あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

「続カタツムリ歩行」で南流山駅周辺を歩く(千葉)〈後半〉

2016-10-20 21:28:08 | カタツムリ歩行
 2016年10月16日(日) 〈続き〉

 続カタツムリ歩行が散会後の帰路は、近くの小金城址や本土寺(ほんどじ)を回って、
JR常磐線の北小金駅に向かうことにする。

 東側の大谷口集落の住宅地を北に下って東にすぐ、大谷口歴史公園になっている小金城
址へ金杉口(かなすぎぐち)跡から入る。


 小金城の虎口(こぐち・出入口)のひとつで、斜面を少し進んで最上部の城跡の広場に
上がった。ここには、「やまさん」こと山浦正昭さんの「関東百駅巡礼歩行」の第99番
目として、約3年前の2013年11月9日(土)に来ており、東屋(あずまや)で昼食
したことを思い出す。

 小金城は大谷口城とも呼ばれ、規模は南北約600m、東西約800mあり、県下で最
大級の中世城跡とのこと。城主の高城(たかぎ)氏は、千葉氏の一族か千葉氏から分かれ
た原氏の一族といわれ、戦国時代末には東葛飾地方で最大、下総国有数の領主、武将だっ
たらしい。

 小田原北条氏の軍事的勢力に組み込まれたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小
田原城攻めで北条氏と運命をともにし、小金領主としての役割も終わったという。


 広場の周囲には土塁↑が残り、東側に下る途中には、↓障子堀(しょうじぼり)の一部も
確認できた。北東の隅に下って小金城跡を出た。
     

 県道280号を横断して中金杉三丁目の住宅地に上がり、中金杉一丁目の中央部にある
香取神社に行く。



 ここもきょうは秋の祭礼の日で、そばの広場には舞台が造られ金杉自治会の出店もある。


 
 狭い境内にもテントが張られ、地元の方々多数が参拝に訪れて賑わう。ここにも、江戸
時代の青面金剛などの石塔が集められていた。


 東進して、新しい住宅地のそばに野菜畑も残る一角を過ぎる。


 金杉二丁目の東南端付近のY字路際に、寛政7年(1795)の青面金剛石塔と、年代
不詳の聖徳太子講中の石塔が並び立つ。
    

 その先で左カーブして本土寺の参道入口に着いた。そばに、漬物などを販売する古くか
らの店が2軒ある。



 桜並木の参道を進み、朱塗りで背高い山門前に出た。

 ここにも、3年前のやまさんの「関東百駅巡礼歩行」で来ていたが、その時にはこの山
門前までで、境内には入っていない。

 本土寺は、建治3年(1277)にこの地の豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子
日朗を導師として招いて開堂したのが始まりとか。池上の本門寺、鎌倉の妙本寺とともに
「朗門の三長三本の本山」と称される名刹(めいさつ)で、松戸地方における日蓮宗の教
団活動の中心とされたという。

 近年は「あじさい寺」として市民に親しまれているようで、山門を入った一帯から境内
一円にかけて、数え切れそうにないアジサイが植えられている。


 モミジの名所でもあり、山門を入った両側、アジサイの上もたくさんのモミジに覆われ
ていた。

         
 アジサイの間にある「翁(松尾芭蕉)の碑」は、文化元年(1804)に行われた芭蕉
忌を期して建立されたとか。本土寺では、しばしば「翁会」と呼ぶ句会が催され、小林一
茶も参加したという。


 正面の本堂に参拝後、右手の回廊下をくぐると、徳川家康の側室、秋山夫人の墓がある。
     
 秋山夫人は甲斐武田家の一族、秋山虎康の娘で、15歳で家康の側室になり、家康の第
五子・万千代を生んだとのこと。万千代はのち武田信吉と名乗り、天正18年(1590)
に小金城3万石に封ぜられたという。墓石は、信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)
に建立したようだ。


 その先に「順路」の表示があるので、回ってみた。アジサイやモミジなどの植え込みを
抜けると、菖蒲田(しょうぶだ)などの低地に下る。
     




 菖蒲田の横を回り、折り返して回廊の下を抜けると、「日像菩薩誕生水」がある。

 第二の日蓮といわれた日像聖人が文永6年(1269)、ここ平賀家で生誕の折にこの
井戸が湧き出て、以来「乳出の霊水」とあがめられているという。


 自然のままの池や、がけ下に祭られた銭洗弁財天のそばを通過して本堂前に戻る。


     
 西側高みの五重塔や、そばの建治4年(1278)鋳造で県下で2番目に古いという梵
鐘(ぼんしよう)の下がる鐘楼も見て、30分ほど過ごして山門を出た。


 なお、アジサイや紅葉の見ごろの時期、本土寺は入山料(大人500円)が要るようだ
が、季節外れの今日は無料開放されていた。

     
 山門前から延びるケヤキなどの参道を抜けて、南に向きを変えた道を直進し、14時25
分にJR常磐線の北小金(きたこがね)駅に着いた。


(天気 晴 距離 9㎞、地図(1/2.5万) 流山、歩行地 流山市、松戸市、歩数
 18,600)




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「続カタツムリ歩行」で南流山駅周辺を歩く(千葉)〈前半〉

2016-10-20 16:42:49 | カタツムリ歩行
 2016年10月16日(日)

