男は私の顔を見て、ごく人のよさげな笑みを浮かべると、右手を差し出した。
「はじめまして、ジョセフ・コールといいます。お会いできて光栄です、カール・リンツ博士。いえ、リンツ教授とお呼びすべきでしょうか、それともリンツ伯爵と?」
私の肩書きを一つならず挙げたところをみると私のことはそれなりに調べがついているようだ。
こちらはといえば心の整理さえろくについていないというのに。
「ただ、教授と」
それだけをいって彼の右手を握り返そうとして、もし彼が握った手を離そうとしなかったらという理不尽な恐れに囚われ、私は一瞬躊躇した。
「ご心配なく。今の私は無力な子羊にすぎませんよ」
私の心を見透かしたようにジョセフは穏やかにいった。
儀礼的な握手を交わしつつ、それはどうだろうかと私は訝しんだ。何しろ彼は二人目の鑑定医の耳朶を噛み千切っているのだから。
今も彼の両脚は椅子に鎖で繋がれている。
ジョセフ・コールは殺人者である。
わかっているだけで十二人の人間の殺害に関与している。その中には彼の妻であるシェリーと一人娘であるリンディも含まれている。
彼に関して厄介なのは彼には解離性同一障害、いわゆる多重人格の疑いがあるということだ。
カルテには現在ジョセフ・コールと名乗っている人物には四つの異なる人格が存在すると記されている。
論戦好きで極めて合理的、かつ冷淡な思考の持ち主であるジョセフ。残忍で粗野で自ら犯してきた行為を喜々としてしゃべるジェフリー。他人に対して盲目的なまでに従順なジェイミー。絶えずブツブツと呟きながら時折悪夢から覚めたように大声で喚くジョニー。
現行法では精神を病んでいる者を裁くことは出来ない。
そのため犯罪者が本当に病んでいるのか、それとも巧妙にそれを騙っているのか、見極めることはきわめて重要であり、かつ困難である。
鑑定医を患者の方から指名するなど聞いたこともない話だ。
もしそんなことが可能ならば、患者は誰だって自分が懇意にしている医者に鑑定を依頼するだろう。鑑定医の方だって自分の知己を鑑定することになれば、客観的な判断を下せるはずもない。そう、そのようなことはありえないはずだった。
だが、ジョセフ・コールはその無理を通した。一人目の鑑定医に完璧なまでの黙秘権を行使し、二人目の耳朶を噛み千切り、三人目に私以外の人間が来ることがあれば、その鑑定医を殺すと宣言することによって。
当局はその脅しに屈してしまったというわけだ。
「どうして私に鑑定の依頼を?」
当然ともいえる私の質問に、彼は軽口でも叩くような口調で答えた。
「教授の著述に深い感銘を受けましてね」
ジョセフは二つ、三つ私の書いた本のタイトルを挙げた。
私の本はお世辞にもベストセラーとはいえない。一般大衆に支持を受けるような内容ではなく、専門家には殊の外評判が悪い。
私は苦笑しながら尋ねた。
「この道に入って、もう三十年近くになるが、私の本の愛読者に会ったのはこれが初めてだよ。教えてくれないか、どこが面白かった?」
ジョセフは面白くもなさそうに答えた。
「面白いとはいってません。感銘を受けたと」
「ではどこに感銘を?」
「貴方の本は他の奴らの書いた似非とは違う」
「光栄だ。どう違う?」
ジョセフはじっと目を細めて、私を見た。
「奴らはただの知ったかぶりだ。外側から眺めて、わかったふりをしているに過ぎない。読んでいて、胸が、ひどくむかつく。反吐が出る」
一瞬彼の顔が凶悪な殺人鬼のそれに変わる。
「私は違うというのか?」
「えぇ、全然違います」
ジョセフは打って変わってさもおかしそうに口元を歪めた。
「貴方は内側から物事を見ている。内側からだ。私にはそれがわかる」
彼は再び針のように目を細め、真顔でこういった。
「教授、貴方は人を殺したことがあるでしょう?」
面白くもない冗談だった。私は笑おうとして、しかし失敗した。
「何を根拠に…、そんなことを?」
「根拠などありませんよ。そんなものはいらない。なくてもわかる。同じ空気。同じ匂い。そういったものが貴方の書いた文章からはピリピリと感じられるのです。私にはわかります」
彼の断定的な口調に私はかろうじて反論した。
「愚かな質問だ。仮に、仮にだ、私が人を殺めたことがあるとして、それを君に正直に認めるとでも思うのかね?」
彼は表情を変えることなく、ただゆっくりと首を振った。
「いえ、教授。しかし考えてみてください、告悔するのに私以上の存在がいるでしょうか。何しろ私は精神異常者ですからね」
ジョセフは思いがけず優しく微笑んだ。
「牧師は、迷える子羊が打ち明けた懺悔の中身を、茶飲み話のネタの一つとして妻にしゃべる。お上品な奥様は昼間旦那のいない間にベッドの上で口も頭も軽い配管工にそれを伝える。後はもう、ネズミのように噂は広まるばかりだ!誰も止められない。誰も、誰も、誰も、誰もだ!!」
