり、枝振りも良く幹の中ほどに幾つかの大きなヤドリギが付いていた。
小さい流れを越えて本郷二丁目に入り、毘沙門天の徳善寺に行く。
堂々たる山門を入ると、広い境内は樹木が多く古寺らしいたたずまい。
徳善寺は弘治元年(1555)の創建、毘沙門天を祭るお堂は山門を入った左手にあり、
そばのミツマタが咲き出していた。
周辺にも庭木の多い旧家があり、大きな夏ミカンだろうか、たくさんの実をつけていた。
高架の相鉄線の下を抜けて瀬谷六丁目を進み、東西に走る県道40号・厚木街道との交
差点に出た。
交差点際には、八福神巡りのパンフレットに掲載の、お勧めの店のひとつ「瀬谷そば」
があった。
13時近いので入り、お勧めの鴨汁つけそば(800円)を注文する。八福神巡りパン
フレットを見せると、コロッケをひとつサービスしてくれた。
13時14分に店を出た。厚木街道を東に少し、次の交差点の手前が弁財天の宝蔵寺で
ある。
治暦2年(1066)の開基で、慶安2年(1649)には徳川3代将軍家光から、寺
領6石などの御朱印を受け、拝領の駕籠(かご)も現存するという。現在の本堂は、天保
15年(1844)の再建とか。「ぼけ封じ富士見楽寿観音第5番札所」でもある。
弁財天堂には新しい石像の弁財天が祭られ、境内の青銅の楽寿観音像も新しい。
「瀬谷そば」のある交差点まで戻り、かまくら古道を南に少しで、布袋尊の西福寺へ。
創立は天文3年(1534)と思われるとか。極楽浄土とされる西を正面として境内が
扇状に広がっているので、西福寺と名付けられたらしい。
この境内も樹木が多く、中でも本堂の左手前に立つスダジイは樹齢1,000年とされ、
「千年シイ」と呼ぶ市の名木古木である。
境内に入って右手、布袋尊を祭るお堂の横にも、微笑む石像の布袋様が鎮座していた。
南側にある左馬社(さばしゃ)は、西側に流れる境川流域の村々で疫病が流行した際に、
境川の東西に点在する神社を回って厄よけをした民間信仰「七サバ神社」のひとつで、祭
神は佐馬頭(さまのかみ)・源頼朝だという。
西福寺が佐馬社の別当寺なので当時の神仏混交の姿が残り、境内の吊鐘は瀬谷区内唯一
で、厄除け、虫除けに鐘を突いて祈願したとか。
江戸時代の鐘は太平洋戦争で供出し、現在の鐘は昭和32年(1957)の鋳造という。
さらにかまくら古道を南へ、北新集落の南端で県道45号・中原街道に接し、街道に面
して福禄寿の宗川寺(そうせんじ)がある。
開山は寛永2年(1625)、山門を入ると左右に立つイチョウは「夫婦銀杏(めおと
いちよう)」と呼び、市の名木古木。縁結びや安産祈願の信仰を受け、近隣からの参詣が
多いという。
福禄寿を祭るお堂は右側イチョウの横にあり、境内にはソメイヨシノやシダレザクラの
古木もある。
中原街道を横断して、道は緩やかに左にカーブする。1㎞ほどで相沢川を渡り、軍用道
路から延びる県道18号を跨道(こどう)橋で越える。
東側の石段を上がると、最後の寿老人を祭る全通院勢至堂(せいしどう)である。
午前の最後に訪ねた徳善寺の別院で、勢至菩薩を本尊としているとか。棟札によれば、
寛政9年(1797)に現在のお堂が建立されたと記されているという。
明治22年(1889)の町村制で近隣の3村が合併して瀬谷小のエリアが広がったた
め、境内に下瀬谷分教場が設置され、昭和18年(1943)まで多くの児童が通学した
ようだ。
境内には、横浜市の名木古木に指定されているフジの古木もある。
14時半過ぎ、八福神を巡り終えた。あとは駅に戻るのみ。そばの下瀬谷橋際にバス停
があり、20分間隔でバスがあるが、時間も早いので県道18号を北へ戻ることにする。
交通量は多いが歩道があり、最短なので県道を進み、15時11分に瀬谷駅南口に着いた。
(天気 曇後晴、距離 11㎞、地図 (1/2.5万)座間、相鉄の八福神めぐり地図
ほか、歩行地 横浜市瀬谷区、歩数 21,700)
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前日の天気も回復して気温も10℃前後になりそうなので、月末ながら今年2回目の七
