あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

東松山市の東南・辰野文庫を訪ね周辺の里道を歩く(埼玉・東松山ほか)

2019-09-23 18:30:21 | カントリーウオーク
 2019年10月16日(月・祝)

 敬老の日だが、市の敬老の催しには例年同様参加せず、カントリーウオークグループの
9月例会に参加した。

 予報では午前中は雨が残るかと心配されたが、集合地の東武東上線東松山駅に着いたら
ほぼ止んでいた。

== 下野本の寺や古墳を巡り辰濃文庫へ ==


 10時13分に東口をスタートして2階の駅舎から道路に下りると、今日の昼食地、辰
濃文庫ゆかりの辰濃和男(たつのかずお)さんが日本スリーデーマーチについて朝日新聞
の天声人語で記した、「楽しみながら歩けば 風の色がみえてくる」碑があった。
     

 その左手に新しい碑が目に入る。2015年にノーベル物理学賞を受賞した、東松山市
出身の梶田隆章(かじたたかあき)さんの受賞記念碑だった。
     

 線路に平行の道を南へ、近くのY字路で南東に進むと、長い間広大な空き地だったボッ
シュの工場跡地にビバモールを建設中で、鉄骨がほぼ完成していた。

    
 その東端の変則六差路から南への細道へ。民家の軒先にキノコの飾り物が並び、その先
の草地には大きなキノコが幾つも生えていた。


    
 今年は育ちが遅いのか、栗のいがはまだ緑色。近くの畑の隅のニラが花盛り。

 国道254号バイパス沿いを少しで国道の南に回り、向山集落を南に抜けると、かなり
色づいた水田が広がる。


 まずは、すぐ近くの清見寺(せいけんじ)に入る。

 上田能登守朝直が帰依(きえ)していた地蔵尊を安置して、元亀年間(1570~73)
に地蔵堂を建立したのが始まりのようだが、地蔵尊は確認できない。

 本堂左手に「市指定考古資料 清見寺心字座板石塔婆」の標柱がある。そばに三つ並ぶ
板碑の中央がそれらしく、鎌倉中期の建長元(1249)年造立のよう。



 東側近くで国道407号を横断し、すぐ先の無量寿寺へ。

     
 山門近くに「線香地蔵尊」のお堂があり、山門前に市指定文化財「野本館跡(のもとや
かたあと)」の説明板が立つていた。そばに黄色い花が咲く


 ここは、野本基員(のもともとかず)を初代とする野本氏一族の館跡。平安時代の公卿
藤原基経(836~891・堀川大臣)の警護をしていた片田基親の子が武蔵国野本に移
り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりのよう。

 基員は源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物
だという。

 館は現在、無量寿寺の境内地で、本堂の北側に土塁(どるい)と堀がわずかに残るだけ
だが、当時は二重の堀と土塁を廻した構造だったらしい。

 徳川家康が関東入国した天正19(1591)年には、寺領10石の御朱印状を受領し
ているという。


 寺の南側に、杉木立などに覆われたこんもりした森がある。県指定史跡・野本将軍塚古
墳で、県内第2位の前方後円墳とか。

 墳丘の全長115m、高さは前方部8m、後円部15mで、まだ学術調査がされてない
ので詳細は不明だが、5世紀終わり頃に造られたものらしい。


 後円部墳丘上に社殿があるが、何神社かは不明。南側の前方部上部には二つの忠魂碑が
立っていた。
     

  


 古墳前の県道345号を東へ、少し先に大きな流木を並べた中華料理店が。


 その東側には市の学校給食センターと埋蔵文化財センターの入る建物が目に入る。


 天神社の先から北東に進んで曲輪(くるわ)集落に入り、台地を背にしてうっそうとし
た木々に覆われた、了善寺境内へと石段を上がる。

 了善寺は、了海(天正17(1589)年没)が三河国に開山し、渡邊丹後守が当地を
知行(ちぎょう)時に三河から呼び寄せて移転したという。

 第10世住職の嵩俊海は日本屈指の漢詩人で、20歳の嘉永5(1852)年に「春桂
家塾」と呼ぶ学問所を開き、大正3(1914)年の閉塾までに門弟3千人を超したとか。