ジョセフの演説めいた台詞が狭い面会室の中でひどく響いた。私は息苦しさを覚え、ネクタイを緩めた。
「だが私は、少なくとも私には、そんな心配は無用だ。なぜなら私は精神異常者だ。私の言葉はすべて戯言であり、偽りである。誰も私の言葉に真剣に耳を傾けることはない。告悔するのにこれ以上の相手はいないでしょう。違いますか、教授?」
いつの間にか、私は奴の言葉に聞き入っていた。
「楽になります。例え誰であったとしても、長い間、胸の中にわだかまっていたものを吐き出せば、きっと楽になる」
ジョセフは囁くように小さな声で繰り返した。
「きっと、楽に、なる」
ジョセフの言葉はまるで安っぽい麻薬のように心地よく、同時にひどく吐き気を催した。
まるで悪魔の囁きだ。本当に楽になれるものなら…。だが…。
「人は、過ちを犯す。生きている限り、それこそ数え切れぬほどの。私も罪を犯した。人を殺すのと変わらぬ大罪を犯した。罪人だよ。到底償いきれるものじゃない。だが人は殺していない。嘘じゃない。本当だ」
ジョセフは私の言葉に落胆したようだったが、不思議とその顔から笑みが消えることはなかった。
「教えてください、教授。貴方の犯した罪とは何です?」
私はふらふらと立ち上がった。
これ以上、この部屋にいることも、彼の相手をすることも耐えられそうになかった。
やはりここに来るのではなかった。
「悪いが、君には言えない、ジョセフ・コール」
ジョセフは私の言葉に気を悪くする様子もなく、視線を宙に漂わせながら、そうですか、と呟くようにいった。
ドアのところまでたどり着いてから私は振り返った。
「ジョセフ、君ははじめましてといったが、私はどこかで君に会ったことがあるような気がしてならない。君には覚えがないかね?」
彼はこちらの方を見ようともせず、首を横に振った。
「いえ、残念ながら」
そうか、とだけ私はいって、面会室を後にした。
拘置所から一歩外に出るとそこには妻のエセルがいた。
妻はどうやって私が今日ここに来ることを知ったというのだろう。
そのことを尋ねようとして、だが結局彼女の真摯な表情に私は言葉を飲み込んだ。
「あ、貴方…。ジェイミーは、あの子は…」
エセルのすがるような視線に私は思わず顔を背けた。
「いや、ジェイミーには会えなかったよ」
私は妻にそう答えた。
了
*うおのめ文学賞ショートショート部門エントリー作品
「はじめまして、ジョセフ・コールといいます。お会いできて光栄です、カール・リンツ博士。いえ、リンツ教授とお呼びすべきでしょうか、それともリンツ伯爵と?」
私の肩書きを一つならず挙げたところをみると私のことはそれなりに調べがついているようだ。
こちらはといえば心の整理さえろくについていないというのに。
「ただ、教授と」
それだけをいって彼の右手を握り返そうとして、もし彼が握った手を離そうとしなかったらという理不尽な恐れに囚われ、私は一瞬躊躇した。
「ご心配なく。今の私は無力な子羊にすぎませんよ」
私の心を見透かしたようにジョセフは穏やかにいった。
儀礼的な握手を交わしつつ、それはどうだろうかと私は訝しんだ。何しろ彼は二人目の鑑定医の耳朶を噛み千切っているのだから。
今も彼の両脚は椅子に鎖で繋がれている。
ジョセフ・コールは殺人者である。
わかっているだけで十二人の人間の殺害に関与している。その中には彼の妻であるシェリーと一人娘であるリンディも含まれている。
彼に関して厄介なのは彼には解離性同一障害、いわゆる多重人格の疑いがあるということだ。
カルテには現在ジョセフ・コールと名乗っている人物には四つの異なる人格が存在すると記されている。
論戦好きで極めて合理的、かつ冷淡な思考の持ち主であるジョセフ。残忍で粗野で自ら犯してきた行為を喜々としてしゃべるジェフリー。他人に対して盲目的なまでに従順なジェイミー。絶えずブツブツと呟きながら時折悪夢から覚めたように大声で喚くジョニー。
現行法では精神を病んでいる者を裁くことは出来ない。
そのため犯罪者が本当に病んでいるのか、それとも巧妙にそれを騙っているのか、見極めることはきわめて重要であり、かつ困難である。
鑑定医を患者の方から指名するなど聞いたこともない話だ。
もしそんなことが可能ならば、患者は誰だって自分が懇意にしている医者に鑑定を依頼するだろう。鑑定医の方だって自分の知己を鑑定することになれば、客観的な判断を下せるはずもない。そう、そのようなことはありえないはずだった。
だが、ジョセフ・コールはその無理を通した。一人目の鑑定医に完璧なまでの黙秘権を行使し、二人目の耳朶を噛み千切り、三人目に私以外の人間が来ることがあれば、その鑑定医を殺すと宣言することによって。
当局はその脅しに屈してしまったというわけだ。
