最近ひめちゃんは、朝は蕨沢川(わらびさわがわ)の上流に行くことが多いです。
蕨沢川は常廣寺の脇を流れ、諏訪神社の脇も流れ、さらに遡ってます。
そのうちに、蕨沢川物語も整理するつもりですけど
久留美田橋を渡ってUーターンすると、赤柴ラッキーくんちを通ります。
ラッキーくんがちょうどお散歩から帰ってきました。
ひめちゃん&獅子丸は、初対面です
ラッキーくんとても穏やかに対応しています。
そのうちに獅子丸が「ウーワンワン、僕の方が強いんだぞ」と吠え始めました。
ひめちゃんは、もっと挨拶していたかったけど、獅子丸が止まりません
最初は情報収集していたけれど、どうもライバルだと思ったのでしょう。
「バイバイ、またね」
巧橋の所には、サクランボが鈴なりです。
このサクランボはどうなるのかな?
もう少し下ると、見たことある人影と犬影が見えました。
タバサねーちゃんとののこねーちゃんと小次郎パパが、おとうさんを連れて先を歩いています
田中藤左衛門證書考・続きです
「先祖代々受け継いだものだから、おいそれと他人に渡すべきものではありません。そうであるけれども、後の時承るとも候所に、このたび持って行く所です。」
と言ってます。
「後の時承るとも候所(のちのときうけたまわるともそうろうところ)」の意味はよく分かりませんけど、「後の時」が死後を意味すると、死後にお世話になるところとか極楽往生を願う所とかになりそうです
なんとなく赤城山を指しているようにも思えます。
そんななか先日あるウェブサイトで赤城山頂にある湿原・覚満淵(かくまんぶち)の由来になった覚満さんの事を知りました。
なんと覚満さんの、父は三條の藤左衛門の尉國満というそうです
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代に、上皇に味方して打ち殺されたそうです。
不思議な藤左衛門つながりです
「大切な宝物の竜骨を我ら禰宜が管理している時に、仙洞御所様(つまり上皇様)、女院様(皇太后?)、二条御所様や九条御所様(第一級の貴族ですね)、并(ならびに)御宮様方(皇族方)へ奉り御正覧に入る。」
皇族や第一級の貴族に持って行って見せたのですね。
そうしたら、後(のち)褒美(ほうび)成り下され候。
あとでご褒美をくれたのです。
何をもらったのか、書いてありません
龍骨之儀に有りて候ふ間、大切に御守成可(なすべ)く候。
これは竜骨なので大切にお守りしてくださいという事です。
屡睡より傳来せる本状を添え、ここに納め令(し)むる者なり。
木食屡睡から伝わった文書を添えて納めます。
後の證(あかし)と為すこと如件(くだんのごとし)
前記のとおり証明します。
正徳四年午(うま)七月日
1714年は午年です。
7月は8月と考えると、真夏にやって来たのです
正親町三条大納言家田中籐左衛門定芳(さだよし) 花押(かおう)
正親町(おおぎまち)三条大納言家の家人・田中籐左衛門定芳(さだよし)とは、田中籐左衛門は正親町(おおぎまち)三条大納言家に仕えていた事になります
サインもあったのです
上野州勢多郡前橋領山上村常廣寺
江戸時代、山上村は前橋藩領だったのです。
田中藤左衛門の履歴は本当でしょうか?
本当だとすると、焼けて堂宇のない寺にはりっぱすぎるお客様です
京都での話は確かめようもありません。
懇願されてしかたなく、常廣寺に納めたように見せかけています。
もうすでに商才をいかんなく発揮しています
常廣寺では、竜骨を削って売っていたと伝わっています。
でも大正12年1月1日に焼け落ちるまで、竜骨はしゃれこうべのようなその形を保っていたとも言います。
田中藤左衛門も大切に守りなさいと言いました。
常廣寺で削って売っていて、万病にきいたのは何だったのでしょう?
やがて、辛口の銘酒「七ツ梅」で大成功をする田中藤左衛門のことですから、常廣寺に竜骨ビジネスの指南もしたことでしょう
竜骨伝記には、日向国(宮崎県)から来た蛇骨を取って商売をしている人が出てきます。
関西というか西日本では、竜骨ビジネスが行われていて、田中藤左衛門はそのノウハウを学んでいたかも知れませんね
何を売っていたのかな?
高津戸で常廣寺の和尚が大蛇を買ったという話が、まことしやかに伝わっています
まあ、体に毒ではない漢方系の何かでしょう
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