2016年10月16日(日) 〈続き〉
続カタツムリ歩行が散会後の帰路は、近くの小金城址や本土寺(ほんどじ)を回って、
JR常磐線の北小金駅に向かうことにする。
東側の大谷口集落の住宅地を北に下って東にすぐ、大谷口歴史公園になっている小金城
址へ金杉口(かなすぎぐち)跡から入る。

小金城の虎口(こぐち・出入口)のひとつで、斜面を少し進んで最上部の城跡の広場に
上がった。ここには、「やまさん」こと山浦正昭さんの「関東百駅巡礼歩行」の第99番
目として、約3年前の2013年11月9日(土)に来ており、東屋(あずまや)で昼食
したことを思い出す。
小金城は大谷口城とも呼ばれ、規模は南北約600m、東西約800mあり、県下で最
大級の中世城跡とのこと。城主の高城(たかぎ)氏は、千葉氏の一族か千葉氏から分かれ
た原氏の一族といわれ、戦国時代末には東葛飾地方で最大、下総国有数の領主、武将だっ
たらしい。
小田原北条氏の軍事的勢力に組み込まれたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小
田原城攻めで北条氏と運命をともにし、小金領主としての役割も終わったという。

広場の周囲には土塁↑が残り、東側に下る途中には、↓障子堀(しょうじぼり)の一部も
確認できた。北東の隅に下って小金城跡を出た。

県道280号を横断して中金杉三丁目の住宅地に上がり、中金杉一丁目の中央部にある
香取神社に行く。


ここもきょうは秋の祭礼の日で、そばの広場には舞台が造られ金杉自治会の出店もある。

狭い境内にもテントが張られ、地元の方々多数が参拝に訪れて賑わう。ここにも、江戸
時代の青面金剛などの石塔が集められていた。

東進して、新しい住宅地のそばに野菜畑も残る一角を過ぎる。

金杉二丁目の東南端付近のY字路際に、寛政7年(1795)の青面金剛石塔と、年代
不詳の聖徳太子講中の石塔が並び立つ。

その先で左カーブして本土寺の参道入口に着いた。そばに、漬物などを販売する古くか
らの店が2軒ある。


桜並木の参道を進み、朱塗りで背高い山門前に出た。

ここにも、3年前のやまさんの「関東百駅巡礼歩行」で来ていたが、その時にはこの山
門前までで、境内には入っていない。
本土寺は、建治3年(1277)にこの地の豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子
日朗を導師として招いて開堂したのが始まりとか。池上の本門寺、鎌倉の妙本寺とともに
「朗門の三長三本の本山」と称される名刹(めいさつ)で、松戸地方における日蓮宗の教
団活動の中心とされたという。
近年は「あじさい寺」として市民に親しまれているようで、山門を入った一帯から境内
一円にかけて、数え切れそうにないアジサイが植えられている。

モミジの名所でもあり、山門を入った両側、アジサイの上もたくさんのモミジに覆われ
ていた。

アジサイの間にある「翁(松尾芭蕉)の碑」は、文化元年(1804)に行われた芭蕉
忌を期して建立されたとか。本土寺では、しばしば「翁会」と呼ぶ句会が催され、小林一
茶も参加したという。

正面の本堂に参拝後、右手の回廊下をくぐると、徳川家康の側室、秋山夫人の墓がある。

秋山夫人は甲斐武田家の一族、秋山虎康の娘で、15歳で家康の側室になり、家康の第
五子・万千代を生んだとのこと。万千代はのち武田信吉と名乗り、天正18年(1590)
に小金城3万石に封ぜられたという。墓石は、信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)
に建立したようだ。

その先に「順路」の表示があるので、回ってみた。アジサイやモミジなどの植え込みを
抜けると、菖蒲田(しょうぶだ)などの低地に下る。


菖蒲田の横を回り、折り返して回廊の下を抜けると、「日像菩薩誕生水」がある。

第二の日蓮といわれた日像聖人が文永6年(1269)、ここ平賀家で生誕の折にこの
井戸が湧き出て、以来「乳出の霊水」とあがめられているという。

自然のままの池や、がけ下に祭られた銭洗弁財天のそばを通過して本堂前に戻る。


西側高みの五重塔や、そばの建治4年(1278)鋳造で県下で2番目に古いという梵
鐘(ぼんしよう)の下がる鐘楼も見て、30分ほど過ごして山門を出た。

なお、アジサイや紅葉の見ごろの時期、本土寺は入山料(大人500円)が要るようだ
が、季節外れの今日は無料開放されていた。

山門前から延びるケヤキなどの参道を抜けて、南に向きを変えた道を直進し、14時25
分にJR常磐線の北小金(きたこがね)駅に着いた。

(天気 晴 距離 9㎞、地図(1/2.5万) 流山、歩行地 流山市、松戸市、歩数
18,600)
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続カタツムリ歩行が散会後の帰路は、近くの小金城址や本土寺(ほんどじ)を回って、
JR常磐線の北小金駅に向かうことにする。
東側の大谷口集落の住宅地を北に下って東にすぐ、大谷口歴史公園になっている小金城
址へ金杉口(かなすぎぐち)跡から入る。

