ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て諏訪神社の方に行こうとしていました。
ひめちゃんが突然、「ウーワンワン、ウーワンワン」と吠え出しました。
獅子丸も合唱します
耳がピンと立って、警戒態勢です。
何がいるのでしょう?
人間の視界には不審者は見えません。
2名で警戒警報を出し続けています。
あ、いました
ずーと向こうの豚舎の影に、白い見慣れない離れ犬がいます。
白柴のタバサねーちゃんは、まだおうちのサークルにいたはずです。
離れ犬です
人間と一緒でない、一人で勝手にお散歩している子には、「不審犬じゃ、注意せよ」と、警戒するのです。
彼(?)が去った後、ひめちゃんたちは諏訪神社の前で左折して、山上城の西側の田んぼ道を下ります。
途中、2度犬に逢いましたけど、静かにすれ違いました。
城跡公園(三の丸)の南側の通路を通って、公園入り口に出ます。
元町橋を渡って帰ります。
橋のたもとの供養塔が、やはり目に付きます。
この供養塔は、元禄14年(1701)石の橋になった記念に建てられた橋供養の塔でした。
その永遠と思われた橋も、近年コンクリートの橋に架け替えられました。
その時、付近に住むSさんが、リヤカーにつんで石橋を持ち去ったという情報があります
田中藤左衛門が常廣寺にやって来たのは、正徳4年(1714)なので、彼は石の元町橋を渡っています
田中藤左衛門は、「竜骨伝記」の外に鑑定書というか、保証書というか、證書というものを残しました。
現在に伝わっているのは、なぜかその證書の写しです。
その證書の最初で、「この竜骨は祖先の木食屡睡(もくじきろうすい)から、相伝(代々受け継いだ)のものだ」と言ってます。
木食屡睡の発見の経緯を書いた文書(竜骨伝記)の日付は、宝永7年(1710)1月3日です。
普通に考えると、田中藤左衛門が竜骨を譲られたのが宝永7年(1710)です。
そして、常廣寺にやって来たのが、證書の日付から正徳4年(1714)です。
彼は手に入れてから4年しかたっていないのです
ちょっと仲人口かな
そして、だから「何の異地義納め申すべからず。」といいます。
「何の異地義」とはよく分かりませんけど、相伝の反対の意味のようです。
つまり、「先祖代々受け継いだものだから、おいそれと他人に渡すべきものではありません。」くらいの意味かな?
この発言は、竜骨に付加価値がかなり付きます
「そうであるけれども、後の時承るとも候所に、このたび持って行く所です。」
彼は竜骨をどこかに持って行く所だったのです。
後の時承るとも候所は意味が分かりません。
後の時とは、死後の世界のようでもありますけど。
ところで、田中藤左衛門はどんな格好で、元町橋を渡ったのでしょう?
『上野国志』で毛呂権蔵は竜骨の大きさを、「長さ二尺、頸の廣一尺五寸、其の状甚奇なり」と言ってます。
彼は実際に見たのです
まあ、ランドセルくらいの荷物でしょうか?
やはり背中にしょってきたのでしょうか?
この文書(證書寫)の次の文に、「我等禰宜(ねぎ)所持の間」とあります。
文字通りとらえれば、このとき田中藤左衛門は神職の端くれだった事になります
神仏混合の時代ですから、山伏とか修験者風のいでたちで、背中に彼らが背負う籠をしょってその中に竜骨が入っていたかも知れません
そうすると、常廣寺に寄りやすいし、信用も得やすかったことでしょう
ひめちゃんは、田中藤左衛門とは逆方向に元町橋を渡って、獅子丸家に寄ります
獅子丸とバイバイして、ひめちゃんちのアイリス畑に寄ります
今朝もきれいに咲いています
さあ、早く帰って朝ご飯にしましょう
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