 JR武蔵野線の周辺を歩く「続カタツムリ歩行」の第38回例会に参加した。集合はJ
R武蔵野線の南流山(みなみながれやま)駅で、この辺りは地下を走る、つくばエキスプ
レスの駅とも交差している。


 カントリーウオークの仲間で、江戸川を挟んで川向こうの三郷市にお住まいのIさんも
参加されたので、一緒に10時02分に東口をスタートした。

 駅前を東北に進み、広い通りを横断して北側の台地上にある千仏堂に行く。

 開け放たれた堂内に千体の仏像が祭られているのかと思い、右手建物におられた方に伺
うと、ここは近くにある東福寺の奥の院で、千体仏は東福寺のお堂に近年移したという。

 参道の両側は墓地で、参道に面して江戸時代の石仏が何体も、一定の間隔で立っていた。
       

 台地下に戻り、千仏堂の西側を進む。道路際にたくさんの陶器製の樽が土嚢(どのう)
代わりに埋め込まれていた。流山はみりんの街なので、その容器を転用したのだろうか…


 流鉄(旧総武流山電鉄)の踏切を渡ると西平井地区だが、一帯は区画整理事業が進行中
で、地図上の道路は無くなったものもあり、新しい道路や住宅が出来つつある。


 つくばエクスプレスの線路が地下から堀割に出た辺りから、北に少しで本覚寺に入る。

 南北朝時代に創建された日蓮宗の寺院とのこと。どっしりと立つ本堂は昭和25年
(1950)の再建という。


     
 少し戻り東へ、つくばエクスプレスの堀割上を陸橋で越えた思井集落は、昔ながらの静
かなたたずまい。


 豊富な森に囲まれた一角に熊野神社が祭られていた。

 社殿は天和元年(1681)の再建とか。境内はシイノキやカシなど常緑広葉樹が豊富
で、急石段の近くに弘化5年(1848)銘の庚申塔↓や文化15年(1818)銘の馬
頭観世音石が立ち、社殿背後にも古い石塔が並んでいた。
       

 南に下って宮園二丁目から一丁目へと近年開発された住宅地際を進む。南西側の古くか
らの住宅にピラカンサがたくさんの実を付けていた。


    
 流鉄鰭ヶ崎(ひれがさき)駅の西北の踏切を渡り、高台の一角を占める東福寺に東側の
山門から入った。山門の近くにはホトトギスが花を見せる。




     山門の近く、枯れた木の洞にお地蔵さんが祭られている。
    

 弘仁5年(814)に弘法大師により開山したという古寺。天慶3年(940)には藤
原秀郷(ふじわらのひでさと)が平将門(たいらのまさかど)追討の祈願をし、朱雀天皇
から荘田(しようでん)500石を賜るなどして栄え、江戸時代には朱印地30石を有し
末寺132ヶ寺を統括するなどで繁栄したという。


 最初に訪ねた千仏堂の仏像は、本堂の西に並ぶ新しい千仏堂に祭られていた。



 扉を開けて拝観したら、中央の阿弥陀如来像を中心に小さな仏像も、まばゆいばかりの
金色の輝きで並んでいた。

 山門際の説明板によれば、中央の阿弥陀如来像は像高90㎝、小さい千体仏も阿弥陀如
来像で、江戸時代中期(18世紀末頃)の造立と考えられ、平成19年に修理後ここに移
されたという。


 境内にはほかに、真言宗中興の祖、興教大師(こううぎょうだいし)を祭る八角屋根の
密厳堂(みつごんどう)↑、弘法大師を祭る大師堂↓、周囲に四国八十八か所霊場の本尊石
仏を巡らした鐘楼、市保存樹木のイチョウなどがある。





 朱塗りの山門を出た南側の石段下には、数え切れないほどの庚申塔や青面金剛像などが
集められて並び、そばのドウダンツツジが色づきはじめていた。




    

 正午近くなったので、最短でゴールに向かうことにする。鰭ヶ崎小の一本北側の道を鰭
ヶ崎駅前に向かうと、民家の庭先に手づくりの風車がたくさん並んでいる。


       
 駅前を過ぎて、流鉄線路の南側沿いを進む。線路際にはフヨウが咲き残り、色づき始め
たミカンがたくさん実る木も多い。


     流山市のマンホールデザインは、市の花ツツジを描いたもの。
    

 市境の坂川の橋を渡ると、流山市から松戸市に入る。



 合流した新坂川沿いには草木が生い茂り、たくさん実を付けたピラカンサやムラサキシ
キブ、セイタカアワダチソウの花などが流れに彩りを添える。


 流鉄小金城趾(こがねじようし)駅の手前で橋と線路を渡って駅前を東進する。


 斜面林下の大谷口馬屋敷緑地↑の横を少し上がり、ゴールの大谷口神明神社には12時
06分に着いた。

 神社はきょう祭礼の日。拝殿正面が開けられ、氏子の方々が集まっているので、私たち
は西側のスペースで昼食をする。

 拝殿の周辺には、宝暦6年(1756)とか安政7年(1860)、宝永4年(1707)
などと刻まれた、江戸時代の庚申塔や青面金剛塔、供養塔などがたくさん並んでいた。



 食事を終えて記念撮影とミーティングをして、12時50分に散会した。〈続く〉




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