 その塾跡は市指定史跡になっていて、東屋(あずまや)のような建物が境内中段に残っ
ていた。

    
 本堂前のモミジの1枝だけが色づく。今日の担当のKさんが庫裡(くり)に挨拶に行っ
たら、ご住職夫妻が本堂を開けて下さり、上がらせてもらう。


 本堂は大正時代の再建とのこと。正面の梁は境内に立っていたというヒノキの太い一木
(いちぼく)で、立派な彫刻が施されていた。

 奥様は、女性登山の先駆者・坂倉登喜子さんと登山されたようで、エーデルワイスクラ
ブの会員だったのだろうか。

 寺の東南側に立つ火の見やぐらの横から背後の台地へ。傍らの曲輪集会所は、大正か昭
和前期の建築かと思われる貴重な建造物だ。



 寺の東側のザクロが色づき、墓地際にたくさんのハギが咲き競う。
    

                  
 近くの畑にヒャクニチソウが咲き残り、大きな栗の木にまだ熟しきらないイガたたくさ
ん付いていた。
    

 曲輪集落を東南東に進んで国道407号を横断し、等覚院の横を西から北へと回り込む。


 寺の背後一帯はまだ若葉のソバ畑が広がる。


 東松山市東南端の集落、古凍(ふるごおり)に入り、鷲宮大明神前を東へ。



 鳥居の横にはたくさんの花が咲き競い、近くにかやぶき屋根をトタンで覆った民家が。




 その先を北に入り、昼食地の辰野文庫に12時42分に着いた。

 辰野文庫は、朝日新聞「天声人語」を約13年間執筆した辰濃和男さんの蔵書約1万冊
を無料で貸し出す。ここは、昨年12月に死去した辰濃さんの遺族から寄贈された図書を、
吉見町の建築家、佐藤清さんが古い土蔵を改造して公開したもの。


 まずは、ベジダリアンランチやコーヒーなども味わえる大きな母屋に入り、休憩卓で昼
食をする。昼食後、母屋西側の土蔵にある辰野文庫を訪ねた。



 四周の壁面に並ぶ書棚には「水」「日本語 話す」「歩く」「新聞記者 芸能」「沖縄
 戦争 平和」「人物」などに区分された図書や、分類されてないものなどが並ぶ。
     

          





 
 中央のテーブルや2階にも少し蔵書があり、辰濃さんが13年にわたり執筆された「天
声人語」も目につく。入口横には、辰濃さんの写真と色紙も飾られていた。
    

         
 蛇足ながら、私は辰濃さんの著書「四国遍路」(2001年刊)を読んだ後の2004
年晩秋、初めての四国遍路の途中、辰濃さんが同書で紹介していた若い三味線奏者、月岡
由紀子(つきおかゆきこ)さんの演奏を、夜に高知県西端の村のホールで、翌日は県境に
なっている遍路道の峠上で聞いたことを思い出す。

 辰野文庫の前で記念撮影をして、13時40分に出発した。


 == 黄金色の田園や大沼を経てウオーキングセンターへ ==

 南側の県道345号に出て東へ、「国分牧場」と呼ぶ牛関連のレストラン前を過ぎ、市
町境の市野川(いちのかわ)の慈雲寺橋を渡り吉見町に入る。


 カモジグサかと思われる穂の出た草の並ぶ左岸堤防を400mほど進んで堤防を離れた。


 色づく田んぼの間を進むと、若木のブルーベリー畑にたわわについた実が熟していた。
    

    
  
 流れの突き当たりまで進んで東へ、最初の橋を渡り、少し先で折り返す。


 県営ほ場整備事業竣工記念碑のある用水池の角を曲がり、田んぼの間を1㎞ほど北へ、
左手に大きな貯蔵庫らしい建物が2棟見える。



 台地に突き当たり、県道27号を少し西進して東北に上がり、晴れ間が広がり蒸し暑く
なった天神沼西端の建物前で小休止した。


 西に延びる細道を進んで大沼の東岸に出た。沼を眺めながら南岸を進み、南吉見集落の
長源寺に入って再度小休止する。


 境内南側に、午前中にも見た白いキノコがたくさん傘を開いていた。


 南側の県道27号に戻って西へ、西日を正面から受けて暑さを感じる。丘陵上に見える
武蔵丘短大の下や、「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されている松山城跡下
を南から西へと回る。



 吉見百穴が間近な市野川の市の川橋を渡り、東松山市に戻った。市街地に入った県道を
西進して、ウオーキングの町東松山のシンボル、東松山ウオーキングセンターに入って最
後の休憩をする。





 さらに県道を西へ、下沼公園の南端から沼を見下ろし、ゴールの東松山駅に16時40
分に着いた。

(参加 11人、天気 曇後晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 東松山、歩行地 
 東松山市、吉見町、歩数 24,300)





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