小金城の虎口(こぐち・出入口)のひとつで、斜面を少し進んで最上部の城跡の広場に
上がった。ここには、「やまさん」こと山浦正昭さんの「関東百駅巡礼歩行」の第99番
目として、約3年前の2013年11月9日(土)に来ており、東屋(あずまや)で昼食
したことを思い出す。
小金城は大谷口城とも呼ばれ、規模は南北約600m、東西約800mあり、県下で最
大級の中世城跡とのこと。城主の高城(たかぎ)氏は、千葉氏の一族か千葉氏から分かれ
た原氏の一族といわれ、戦国時代末には東葛飾地方で最大、下総国有数の領主、武将だっ
たらしい。
小田原北条氏の軍事的勢力に組み込まれたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小
田原城攻めで北条氏と運命をともにし、小金領主としての役割も終わったという。

広場の周囲には土塁↑が残り、東側に下る途中には、↓障子堀(しょうじぼり)の一部も
確認できた。北東の隅に下って小金城跡を出た。

県道280号を横断して中金杉三丁目の住宅地に上がり、中金杉一丁目の中央部にある
香取神社に行く。


ここもきょうは秋の祭礼の日で、そばの広場には舞台が造られ金杉自治会の出店もある。


狭い境内にもテントが張られ、地元の方々多数が参拝に訪れて賑わう。ここにも、江戸
時代の青面金剛などの石塔が集められていた。

東進して、新しい住宅地のそばに野菜畑も残る一角を過ぎる。

金杉二丁目の東南端付近のY字路際に、寛政7年(1795)の青面金剛石塔と、年代
不詳の聖徳太子講中の石塔が並び立つ。

その先で左カーブして本土寺の参道入口に着いた。そばに、漬物などを販売する古くか
らの店が2軒ある。


桜並木の参道を進み、朱塗りで背高い山門前に出た。

ここにも、3年前のやまさんの「関東百駅巡礼歩行」で来ていたが、その時にはこの山
門前までで、境内には入っていない。
本土寺は、建治3年(1277)にこの地の豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子
日朗を導師として招いて開堂したのが始まりとか。池上の本門寺、鎌倉の妙本寺とともに
「朗門の三長三本の本山」と称される名刹(めいさつ)で、松戸地方における日蓮宗の教
団活動の中心とされたという。
近年は「あじさい寺」として市民に親しまれているようで、山門を入った一帯から境内
一円にかけて、数え切れそうにないアジサイが植えられている。

モミジの名所でもあり、山門を入った両側、アジサイの上もたくさんのモミジに覆われ
ていた。

アジサイの間にある「翁(松尾芭蕉)の碑」は、文化元年(1804)に行われた芭蕉
忌を期して建立されたとか。本土寺では、しばしば「翁会」と呼ぶ句会が催され、小林一
茶も参加したという。

正面の本堂に参拝後、右手の回廊下をくぐると、徳川家康の側室、秋山夫人の墓がある。

秋山夫人は甲斐武田家の一族、秋山虎康の娘で、15歳で家康の側室になり、家康の第
五子・万千代を生んだとのこと。万千代はのち武田信吉と名乗り、天正18年(1590)
に小金城3万石に封ぜられたという。墓石は、信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)
に建立したようだ。

その先に「順路」の表示があるので、回ってみた。アジサイやモミジなどの植え込みを
抜けると、菖蒲田(しょうぶだ)などの低地に下る。



菖蒲田の横を回り、折り返して回廊の下を抜けると、「日像菩薩誕生水」がある。

第二の日蓮といわれた日像聖人が文永6年(1269)、ここ平賀家で生誕の折にこの
井戸が湧き出て、以来「乳出の霊水」とあがめられているという。

自然のままの池や、がけ下に祭られた銭洗弁財天のそばを通過して本堂前に戻る。


西側高みの五重塔や、そばの建治4年(1278)鋳造で県下で2番目に古いという梵
鐘(ぼんしよう)の下がる鐘楼も見て、30分ほど過ごして山門を出た。

なお、アジサイや紅葉の見ごろの時期、本土寺は入山料(大人500円)が要るようだ
が、季節外れの今日は無料開放されていた。

山門前から延びるケヤキなどの参道を抜けて、南に向きを変えた道を直進し、14時25
分にJR常磐線の北小金(きたこがね)駅に着いた。

(天気 晴 距離 9㎞、地図(1/2.5万) 流山、歩行地 流山市、松戸市、歩数
18,600)


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