「どうして私に鑑定の依頼を?」
当然ともいえる私の質問に、彼は軽口でも叩くような口調で答えた。
「教授の著述に深い感銘を受けましてね」
ジョセフは二つ、三つ私の書いた本のタイトルを挙げた。
私の本はお世辞にもベストセラーとはいえない。一般大衆に支持を受けるような内容ではなく、専門家には殊の外評判が悪い。
私は苦笑しながら尋ねた。
「この道に入って、もう三十年近くになるが、私の本の愛読者に会ったのはこれが初めてだよ。教えてくれないか、どこが面白かった?」
ジョセフは面白くもなさそうに答えた。
「面白いとはいってません。感銘を受けたと」
「ではどこに感銘を?」
「貴方の本は他の奴らの書いた似非とは違う」
「光栄だ。どう違う?」
ジョセフはじっと目を細めて、私を見た。
「奴らはただの知ったかぶりだ。外側から眺めて、わかったふりをしているに過ぎない。読んでいて、胸が、ひどくむかつく。反吐が出る」
一瞬彼の顔が凶悪な殺人鬼のそれに変わる。
「私は違うというのか?」
「えぇ、全然違います」
ジョセフは打って変わってさもおかしそうに口元を歪めた。
「貴方は内側から物事を見ている。内側からだ。私にはそれがわかる」
彼は再び針のように目を細め、真顔でこういった。
「教授、貴方は人を殺したことがあるでしょう?」
面白くもない冗談だった。私は笑おうとして、しかし失敗した。
「何を根拠に…、そんなことを?」
「根拠などありませんよ。そんなものはいらない。なくてもわかる。同じ空気。同じ匂い。そういったものが貴方の書いた文章からはピリピリと感じられるのです。私にはわかります」
彼の断定的な口調に私はかろうじて反論した。
「愚かな質問だ。仮に、仮にだ、私が人を殺めたことがあるとして、それを君に正直に認めるとでも思うのかね?」
彼は表情を変えることなく、ただゆっくりと首を振った。
「いえ、教授。しかし考えてみてください、告悔するのに私以上の存在がいるでしょうか。何しろ私は精神異常者ですからね」
ジョセフは思いがけず優しく微笑んだ。
「牧師は、迷える子羊が打ち明けた懺悔の中身を、茶飲み話のネタの一つとして妻にしゃべる。お上品な奥様は昼間旦那のいない間にベッドの上で口も頭も軽い配管工にそれを伝える。後はもう、ネズミのように噂は広まるばかりだ!誰も止められない。誰も、誰も、誰も、誰もだ!!」
ジョセフの演説めいた台詞が狭い面会室の中でひどく響いた。私は息苦しさを覚え、ネクタイを緩めた。
「だが私は、少なくとも私には、そんな心配は無用だ。なぜなら私は精神異常者だ。私の言葉はすべて戯言であり、偽りである。誰も私の言葉に真剣に耳を傾けることはない。告悔するのにこれ以上の相手はいないでしょう。違いますか、教授?」
いつの間にか、私は奴の言葉に聞き入っていた。
「楽になります。例え誰であったとしても、長い間、胸の中にわだかまっていたものを吐き出せば、きっと楽になる」
ジョセフは囁くように小さな声で繰り返した。
「きっと、楽に、なる」
ジョセフの言葉はまるで安っぽい麻薬のように心地よく、同時にひどく吐き気を催した。
まるで悪魔の囁きだ。本当に楽になれるものなら…。だが…。
「人は、過ちを犯す。生きている限り、それこそ数え切れぬほどの。私も罪を犯した。人を殺すのと変わらぬ大罪を犯した。罪人だよ。到底償いきれるものじゃない。だが人は殺していない。嘘じゃない。本当だ」
ジョセフは私の言葉に落胆したようだったが、不思議とその顔から笑みが消えることはなかった。
「教えてください、教授。貴方の犯した罪とは何です?」
私はふらふらと立ち上がった。
これ以上、この部屋にいることも、彼の相手をすることも耐えられそうになかった。
やはりここに来るのではなかった。
「悪いが、君には言えない、ジョセフ・コール」
ジョセフは私の言葉に気を悪くする様子もなく、視線を宙に漂わせながら、そうですか、と呟くようにいった。
ドアのところまでたどり着いてから私は振り返った。
「ジョセフ、君ははじめましてといったが、私はどこかで君に会ったことがあるような気がしてならない。君には覚えがないかね?」
彼はこちらの方を見ようともせず、首を横に振った。
「いえ、残念ながら」
そうか、とだけ私はいって、面会室を後にした。
拘置所から一歩外に出るとそこには妻のエセルがいた。
妻はどうやって私が今日ここに来ることを知ったというのだろう。
そのことを尋ねようとして、だが結局彼女の真摯な表情に私は言葉を飲み込んだ。
「あ、貴方…。ジェイミーは、あの子は…」
エセルのすがるような視線に私は思わず顔を背けた。
「いや、ジェイミーには会えなかったよ」
私は妻にそう答えた。
了
*うおのめ文学賞ショートショート部門エントリー作品