福神めぐりに出かけた。
自宅を8時過ぎに出て所沢と横浜で乗り換えて、10時10分に相鉄本線の瀬谷(せや)
駅に下車する。駅構内には、大きな七福神めぐりの絵が掲示されていた。
相鉄線に乗ったのは何年ぶりだろうか…。首都圏の私鉄の中で私にはご縁の薄い鉄道で、
ここ20年くらいは乗ったような記憶が無い。
駅にあった相鉄の「駅からさんぽ 横浜瀬谷八福神めぐり」のパンフレトをもらう。
18頁あり、八福神巡りマップのほか、寺の紹介、特典付飲食店案内、御朱印を押すスタ
ンプ帳、相鉄沿線のお勧めどころなどが掲載されている。
10時18分に北口を出た。突き当たりの通りを右折して、瀬谷小の東側にある八福神
の最初、ダルマ大師の長天寺へ。
創建は、室町時代の応永元年(1394)、八福神のダルマ大師は、釈尊以来28代目
のインドの高僧とか。中国に渡来し武帝に謁見後、少林寺の壁に面して9年、禅宗の開祖
といわれ、七転八起のダルマで親しまれている。
どっしりとした本堂の前に、ダルマ大師が鎮座し、本堂内右手と小さいお堂にも祭られ
ていた。
境内には、クリスマスローズが咲く。
明治22年(1889)、近隣の3村が合併して瀬谷村となった時には、初めての村役
場が当寺の客殿に置かれ、大正5年(1916)まで使用されたという。
瀬谷小の北に回り、相沢四丁目から五丁目へと住宅街を抜ける。本郷四丁目で真っ直ぐ
に北に延びる「海軍道路」と呼ぶ県道18号へ。右側歩道沿いには桜並木が続いている。
瀬谷西高の先で西北への旧道に入る。西側にある平地林近くから、北に延びる直線の農
道へ。
小さい流れを横断して上がると一面の畑が広がり、ナノハナが咲いていた。
上瀬谷小の南を西進して、竹村町の住宅地を西に抜ける。狭いが車の多い県道401号
を南に少しで、大天の妙光寺があった。
白雉3年(652)の開基という古寺。弘安5年(1282)9月には日蓮聖人が一泊
し、聖人の教化を受けて改宗したとか。
本堂はコンクリート造り。大黒天堂に並ぶ鐘楼に吊された鐘は、正中2年(1325)
の鋳造で県の重要文化財。
山門近くのクチナシが、たくさん実をつけていた。
県道を南に少し、Y字路に小さい北向地蔵堂があり、赤布をまとった5体のお地蔵さん
が窮屈そうに並んでいた。
そこで県道に分かれて右手に下ると、すぐ先が恵比寿神の善昌寺である。
善昌寺は鎌倉の光明寺の末寺で、室町時代の天文2年(1533)の開山、本尊・阿弥
陀如来は、江戸時代から雨乞いの阿弥陀さんとして信仰を集めているという。
恵比寿神を祭るお堂は山門を入った右手にあり、背後はわずかながら竹林になっている。
山門の手前左手、墓地に立つタブノキの巨木が目に付き、横浜市の名木古木に選定され
ていた。
境内の枝をたくさん延ばしたイチョウも、市の名木古木である。本堂前には、大
きく枝を広げたシダレザクラがある。
「かまくら古道」と呼ぶ、緩いカーブの続く旧道を南下する。両側には古い屋敷やケヤ
キなどの高木が多く、古道らしい雰囲気にあふれている。
広い屋敷の前に「瀬谷銀行跡」の説明板があった。瀬谷銀行は明治40年(1907)
に創業、30年にわたり地域金融事業の中心になり、実業界・政界に大きな影響を与える
とともに、地域の発展に寄与したとのこと。
ここは、その頭取だった小島家の屋敷で、小島家は江戸中期から中瀬谷村村役を務め、
さらに明治から昭和初期まで村行政に功績を残したという。
その先にもケヤキの古木の多い民家が目に付き、古い唐箕(とうみ)を大きな納屋の壁
面に吊した家もある。
次の本郷一丁目に入った辺りに神明社があり、拝殿の右手にイチョウ高木が立っていた。
その下に、西南戦争から太平洋戦争までの戦死者の名を刻んだ忠魂碑があり、礎石は、
天平13年(741)に建立された相模国分寺の講堂の礎石だという。
さらに600mほどで、日枝社が祭られていた。
社殿右手に、市指定天然記念物で樹高35m、胸高周囲5.4m、推定樹齢300年以
上というケヤキがあり、枝振りも良く幹の中ほどに幾つかの大きなヤドリギが付いていた。
小さい流れを越えて本郷二丁目に入り、毘沙門天の徳善寺に行く。
堂々たる山門を入ると、広い境内は樹木が多く古寺らしいたたずまい。
徳善寺は弘治元年(1555)の創建、毘沙門天を祭るお堂は山門を入った左手にあり、
そばのミツマタが咲き出していた。
周辺にも庭木の多い旧家があり、大きな夏ミカンだろうか、たくさんの実をつけていた。
高架の相鉄線の下を抜けて瀬谷六丁目を進み、東西に走る県道40号・厚木街道との交
差点に出た。
交差点際には、八福神巡りのパンフレットに掲載の、お勧めの店のひとつ「瀬谷そば」
があった。
13時近いので入り、お勧めの鴨汁つけそば(800円)を注文する。八福神巡りパン
フレットを見せると、コロッケをひとつサービスしてくれた。
13時14分に店を出た。厚木街道を東に少し、次の交差点の手前が弁財天の宝蔵寺で
ある。
治暦2年(1066)の開基で、慶安2年(1649)には徳川3代将軍家光から、寺
領6石などの御朱印を受け、拝領の駕籠(かご)も現存するという。現在の本堂は、天保
15年(1844)の再建とか。「ぼけ封じ富士見楽寿観音第5番札所」でもある。
弁財天堂には新しい石像の弁財天が祭られ、境内の青銅の楽寿観音像も新しい。
「瀬谷そば」のある交差点まで戻り、かまくら古道を南に少しで、布袋尊の西福寺へ。
創立は天文3年(1534)と思われるとか。極楽浄土とされる西を正面として境内が
扇状に広がっているので、西福寺と名付けられたらしい。
この境内も樹木が多く、中でも本堂の左手前に立つスダジイは樹齢1,000年とされ、
「千年シイ」と呼ぶ市の名木古木である。
境内に入って右手、布袋尊を祭るお堂の横にも、微笑む石像の布袋様が鎮座していた。
南側にある左馬社(さばしゃ)は、西側に流れる境川流域の村々で疫病が流行した際に、
境川の東西に点在する神社を回って厄よけをした民間信仰「七サバ神社」のひとつで、祭
神は佐馬頭(さまのかみ)・源頼朝だという。
西福寺が佐馬社の別当寺なので当時の神仏混交の姿が残り、境内の吊鐘は瀬谷区内唯一
で、厄除け、虫除けに鐘を突いて祈願したとか。
江戸時代の鐘は太平洋戦争で供出し、現在の鐘は昭和32年(1957)の鋳造という。
さらにかまくら古道を南へ、北新集落の南端で県道45号・中原街道に接し、街道に面
して福禄寿の宗川寺(そうせんじ)がある。
開山は寛永2年(1625)、山門を入ると左右に立つイチョウは「夫婦銀杏(めおと
いちよう)」と呼び、市の名木古木。縁結びや安産祈願の信仰を受け、近隣からの参詣が
多いという。
福禄寿を祭るお堂は右側イチョウの横にあり、境内にはソメイヨシノやシダレザクラの
古木もある。
中原街道を横断して、道は緩やかに左にカーブする。1㎞ほどで相沢川を渡り、軍用道
路から延びる県道18号を跨道(こどう)橋で越える。
東側の石段を上がると、最後の寿老人を祭る全通院勢至堂(せいしどう)である。
午前の最後に訪ねた徳善寺の別院で、勢至菩薩を本尊としているとか。棟札によれば、
寛政9年(1797)に現在のお堂が建立されたと記されているという。
明治22年(1889)の町村制で近隣の3村が合併して瀬谷小のエリアが広がったた
め、境内に下瀬谷分教場が設置され、昭和18年(1943)まで多くの児童が通学した
ようだ。
境内には、横浜市の名木古木に指定されているフジの古木もある。
14時半過ぎ、八福神を巡り終えた。あとは駅に戻るのみ。そばの下瀬谷橋際にバス停
があり、20分間隔でバスがあるが、時間も早いので県道18号を北へ戻ることにする。
交通量は多いが歩道があり、最短なので県道を進み、15時11分に瀬谷駅南口に着いた。
(天気 曇後晴、距離 11㎞、地図 (1/2.5万)座間、相鉄の八福神めぐり地図
ほか、歩行地 横浜市瀬谷区、歩数 21,700)
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